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名勝 天龍峡(天竜峡)

ページID:0068304 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月16日更新
外観

天龍峡(てんりゅうきょう ※1) 1区域

区 分:名勝(昭和9年1月22日 国指定)

所在地:飯田市龍江・川路(龍江7574番1、川路4992番1 他)

所有者:飯田市他

概 要:

天竜川の浸食によって造りだされた、南北約2kmにわたる峡谷の美しい景観です。

奇岩断崖、アカマツやカエデ、サクラなど峡谷を彩る木々、天竜川の流れと川下り舟が水墨画のような峡谷美を織りなしています。

遊歩道を散策すると、四季折々の峡谷美を手軽に楽しむことができます。そして、天龍峡を余すことなく鑑賞するには、川下り舟が最適です。

天龍峡の名は、江戸時代の弘化4年(1847)4月29日、儒学者(※2)の阪谷朗廬(さかたにろうろ)が、岩を砕く激流と高い断崖の景観をほをほめたたえ、峡谷を流れる大河の名をとって命名しました。

※1 報道等では常用漢字の「竜」が用いられますが、指定時の名称は旧字体の「龍」が用いられています。文化財(名勝)の固有名詞としては「天龍峡」が正しい名称となり、本件の表題は検索用に記載しているものです。一方、JR駅名等では「天竜峡」が固有名詞として用いられています。

※2 儒学者:儒教について学び、研究し、実践する人をいいます。儒教とは古代中国の思想家孔子(こうし)の考え方を中心とした思想で、仁(他人に対する優しさ)による政治・道徳を説きました。

官報の記載

その内容について、官報では以下のとおり記載しています(固有名詞を除き、旧字体は新字体へ、片仮名は平仮名へ改め、句読点を加えています)。

天龍川の諏訪湖より南流して飯田町の南西約五キロメートル、川路、龍江両村の間を過くる処に片麻花崗岩より成れる最高約五十七メートルの懸崖相対峙して長さ約二キロメートル幅最広八メートルの峡谷をなせり。左岸西涯山上に坂谷朗廬の探勝記を刻せる碑あり。姑射橋の上流には右岸にさぶり岩、烏帽子岩、鷹待涯あり、下流には右岸にてらてら淵、千疊敷岩、廂岩、冨士巻狩岩あり、左岸に吊し岩花立岩あり後者を一名龍角峯とし涯の最高処たり。世に橋を合せて十勝を算す。廂岩の上方赤松林の一帯を公園となし龍角峯の背後に接続せる林の平地をも亦公園とし峡谷を隔てて相対す。橋の上流二キロメートルなる処より龍角峯の下流に至る間に舟を上下せしむるを例とし、天龍峡下りといいて前者と区別す。峡上一帯に互りて赤松茂生し山桜、楓樹、躑躅其の間に点綴す。」

この中で、花崗岩からなる峡谷であり、天龍峡碑、十勝、公園、舟下り、アカマツやサクラ・カエデ・ツツジなどについて述べています。以下に名勝天龍峡について解説します。

解 説:

1 見どころ

 峡谷の深さ・荒々しさ四季の移ろい天龍峡十勝

2 天龍峡を見てみよう

 川下り舟から遊歩道を散策主なビューポイント天龍峡を彩る草木散策等にあたり(注意事項)

3 峡谷の成り立ちと歴史

4 アクセス

5 参考施設・サイト・文献など

見どころ

峡谷の深さ(高さ)・荒々しさ

中心部 奇岩・断崖と松が水墨画のような景観をなす 天龍峡中心部

fall 白い花崗岩の断崖に、植生が四季の変化をもたらす 峡谷中心部(龍角峯頂上より)

summer 川面付近からみると、迫りくる峡谷によって空が切り取られ、川と対になる(つつじ橋より

十勝 龍角峯 特徴的な奇岩や淵など10ヶ所に漢詩になぞらえた名が付され、十勝(じっしょう)と呼ばれている

四季の移ろい

spring ツツジが咲く天龍峡第一公園

雪柳 川岸の汀線(ていせん)沿いに咲くユキヤナギ 峡谷北端部

初夏 緑深まる初夏の天龍峡 姑射橋より

natu 夏は川下り舟の水しぶきが心地よい

aki 峡谷が錦絵となるのは11月中旬頃(龍角峯頂上より)

