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神ノ峰城跡

ページID:0041825 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月19日更新

神ノ峰城跡(かんのみねじょうせき) 1区域

戦国時代、下伊那の天竜川の東側を治めた旧族知久氏(ちくし)の城で、武田信玄に攻められて落城したといわれています。

区 分:飯田市史跡(昭和47年5月11日 市指定)

所在地:飯田市上久堅8168番 他

所有者:久堅神社 他

時 代:戦国時代

めいじじだいのかんのみね

明治時代の神ノ峰 飯田市立中央図書館蔵 『下伊那写真帖』(藤堂忠治 1914)より転載

概 要:

戦国時代、竜東(りゅうとう ※1)一帯を治めたといわれる知久氏の城といわれています。

知久氏は諏訪氏の一族といわれ、もともと上伊那地方に住んでいましたが、鎌倉時代に知久平(飯田市下久堅)へ移り住んだといわれています。その後、戦国時代により堅固な場所である神ノ峰に移ったといわれており、天文2年(1533)の記録に『神峯』と記されています。

天文23年(1554)、武田信玄(当時の名前は晴信)が下伊那に攻め入りました。多くの豪族は武田に従いましたが、知久氏はこれに抵抗したため、神ノ峰城は攻められて落城したといわれています。

この時、知久氏の領地はことごとく放火され、文永寺(ぶんえいじ ※2)も焼かれてしまいました。知久頼元(よりもと)父子は甲斐(山梨県)へ連れ去られ、処刑されてしまいました。

知久氏の中には武田氏に従った者もいる一方、京への逃れて復活の機会をうかがっている者もいました。

天正10年(1582)、武田氏が織田信長に滅ぼされると知久氏は復活し、知久頼氏(よりうじ)が徳川家康配下の武将として活躍します。しかし、天正12年(1584)に、浜松城(静岡県浜松市)で頼氏が謎の自殺をしており、知久氏は再び没落(ぼつらく)してしまいます。

知久頼氏の子、則直(のりなお)は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに徳川軍に加わっており、旗本(はたもと ※3)として知久氏を再興して阿島(下伊那郡喬木村)に陣屋(じんや ※4)を構えました。

※1 竜東:下伊那では、天竜川を挟んで東側を竜東、西側を竜西と一般的に呼んでいます。地理や行政上の正式な呼称ではありませんが、多くの人に親しまれている呼び方です。なお、戦国時代には「川東」との記載があります。

※2 文永寺:文永寺は文永元年(1264)に知久信貞により創建されたといわれ、武家関係では飯田下伊那最古の寺院です。皇室とのつながりも深く、室町時代、数代にわたり勅願寺(ちょくがんじ 天皇などによって願いがかけられ、国の平和や皇室の繁栄が祈られた寺)となった例は全国的にありません。

※3 旗本:江戸時代、将軍直属の家臣団のうち、石高(こくだか:土地の生産性を米の生産量に換算し、石という単位で表したもの)が1万石未満で、将軍と同じ儀式に参列できる身分(御目見 おめみえ)をいいます。

※4 陣屋:陣屋とは、江戸時代、城を持たない下級の大名や旗本などの館や役所などをいいます。

かんのみね

※ (くるわ):堀や土塁、切岸(人工的な急斜面)、柵などに囲まれた平らな空間をいいます。曲輪とも書きます。

※ 土塁(どるい):堤防状に土を盛った防御施設をいいます。

※ 切岸(きりぎし):人工的な急斜面で、登ることもはい上がることも大変です。

ここに注目!

天然の要害地(ようがいち)  -所堅固の城(ところけんごのしろ)-

伊那谷は雛壇(ひなだん)のように段丘が発達しており、城の多くはこうした段丘の縁を利用した「丘城(おかじろ ※5)」ですが、神ノ峰はこうした段丘から頭一つ突き出ている独立峰です。丘城のように、段丘に敵兵が陣取る心配もありません。

※5 丘城:山や平地など、城をその立地で分類したとき、段丘や小高い丘に築かれた城をいいます。丘の傾斜を守りに利用し、丘の平たん部に郭や堀などが築かれます。段丘が発達した伊那谷で多くみられる城です。

