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黒田人形座 [黒田人形、その歴史]

ページID:0098793 印刷用ページを表示する 掲載日:2022年9月12日更新

発 祥

黒田では元禄年間(一六八八~一七〇三)に、正命庵にいた正嶽真海という僧侶が「隣家の壮年に義太夫三味線人形の芸を教え、衆人集まってこれを習い、道具も追い追い買い求め、自然と村中携わる様になり、産土の境内に六間に三間半の舞台を新築して、例祭に御神楽の替わりとして人形を以て興行し祭祀いたす事に同意し…」と言う明神講の文書記録があり、その頃には既に人形芝居がおこなわれていたことがわかる。

元禄年間(一六八八~一七〇三)から享保年間(一七一六~一七三五)にかけて全盛をほこった人形芝居も、新しく起こってきた歌舞伎におされてしだいに衰え、人形遣いは新しい生活の場所を求めて、淡路や大阪から地方へ散って行った。淡路や大阪から来た人形遣いが、黒田に住みついて指導をして、芸が本格的になった。

その人形遣い(吉田重三郎、桐竹門三、吉田亀造)の墓は、下黒田の太念寺にある。

黒田人形は、伊那谷で最多の百点を超えるかしらを保有している。なかに元文二年(一七三七)山城大野村(現在の京都府木津川市加茂町大野)竹本松穂作という老け女形のかしらがある。全国で最も古い銘をもつかしらといわれている。

 

黒田の歴史

◆ 元禄年間(一六八八~一七〇三)に黒田の正命庵にいた正嶽真海という僧侶が人形芝居を教えていたという明神講記録がある。(よって三百余年の歴史になる)

◆ 宝暦年間(一七五一~一七六四)になって、六間×三間半の舞台を下黒田の神社境内に新築。

◆ その後三十年余り経た寛政年間(一七八九~一八〇〇)に、淡路から吉田重三郎が来た。氏は「道薫坊伝記」をも持参し感嘆させる芸もあり、懇願されて定住し指導。(文政四年(一八二一)に没。黒田の太念寺に墓)

◆ 天保三年(一八三二)桐竹門三と吉田亀造が同じ頃に大阪から黒田へ来て定住し指導。(嘉永六年(一八五三)、安政二年(一八五五)に没、太念寺に墓)

◆ 同十年(一八三九)、築後九十年経た旧舞台取り壊す。

◆ 同十一年(一八四〇)、八間×四間の総二階建ての現舞台を建築。(この舞台が昭和四十九年(一九七四)、国の重要民俗資料として重要有形民俗文化財に指定を受けた)

◆ 同十二年(一八四一)神社祭礼に芝居見世物を禁ずる条項のある「天保の改革令」がでた。

◆ 同十三年(一八四二)八月 黒田の人々は禁止令の下を隠れて人形による祭礼を行い、飯田藩の手入れを受け城内に引き立てられ、以後は人形禁止をきつく受けた。

◆ 弘化二年(一八四五)九月 黒田人形の禁が解かれ以前にも増して盛大になった。

◆ 明治十三年(一八八〇)文楽座にいた吉田金吾が、宮田村に定住し、毎年一月には黒田に一ヶ月も滞在して教え、黒田人形として初めての興行を自ら座頭となって黒田人形を引き連れ、飯田の松尾町の琴水亭という寄席で十日間興行し、連日満員の盛況であった。また、人形芝居や人形彫刻にも優れ、彼の作になるかしらが多い。

 

人形芝居は伊那谷各地に生まれ、明治初年頃には上伊那郡で上古田、殿島、太田切、横前、下伊那郡で鹿塩、福与、河野、今田、下村、金野、新野、早稲田、桐林、伊豆木、山村、竹佐、清内路、黒田、田村と十九座の多さを数えることができる。しかし明治になって見世物興行に鑑札制度が設けられたことや地芝居の流行に追われて次第に廃滅し、現在は人形を所蔵するところ十か所、そのなか、上演を続けているところは、古田、黒田、今田、早稲田の四か所にすぎない。

 

◆ 昭和二十八年(一九五三)黒田人形保存会を結成。

◆ 同四十八年(一九七三)高陵中学校に黒田人形部誕生。

◆ 同四十九年(一九七四)「下黒田の舞台」が国の重要民俗資料として重要有形民俗文化財に指定を受けた。日本最古・最大の人形芝居専用の舞台。

◆ 同五十年(一九七五)「伊那の人形芝居(黒田、今田、早稲田)」として飯田下伊那の三つの人形芝居がひとまとめにして国の無形民俗文化財に選択された。

◆ 平成十一年(一九九九)国から選択されている無形民俗文化財である伊那の人形芝居の研修や後継者の育成、また伊那谷四座(黒田、今田、早稲田、古田)での交流・発表の場とし、さらに地域密着型の施設として地域と一体となった活用をする施設として、下黒田諏訪神社境内隣接地に飯田市が新築。名称「黒田人形浄瑠璃伝承館」。

 

このように、先人たちが度重なる危機を乗り切って今日まで永々と継承してきた礎があって、今ここに全国にも誇り得る郷土伝統芸能「黒田人形」の現在がある。

 

黒田人形豆知識

人形の遣い手とその役割

(1)「黒田人形」は、一つの人形を三人で動かす「三人遣い」です。
 主遣い(しん)
 左遣い(さし)
 足遣い(あし)

(2)黒衣(くろこ)
 黒田人形の遣い手は全身を黒い衣裳で隠します。
 一方、主遣いのみが顔を出すのを出遣いといい、今の文楽で見られます。

(3)人形の動き
 「手」や「型」といって定めた動かしかたがあります。
 歩き方も男(たち)と女(がた)では違った決まりがあります。

(4)人形の遣い方
 三人遣いは人形芝居の全盛期であった享保十九年(一七三四)に、竹本座ではじめて行われたと伝えられています。三人遣いは主遣い、左遣い、足遣いの三人で一体の人形を遣います。

・主遣い
 主遣いは人形の衣裳の背中にある穴から左手を入れて、首のしたに続く胴串を持って人形の姿勢をつくります。この胴串へは人形の重量の大部分がかかってくるので、鎧武者や大きな人形の場合は、支えるだけでもかなり重く大変です。手が疲れると人形の姿勢が崩れやすくなりますが、そこをこらえて姿勢を保たなければなりません。その上で人形の上半身と頭の動き一切を左手で操り、右手は人形の衣裳の右袖の中へ入れて右手を遣い、ときには、息竹という竹を握って人形が大きく肩で息をする表現もします。文字通り主遣いは三人のうちの主役となっています。

・左遣い
 右手で人形の左手を操ります。この場合、主遣いや足遣いの邪魔にならないよう、左手の肘に長い棒(差金という)が付いていて、その棒を右手に持って遣います。ちょっとしたリモートコントロールです。

・足遣い
 人形のかかとの後に取り付けてある逆L字型金具(足金)を持って足を動かします。但し、女の人形は特別なもの以外に足はありません。この場合、足遣いは長い衣裳の裾を持って足の動きを表現します。足遣いは陰の役者でありながら、実は人形を活かしていく重要な役割を担っています。このため、役によっては足遣いに一番熟練の遣い手がまわる場合もあります。