お藤山 お藤山の遊歩道

冬は草木の葉が落ち、色彩は消えますが、奇岩とマツの姿がより際立ちます。

ふゆ 降雪後は水墨画の世界。飯田で積雪するのは2・3月に1・2回あるかないか(つつじ橋より)

ふゆ 冬の川下りはコタツ付となる 

天龍峡十勝 (じっしょう)

十勝とは、峡谷の特徴的な奇岩や淵などのことで、漢詩風の名前がつけられています。明治の書聖と呼ばれた書道家日下部鳴鶴は、奇岩など形容と旧称からイメージされる場景を漢詩に詠み、新たに名をつけ、鑑賞のガイドとしました。

十勝には、その付近の岩肌にその名が彫られています。岩彫は日下部の書の写しを元にしたもので、素晴らしい筆跡です。それ自体も鑑賞の対象ですが、十勝の本体は奇岩や淵などで、岩彫ではありません。

天龍峡十勝 龍角峯の岩彫。「峯」は高さ5尺(約1.5m)に近い大きさです。

垂竿磯 (すいかんき)  旧称:さぶり岩

垂竿磯

川路側の北側、舟下りのコースよりも上流にあり、遊歩道から少し外れています。水位の上昇により水没したものを引き上げています。

漢詩意訳:

《太公望(たいこうぼう ※1)の釣した渭水(いすい ※2)のほとりはどんなところだったのか。あの厳陵(げんりょう ※3)の釣した瀬はどんな瀬であったのか。世には無数の釣の場所はあろうが、仙者(※4)はどんな所を求めて釣をするのだろうか。》

※1 太公望:古代中国の周の建国の功臣で、名は呂尚(りょしょう)といいます。周の文王が渭水のほとりで出会い、これが先君太公の待ち望んだ賢人であるといったところから太公望といわれます。文王に召されて周に仕え、武王のときに殷を滅ぼし周を建国する際に武功を挙げたとされます。

※2 渭水:中国の大河、黄河の支流の一つです。

※3 厳陵:古代中国の漢の人物、厳光(げんこう)のことです。若いころに後漢の光武帝となる劉秀とともに学び、劉秀が皇帝となると隠居し、畑を耕し釣をして暮らしたといい、厳光が釣りをした場所は厳陵瀬といわれています。

※4 仙者:仙人のことです。

烏帽石 (うぼうせき)  旧称:烏帽子岩(えぼしいわ)

うぼうせき

川路側の北にあり、舟下りのコースから外れていますが、遊歩道で付近まで近づくことができます。烏帽子とは、平安時代から近代にかけて男子がかぶっていた帽子です。

漢詩意訳:

《賑々(にぎにぎ)しい春の峡谷、この神仙境に春風が和やかに香っている。山桜の花びらが烏帽石を彩(いろど)っている。さながら、仙人たちの粧(よそおい)のようである。》

姑射橋(こやきょう)

姑射橋 初代姑射峡(明治15年〈1882〉 ケンブリッジ大学図書館蔵)

川路地区と龍江地区を結ぶ橋です。明治10年(1877)に龍江村戸長の澤柳善十郎らの尽力によって橋が架けられ、善十郎の居住地名から「大田橋」と呼ばれていました。日下部鳴鶴によって新たに命名された姑射橋は、奇岩断崖と並ぶ景観の一要素として価値が付けられました。現在の姑射橋は4代目のもので、命名当時の橋は残っていません。

漢詩意訳:

《姑射橋の上にやってくると、俗地上から隔たっていて、心が自然と休まってくる。どうしてあちこち尋ねまわる必要があろうか。この人間の世にも、不老不死の仙境はあるものだ。》

歸鷹崖 (きようがい)  旧称:鷹待崖(崖は山かんむりがない字)

帰鷹崖

「歸」は「帰」の旧字体です。川路側の姑射橋のすぐ南側にあり、姑射橋の歩道から見ることができます。

漢詩意訳:

《突風が夕煙(ゆうけむり ※)を巻きおさめて過ぎる。西日が静かに木立を照らしている。立派な鷹がどこからか突然巣に戻ってきた。この山中には小鳥の姿などはほとんど見られない。》

※ 夕煙:夕方に立つ煙、夕食の準備で立ち上る煙をいいます。

浴鶴巌 (よくかくがん)

龍江側の姑射橋南側、遊歩道沿いにありましたが、もともとの岩彫は崩落してしまい、現在は近い位置の岸壁に改めて文字が彫られています。

漢詩意訳:

《澄んだ流れには塵(ちり)ひとつ見られない。明るい月が流水の水底深く照らしている。時々見かけることである。鶴が飛んできて大きな岩のほとりで純白の羽毛を洗っているのを。》

烱烱潭 (けいけいたん)  旧称:てらてら淵・てらが淵

けいけいたん 水位が上昇したため、命名時とは様子が異なる。写真右手の岸壁に岩彫が見え、左手に淵がある。

「烱」は「あきらか」とも読み、光り輝いて遠くからも見えることで、「潭」は淵のことです。姑射橋南側の淵をいい、文字の印刻は川路側にあります。

漢詩意訳:

《どこまでも碧(みどり)に澄んでいるが、深いので底を窺(うかが)うことはできない。美しい淵は夜空に明るく見えている。誰がここに月がないからといって、他の場所に親しむことだろうか。星影がきらきらと輝いて照らしているだけで充分である。》

樵廡洞 (しょうぶどう)  旧称:廂岩(ひさしいわ)

しょうぶどう

「樵」は「きこり」と読み、「廡」は庇(ひさし)のことです。天龍峡第三公園付近にある、オーバーハングした岩をいいます。つつじ橋などから見ることができます。

漢詩意訳:

《両岸の切り立った岩は高い庇のようである。ここには酷暑の夏にも涼風が吹いている。どんな生活よりも、ここで樵の人となろう。この山中でみる夢の何と清らかなことか。》

仙牀磐(せんじょうばん)  旧称:千畳敷岩

せんじょうばん

仙とは仙人を意味する字ですが、ここでは数の千をあらわしたもので、広く平な岩という意味でしょう。川路側の天龍峡第二公園付近の崖下にありますが、現在は近づけません。

漢詩意訳:

《この大岩で一体誰が遊び休むのだろうか。ここは千人もの人が座ることができよう。私も家をひっさげてここに移り、猿や鶴を友として暮らそうと思う。》

芙蓉峒 (ふようどう)  旧称:富士巻狩岩、富士の巻狩

芙蓉とは富士山のことで、その容姿から、富士に例えられたのでしょう。つつじ橋のやや上流にありますが、現在は大半が水没しています。

漢詩意訳:

《遠い諏訪湖や高い山々の白雪、その清水や白雪が天竜に流れ入っている。何千年もこの冷たく澄んだ流水によって、この大岩は磨かれて白い芙蓉のようにここに存在している。》

龍角峯 (りゅうかくほう)  旧称:花立岩

龍角峯

谷底から垂直にそそり立つ塔状の巨岩で、天龍峡を代表する奇岩です。つつじ橋の少し上流、龍江側にあります。遊歩道が岩の頂部を通っており、峡谷の北半分を眺望できる休息所にもなっています。

漢詩意訳:

《筆を揮(ふる)って切立った岸壁に文字をなすと、淵の底から雲烟(煙)が湧きおこってきた。すると、たちまち不可思議なことがあらわれて、龍角のような巨岩が中天高くそそり立った。》

天龍峡を鑑賞してみよう

川下り舟から

舟 

天龍峡観光は川下り舟と共に発達してきた歴史があり、天龍峡の景色を鑑賞するには最適の方法です。川下り舟からの景色は、遊歩道から見る景色とは全く異なるものです。

断崖は川面から見上げるものとなり、峡谷の深さを実感することができます。十勝をはじめとする奇岩や水流、崖にしかみられない植物を間近にみることができ、天竜川の太い流れにもまれながら、刻々と変化する景色を楽しむのは、川下り舟ならではの楽しみです。峡谷の合間に残された空が川のようであり、激流を下るスリルも楽しめます。

また、舟に乗ることで自身も名勝の景観の一部になることができ、飯田市無形文化財に指定されている操船技術も見どころです。

その歴史は、明治時代の時又港から浜松市までの定期客船に始まり、大正時代には天龍峡の遊覧を目的とする舟下り舟として定着しました。

天龍峡での舟下りについては、下記事業者へお問合せ下さい。

天竜川ライン遊舟有限会社(外部リンク)

遊歩道を散策

天龍峡 散策マップ (PDFファイル/12.33MB) (北が下を向いています)