きょせき

神ノ峰城は、堀や土塁があまり発達していませんが、決して攻めやすい城ではありません。山の斜面は巨石が累々(るいるい)と重なる急斜面となっているため、あまり人間が手を加える必要がなかったからだと考えられ、「地の利」を最大限に活かした「所堅固の城」といえます。

堀

写真は郭2の東側の堀切です。

堀切や切岸などの遺構は、西側と比べて傾斜や高低差が緩やかな東側に多くみられます。城の中心から少し離れた場所にも、自然の尾根を断つ堀イが設けられており、付近には「キトワキ(木戸脇)」といった地名が残されています。

郭2が「本丸」、郭1が「出丸」という説明もありますが、最も安全な場所は郭1でしょう。

4の平らな場所に知久氏の館があり、その東側(図では下側)の洞に、麓から城へと続く大手道があったとみる研究者もいます。

秋葉街道の押さえ

ふもとには飯田と遠州を結ぶ秋葉街道(※6)が通過しています。単に攻めにくい地形というだけでなく、交通の要所を抑えた場所でもありました。

※6 秋葉街道:長野県と静岡県を結ぶ街道で、現在の国道152号とおよそ重なりますが、いくつもの脇街道がありました。飯田からは、松尾の八幡から下久堅知久平、上久堅を通り、小川路峠で伊那山脈を越えて遠山谷につながっており、現在の国道256号とだいたい重なります。戦国時代、武田信玄が遠州に攻め入る際に通過したともいわれており、江戸時代以降、火伏(ひぶせ)の神として知られている秋葉神社への参拝でにぎわいました。

 

城主が実際に住んだ山城は珍しい

山城の多くは水や食料など生活物資の確保が難しく、戦争の時だけ兵士が集まったり、逃げ込んだりしたもので、日常生活を送る場所ではありませんでした。

天文2年(1533)に知久氏を訪ねた京都の高僧の記録『天文二年信州下向記』に、僧侶が輿(こし)に乗って『神峯』を登山したことが記されています。神ノ峰は、知久氏が山頂付近に住んでいたことが古文書から判明している、極めて珍しい山城です。

 

神ノ峰にまつわる伝説・地名

神ノ峰城とその周辺には多くの地名や伝承が残されており、地域の人々から親しまれています。伝承の真偽は不明ですが、主なものを紹介します。

城跡内

篝岩(かがりいわ):郭1の北端(写真右下の岩)。かつて狼煙(のろし)を揚げたといわれる場所。

かがりいわ 

霧穴(きりあな)篝岩の下にある岩穴で、城が攻められた時にこの穴から霧がでて、神ノ峰をおおい見えなくしたという。

鞍掛岩(くらかけいわ):鞍(馬に乗るときに使う馬具)を掛けたという岩。

矢立岩(やたていわ):弓矢を立て掛けたといわれる。

やたていわ 

御手洗池(みたらしいけ):郭2の北側。干ばつでも枯れることがないといわれる。

御手洗池

天気池(てんきいけ):天気が悪い時には水が濁るという。

知久十八ヶ寺(ちくじゅうはちかじ):神之峰の周辺には、寺院とそれに関連した地名が多く残っており、次の寺が知久十八ヶ寺と呼ばれています。

法心院・坂尾寺・新慶寺・陽光寺・光福寺・普門院・龍源寺・興禅寺・永福寺・玉川寺・黙禅寺・是心寺・古寺・八王寺・山寺・小野寺・経山

現在も存在する寺院、古文書に登場する寺院もありますが、地名や伝承だけの寺院もあります。

このうち新慶寺(外部リンク)龍源寺(外部リンク)(長野県埋蔵文化財センターのウェブサイトです)の推定地では発掘調査が実施されており、中世の建物跡などが見つかっています。

○地名・字名:これらの他、北小ヤ・ミナゴヤ・キトワキ・寺ヤシキ・城・火振峠など、城に関係するとみられる地名・字名が残っています。

城跡の周辺

ジタジタ峠(飯田市上久堅下平)