遊歩道 新緑の遊歩道を散策

遊歩道の散策は手軽に名勝を鑑賞することができます。断崖を見下ろす形になり、高度感を味わいたい方、植物などの姿をご自身のペースで楽しみたい方、写真を撮りたい方に適しています。

そらさんぽ 三遠南信自動車道天龍峡大橋の下を通るそらさんぽ天龍峡

峡谷の東西に遊歩道があり、両岸は北の姑射橋、中央のつつじ橋、南のそらさんぽ天龍峡によってつながっているため、天龍峡全体を8の字に周遊できます。

移動時間は、ゆっくり遊歩道を歩いてかかる時間の目安です(以降同じ)。

北半部1周:約50分

南半部1周:約80分

天龍峡全周(8の字):約130分

主な視点場

姑射橋 (こやきょう)

姑射橋 

手軽に名勝の価値が凝縮した中心部を見渡すことができます。

JR天竜峡駅から徒歩1分、よって館天龍峡から徒歩10分。

天龍峡第二公園

公園内はツツジ・アジサイ・モミジなどが季節ごとに彩りを与えています。川岸寄りの一段高い小山の上に、天龍峡を命名した経過を記した天龍峡碑が建てられています。

JR天竜峡駅から徒歩10分、よって館天龍峡から徒歩2分。

天龍峡碑 高さ約4.2m、幅約0.9m

天龍峡碑(漢文) (PDFファイル/139KB)

天龍峡碑(書下し文) (PDFファイル/143KB)

天龍峡碑は小山のさらに一段高い位置にあり、現地で碑文を読みにくいほどの場所ですが、天竜川の対岸から見るとその存在感に気付かされます。

江戸時代の弘化4年(1847)、学友である飯田藩出身の丸山仲肅を訪ねた阪谷朗廬(さかたにろうろ ※)は、関島松泉(下川路村郷医・文人)の案内で、まだ無名の天龍峡を訪れました。関島松泉との文学談義の中で峡谷が未命名であることを知ると、これを「天龍峡」と命名し、峡谷を賛美した『遊天龍峡記』を残しました。

文中で阪谷朗廬は、峡谷の深く険しい姿とその間を流れ下る天竜川の激流を詠(よ)み、峡谷内の木々や、水の青さをたたえ、峡谷から見上げた空を川の流れに対比させ、その美しさを述べています。また、ツツジの赤い花が崖面に点在する様や、老松を頂く龍角峯の雄大さを描写しています。天龍峡記は文学的にも優れており、峡谷美を世に知らしめた最初の作品でもあります。

天龍峡第三公園南側遊歩道

視点場 

龍角峯の正面に位置しています。

JR天竜峡駅から徒歩12分、よって館天龍峡から徒歩5分

つつじ橋

つつじ橋

峡谷中部の吊り橋で、空中から峡谷中心部と南部、すぐ近くに龍角峯をみることができます。揺れますのでご注意下さい。

JR天竜峡駅から徒歩15分、よって館天龍峡から徒歩10分。

龍角峯 頂上

龍角峯

左岸にある十勝の一つ、龍角峯の頂上です。峡谷の中心部と南部を見下ろせます。また、対岸の天龍峡第2公園に遊天龍峡記を、その崖の中に天龍峡で最大のポットホールをみることができます。

JR天竜峡駅から徒歩20分(左岸経由)、よって館天龍峡から徒歩18分

峡谷北端部

彼岸桜

姑射橋より上流にあって、遊歩道で行くことができます。峡谷の入口部になり、峡谷とは対照的な広い氾濫原と、その先に伊那谷の特徴でもある段丘や中央アルプスの峰々を見ることができます。春、いち早く彼岸桜が咲き、続いてユキヤナギが対岸の汀線(ていせん)沿いに咲く様子が良く見えます。

JR天竜峡駅から徒歩10分、よって館天龍峡から徒歩25分

お藤山(おふじやま)

おふじやま

よって館天龍峡(飯田市名勝天龍峡ガイダンス施設)と天龍峡パーキングエリアの間の遊歩道にあります。緑が豊かで開けた天龍峡南部の峡谷を見ることができます。

JR天竜峡駅から徒歩20分、よって館天龍峡から徒歩5分

そらさんぽ天龍峡

そらさんぽ天龍峡

令和元年(2019)に開通した三遠南信自動車道天龍峡大橋(延長280m、高さ80m)の下に併設された遊歩道です。天竜川の峡谷は南下と共に深くなっており、天龍峡が三河高原を貫く大峡谷の入口であることを実感できます。

○管理上、昼間のみの供用となっており、夜間は閉鎖・施錠されますのでご注意下さい

○開閉時間:3月~10月 6時30分~18時  11月~2月 7時30分~16時30分

JR天竜峡駅から徒歩23分、よって館天龍峡から徒歩18分、天龍峡パーキングエリアから徒歩3分

龍東道(りゅうとうどう)

龍東道

伊那谷では、天竜川右岸を竜西、左岸を竜東と呼びならわしており、龍東道は川岸沿いの古道を利用した遊歩道です。天龍峡南部の豊かな森林や、天竜川に注ぐ紅葉川の渓相が魅力です。また、晩秋にも花が咲く四季桜が遊歩道近くに植樹されています。

宿泊施設

名勝天龍峡は観光地として発達してきたため、峡谷内に民間の観光施設が存在します。これらの施設は断崖上に設けられているため、入浴施設や飲食施設から絶景を楽しむことができます。詳しくは、天龍峡温泉観光協会のウェブサイト(外部リンク)等をご覧ください。

天龍峡を彩る草木

染井吉野 3月末~4月上旬 ソメイヨシノ(染井吉野) 天龍峡第一公園付近

年によっても異なりますが、3月末頃からヒガンザクラ(彼岸桜)が咲き始め、ソメイヨシノ、ヤマザクラ(山桜)、カスミザクラ(霞桜)、ヤエザクラ(八重桜)と続きます。

山桜 4月上旬 ヤマザクラ 天龍峡第3公園

ヤマザクラは伊那谷では希で、山桜と呼ばれるもののほとんどはカスミザクラです。ソメイヨシノは花が先に咲くきますが、ヤマザクラ・カスミザクラは、葉が先あるいは同時に出ます。

雪柳 4月中旬 ユキヤナギ(雪柳) 河川付近断崖

公園や庭木として知られていますが、自生地は全国的にも希少です。本来は、天龍峡のような川岸に自生していたものと考えられます。河川が増水した時の水位(汀線〈ていせん〉)に沿って分布しており、ソメイヨシノが散る頃に汀線にそって白いラインが浮かび上がります。

ミツバツツジ 4月上・中旬 ミツバツツジ(三つ葉躑躅) 姑射橋付近

ツツジは、名勝指定の官報にも記載されている天龍峡を代表する花といえます。ミツバツツジは飯田市の花「市花」でもあります。

山つつじ 4月下旬 ヤマツツジ(山躑躅) 第一公園付近

山吹 4月下旬 ヤマブキ(山吹) つつじ橋付近

フジ 5月上旬 フジ(藤) 姑射橋付近

天龍峡は近代の来日外国人が川下り舟を利用することによって知られることとなりましたが、彼らが称えたのが岸壁に垂れる藤の花でした。

サツキ 6月上旬 サツキ(皐月) 姑射橋付近

ツツジとサツキは良く似ていますが、サツキ(皐月)は6月頃(旧暦の5月〈皐月〉)に咲きます。盗掘されやすく、品種改良も行われていることから、自生種はほとんど残っていません。

紫陽花 梅雨(6・7月) アジサイ(紫陽花) 天龍峡第三公園

ヤマユリ 7月中旬 ヤマユリ(山百合) つつじ橋右岸

花が大きく、ユリの女王とも呼ばれます。発芽から開花まで5年かかり、古い株ほ多くの花を咲かせます。天龍峡第一公園やつつじ橋右岸にみられます。

クヌギ 11月上旬 黄葉したコナラ・アベマキ・クヌギ 龍角峯上から

満天星 11月中旬 紅葉したドウダンツツジ 今村公園入口

ドウダンはきれいに紅葉します。古くから天龍峡の公園などに植樹されており、この種としては古木といえる樹齢80年のドウダンが多くあります。

かえで 11月中下旬 カエデ(楓) 今村公園

アカマツ・ツツジ・ヤマザクラと共に、名勝指定の官報に記載されている天龍峡を代表する植物です。

松 冬 龍角峯に生えるアカマツ(赤松)

松は奇岩断崖によく似合い、水墨画や山水画を彷彿とさせる風致景観を構成しており、「華」はありませんが天龍峡を最も代表する植物といえます。他の草木の葉が散った冬にその存在感を増します。