神の峰とジタジタ峠

左の山が神ノ峰、右手の小高い場所がジタジタ峠で、間を秋葉街道と玉川が流れています。

武田信玄の家臣山本勘助(やまもとかんすけ ※7)は、玉川を挟んだ峠から神ノ峰を見て強引に攻めることをあきらめ、城内の飲料水を断つ作戦をとった。兵を玉川に配置して、城兵が水をくみに来たら攻めようとしたが、なかなか水をくみに来ない。そのうち、篝岩で馬を洗っている城兵の姿が見えた。実は神ノ峰の城兵は、玉川に武田軍がいるのを知っていて、白米を馬の背にかけ流して、遠くからは馬を洗うほど水が豊富にあるよう見せかけた。これに勘違いした山本勘助は地団駄(じだんだ)をふんで悔しがったことから、この峠をジタジタ峠といい、後世まで草木が育たなかったという。

※7 山本勘助:武田信玄の軍師(ぐんし)として有名な武将ですが、実在の人物か疑われていました。近年、「山本菅助」と記載された古文書がいくつも発見されたことから実在の人物と確認されていますが、その生涯や武田家中での立場は現在も研究が続けられています。

山本勘助物見の松(ジタジタ松 飯田市上久堅柏原)

知久氏を攻める武田軍の山本勘助は、柏原の一本松に登り神ノ峰を眺めると、天然の要塞で攻めにくいことを知り、松の上で地団駄をふんで悔しがったことから、ジタジタ松とか、物見の松といわれた。この松は昭和19年に枯れて、現在は3代目となる松が成長している。

大鹿のおばあさんの道案内

山本勘助は、家来を薬売りに化けさせて上久堅大鹿の民家を訪ね、「私は薬売りで、知久の兵隊に頼まれて薬を届けに来たが、武田軍に城が囲まれて入る道がなくて困っている。どこか道はないか。」といったところ、「あの城は三方は険しくなっているが、東の方からいくと楽にいける」と教えてくれたので、武田軍は東から攻めて神ノ峰を攻め落とすことができたという。

久七の案内

神ノ峰を攻めあぐねていた武田軍が久七という老人を捕まえて神ノ峰を攻める方法を聞いたところ、「西・北・南は急な山で攻めるには難しいが、東は平らな尾根がある」と案内したために、神ノ峰は落城したという。

提灯づるね(飯田市上久堅柏原)

物見の松から西に入ったつるね(尾根)をいい、山本勘助は神ノ峰を攻めるときにこの尾根にたくさんの提灯(ちょうちん)をともし、大軍がいるように見せかけたという。

城跡からの眺め

ちょうぼう

標高772mの神ノ峰からは、下伊那の大半を見ることができます。天竜川を挟んだ対岸には、飯田城や松尾城跡、鈴岡城跡などがよく見えます。昔は上伊那の汽車の黒い煙も見えたといいますから、戦国大名の支配下では通信基地の役割もあったかもしれません。

「かわりゆく 世に色かえぬ 松かぜの 音のみのこる 神のみねかな」

じゅつかい

神ノ峰の久堅神社の裏の巨石には、阿島知久氏初代則直の述懐(じゅつかい ※8)が彫られており、知久氏にとって大事な場所であったことがわかります(一部昔の仮名づかいが用いられています)。

※8 述懐:思い出や過去の出来事をのべること

神ノ峰?神之峯?神ノ峯?神之峰?

ここでは現地の説明板と同じ「神ノ峰」を使用してますが、地図や書籍によって用いられる漢字が異なっています。どの漢字が正式というのは難しいですが、戦国時代の『天文二年信州下向記』には「神峯」と記載されています。

神ノ峰城にはほかに、「床山城(とこやまじょう)」という呼称もあります。

交通・アクセス

○飯田ICより車で30分 駐車場有

○信南交通 市民バス久堅線「下平」「風張」 徒歩25分

 見 学

車で山頂まで行くことができます。

神社の境内地ですが、場所によっては滑落等の危険があります。

私有地への立入りにはご配慮をお願いします。

書籍等案内 ~もっと知りたい方へ~

『長野県の山城ベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均

『信濃の山城と館』第6巻 諏訪・下伊那編 宮坂武男

『天正壬午の乱』 平山優

『上久堅村誌』 上久堅村誌編纂委員会

『飯田市 鬼釜遺跡 風張遺跡 神之峯城跡 一般国道474号飯喬道路埋蔵文化財発掘調査報告書6 』 長野県埋蔵文化財センター

『下伊那写真帖』 藤堂忠治

いずれの資料も飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます。


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