散策等にあたり

散策 龍角峯の上から撮影する来訪者

雨後は遊歩道が滑りやすのでご注意下さい。

倒木や崩落により、遊歩道が通行止めとなる場合があります。

以下の行為は禁止します。

○許可なく動植物や岩石や土砂を採取する、または傷つける行為

 ※下草刈りや枝払い、道普請など、日常的な管理は禁止されていません※

○柵を越えて公園や遊歩道から外れる行為、柵に登る行為

○吊り橋を意図的に揺らす行為

○橋などから物を落とす行為

○ロッククライミング・マウンテンバイク・オフロードバイク

○花火・バーベキュー

○私有地への無断立ち入り・無断駐車・路上駐車

○その他、景観と景観を構成する要素を棄損する行為、来訪者・地域住民の迷惑となる行為

天龍峡の現状を変更する場合には、許可が必要です。

峡谷の成り立ちと歴史

峡谷の誕生

天竜川は諏訪湖を源とし、数100万年前に流れ始めました。約175万年前に三河高原(※1)が隆起を始めると、天竜川は山地を削りながら三河高原を横断し、わが国を代表する先行河川(※2)となりました。

南アルプス(赤石山脈)と中央アルプス(木曽山脈)に挟まれた伊那盆地には、天竜川の氾濫原が広がりました。

三河高原の隆起運動は下流から上流へと波及し、天龍峡まで達しました。天龍峡から南側が隆起して先行河川となったため、深さ70m以上もある深い峡谷となりました。

峡谷部は主に花崗岩(※3)で出来ており、直方体のように割れやすい方状節理(※4)の性質があったため、サイコロ状に断崖が残り、帰鷹崖などの奇岩が造り出されました。また、峡谷でも特に強固な岩盤である苦鉄質岩を含む天龍峡花崗岩の部分は浸食に耐え、龍角峯をはじめとする奇岩になりました。

一方、天龍峡よりも上流では、大地の隆起と天竜川の浸食作用により、河岸段丘が形成されました。天龍峡周辺には、南側から順に低くなる数段の河岸段丘と、昔の天竜川の流れを示す窪地や島状の地形が残されています。また、峡谷の周辺には、天竜川が流れていたことを示すポットホール(※5)が残っています。

このような地殻変動の痕跡は、天龍峡の南側の小河川 所沢川(しょざわがわ)沿いに見ることができます。所沢川に沿って走る所沢断層では、本来深い位置にある岩盤の花崗岩が礫層の上に被さっており、南側が大きく隆起したことが分かります。

また、河岸段丘には分厚い粘土層が堆積しており、この粘土層に約10万年前に噴火した御岳山の火山噴出物が堆積しています。こうしたことから、大規模な地殻変動は約10万年前に起こり、その後も地殻変動が続いて氾濫原が陸化していったものとみられます。

※1 三河高原:木曽山脈から続く、愛知県東北部を中心とした高原状の山地をいいます。

※2 もともと川の流れがあった地域で土地が隆起しても、隆起よりも川の浸食力が強い場合は流路がそのまま残るため、山地を削ったV字谷のような渓谷ができます。このような渓谷を先行谷、川を先行河川といいます。

※3 花崗岩:マグマが地下でゆっくり固まった岩石で、一般には御影石と呼ばれています。天龍峡の基盤は以下の花崗岩等から成っています。

生田花崗岩 生田(いくた)花崗岩 白い長石と呼ばれる鉱物が目立つ。主に峡谷北部に分布。

天竜峡花崗岩 天竜峡花崗岩 長石(白い部分)がレンズ状に潰れている。峡谷中心部に分布。

苦鉄質岩 細粒苦鉄質岩 苦鉄質岩とは、色が着いた鉱物を多く含み、黒っぽい色をした岩石の総称。苦鉄質岩が天竜峡花崗岩に入り込み、一帯では一番固い岩石となる。峡谷中心部に分布、龍角峯頂上にて。

門島花崗岩 門島花崗岩 黒い鉱物が胡麻塩のように細かい。天龍峡下流部に分布。


方状節理 ※4 方状節理を示す花崗岩 姑射橋付近

※5 ポットホール:河床や海岸などで、岩盤のすき間に石が入り込み、水流で石が回転することにより、円形に削られた穴をいいます。

ポットホール 第三公園にあるポットホール。現在の河床とは70m前後の比高差がある。天龍峡の周辺にはポットホールが点在し、そこがかつて河床であったことを示している。

天龍峡の命名

天竜川は急流として知られており、舟による運送が知られるのは江戸時代になってからです。当時は天龍峡に特別な名称はなく、周辺の地名の「大田(おおだ)と、崖を表す当地方の言葉「ホッキ」を合わせて大田ホッキと一帯が呼ばれていました。

弘化4年(1847)、阪谷朗廬(さかたにろうろ)がこの峡谷に名前をつけました。

彼は江戸時代の儒学者で、知人を尋ねて飯田へ訪れました。この時、下川路村の医師、関島松泉(せきじましょうせん)の案内で天龍峡を訪れますが、峡谷に名がないことを知ります。そこで、天竜川に因みこの峡谷を天龍峡と命名し、峡谷の美しさを褒めた『遊天龍峡記』を残しました。この詩文が大正4年(1915)に第二公園へ設置された「天龍峡碑」に記されています。明治時代の初めの頃には、地元の人間も天龍峡と呼ぶようになったといわれています。

阪谷朗廬 阪谷朗廬(1822~1881)

関島松泉 関島松泉(1806~1888)

十勝の命名

明治15年(1882)近代書道の父といわれた書家日下部鳴鶴(くさかべめいかく)が訪れ、天龍峡を中国の神仙思想の聖地である藐姑射山(はこやさん)になぞらえ、峡谷の特徴ある奇岩や淵など10ヶ所に名をつけて十勝とし、鑑賞のガイドとしました。十勝は、奇岩などからイメージされる場景を漢詩に詠み、それにちなんだ漢詩風の名前です。

日下部の提案を受け、関島松泉により十勝の名が奇岩に岩彫され、翌年完成しました。

日下部鳴鶴 日下部鳴鶴(1838~1922)

全国に知られる天龍峡

江戸時代に物資運搬として発達した川下り舟は、幕末より客船として利用されました。中部高地から太平洋沿岸へ出るのには、天竜川の舟下りが最短コースです。明治時代に来日した欧米人により利用され、彼らの旅行記により天竜川の急流と舟下りが国の内外に知られるようになりました。

『明治日本旅行案内』 アーネスト・M・サトウ(1881)

『能登 ~人に知られぬ日本の辺境』 パーシヴァル・ローウェル(1891)

『天龍川の激流』 ウォルター・ウェストン(1896)

特に大正元年(1912)の英国国王名代のコンノート殿下一行による川下りは新聞を賑わせ、全国的に天龍峡が知られることとなりました。

来訪者が増えるにつれて、観光地としても整備されていき、明治41年(1908)に公園が設置され、明治43年(1910)には宿泊施設が開業、大正12年(1923)には遊覧船が運航を開始しました。

昭和2年(1927)に行われた「日本新八景」は、新しい時代の景勝地を各分野から選ぶもので、一般応募上位10位から有識者らが決めるものでした。天龍峡は地元の熱心な投票により、峡谷の部応募投票1位獲得(3,127,170票)を獲得しました。ところが選考の結果、八景から漏れてしまい、八景に次ぐ二十五勝に入ったものの、地元では主催者に対する反対運動まで起きました。しかし、これにより天龍峡の知名度が上がると共に、天龍峡の保存活動も活発になりました。

昭和3年(1928)の伊那電鉄 辰野―天竜峡間の開通は、観光客の増加につながりました。

こうした大衆の支持や学術的に景観が評価されたことから、昭和9年(1934)に国の名勝に指定されました。

天龍峡は、阪谷朗廬の命名に始まり、外国人や著名人の舟下りによって全国的に知られることになり、来訪者によって天龍峡を題材にした文化や芸術が生まれ、それによってさらに来訪者が増えて知られることとなったのでした。

主な天龍峡来訪者 ( )内の数字は来訪初年(西暦)

皇族

・東久邇宮稔彦親王(1914) ・北白川宮成久王(1916) ・ 皇太子・皇太子妃殿下(当時 1969)

旅行家・登山家

・ヘンリー・ギルマール(英国  1882) ・パーシヴァル・ローウェル(1889) ・ウォルター・ウェストン(英国 1891) ・小島烏水(1908)

臼井秀三郎 天龍峡最古の写真(英国 ケンブリッジ大学図書館蔵)

ヘンリー・ギルマールは明治15年(1882)10月10日、時又港を舟下りで出発し、途中写真を取りながら遠州へ下りました。この時の写真が天龍峡最古の写真と考えられており、彼に同行した日本人技師 臼井秀三郎が撮影しました。

書家・儒学者

・阪谷朗廬(1847) ・巌谷一六(1895) 

画家・美術作家

 ・横山大観・菱田春草(1901) ・富岡鉄斎(1903) ・中村不折(1936) ・河合玉堂(1937)

作家・詩人・歌人・作曲家・文学者

・北原白秋(1919) ・巌谷小波(1920) ・白鳥省吾(1924) ・斎藤茂吉(1926) ・中山晋平(1928) ・平林たい子(1931) ・島崎藤村(1933) ・長田幹彦(1934) ・志賀直哉(1945) ・吉川栄治(1952) ・井上靖(1953)

役者・演出家・歌手

・七代目市川團十郎(1841)  ・市丸(1934) ・岸田國士(劇作家 1946) ・三国連太郎(1957)

学者・研究者

・和辻哲郎(1922) ・本多静六(1928) ・新渡戸稲造(1929) ・久松潜一(1932)

政治家・軍人

・尾崎行雄(1899) ・上村彦之丞(1913) ・後藤晋平(1926) ・田中義一(1926)

官僚・報道関係

・徳富蘇峰(1930) ・国府犀東(1932)  

天龍峡と関係の深い文化芸術作品 (上記以外)

紀行文

・『遊行やまざる』市川白猿 1841 ・『遊天龍峡記』阪谷朗廬 1847 ・『天龍下り』ハリ・オウラーク 1906 ・『天龍川』小島烏水 1914 ・『初夏の天龍峡』巌谷小波 1921 ・『天龍川を下る』和辻哲郎 1922

小説

・『天龍河畔より』葉山嘉樹 1934

漢詩

・『十勝』日下部鳴鶴 1883 ・『天龍峡十二絶』巌谷一六 1895 ・『天龍峡歌』国分青崖 1930  ・志賀重昂 ・国分犀東

短歌・俳句

・太田瑞穂 ・島木赤彦 ・斎藤茂吉 ・今井邦子 ・尾上柴舟 ・河合玉堂 ・香取秀真 ・斎藤瀏 ・佐々木信綱 ・中原綾子 ・三木清 ・並木秋人

・萩原井泉水 ・臼田亜浪 ・富安風生 ・松本たかし ・前沢一球 ・北原痴山

歌謡

・『龍峡小唄』作詞:白鳥省吾 作曲:中山晋平 1928

・『天龍下れば』作詞:長田幹彦 作曲:中山晋平 歌手:歌丸 1933

絵画

・『天龍峡図』田能村直入 1892頃 ・『信濃天龍峡図』安藤耕斎 1934

その他

・『天龍峡焼』(陶芸)1902頃~  ・『天龍峡賛辞』(扁額)新渡戸稲造 1929

昔の天龍峡に

昭和10年(1935)、天龍峡の6kmあまり下流に泰阜ダムが完成しました。これにより天竜川の水位が徐々に上昇し、奇岩断崖の一部が見られなくなりました。

また戦後、生活様式の変化で里山の資源が使われなくなると、段丘や断崖の植生も変化し、マツに変わって照葉樹やタケなどが繁茂するようになり、やはり花崗岩の岩肌が埋もれてしまいました。

mukasi 水流が荒々しく、岩とマツが目立つ天龍峡の古写真

こうしたことから、飯田市などでは河川堆積物を除去して天竜川の水位を元に戻し、森林を整備してかつての風致景観に戻す事業を行っています。

アクセス

○三遠南信自動車道 天龍峡ICより車で2分(よって館天龍峡まで)

○駐車場あり(天龍峡中央駐車場〈天龍峡第一公園西〉他)

○JR飯田線「天竜峡駅」 徒歩1分(姑射橋まで)

関連サイト・参考文献など

よって館天龍峡(飯田市名勝天龍峡ガイダンス施設)

天龍峡温泉観光協会(外部リンク)

天龍峡温泉交流館 ご湯っくり(外部リンク)

南信州ナビ(外部リンク)

天竜ライン下り(外部リンク)

名勝天龍峡保存管理計画』 飯田市教育委員会 2010

天龍峡のブックリスト(文献一覧 飯田市立図書館)(外部リンク)

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