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近代学校の成立―政策と地域― 多和田真理子(調査研究員)

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年6月3日更新

政策と地域

郷学校の設置と「学制」

 近代学校制度は明治5年8月の「学制」にはじまると言われます。現在私たちが考える学校の基本的なイメージ、たとえば「六歳になれば学校に行く」、「特別な理由がなければ義務教育を受ける」、「教育が年齢と程度に応じて段階的に組織される(小学→中学→大学)」といったことはこの「学制」によってはじめて制度化されたものです。

 一方、「学制」が出される以前から、寺子屋や私塾とは違った「郷学校」と呼ばれるものが、全国各地で設置されていたことも知られています。幕末維新期には社会の情勢が不安定になっており、人々の知的関心も高まっていたため、各地の藩や県が独自に新しい学校の設立を模索していたのです。当時の筑摩県(安曇・諏訪・飛騨・伊那を管轄)では明治5年2月に「学校創立告諭書」を出し、民衆が学資を出して地域に学校を設立するよう求めました。その結果、県内各地には「小校」と呼ばれる学校が次々と設立され、「学制」が出された頃にはすでに100校を数えようとしていました。
 「学制」発布をうけ、明治新政府の学校政策をどう解釈して具体化するかという地方の反応は様々でした。旧長野県(現在の東信・北信)では政府の出した指令どおり、それまでの学校を、寺子屋・私塾・郷学校も含めてすべて廃止し、まったく新しい学校を設立し直そうとしました。それとは対照的に、筑摩県では寺子屋・私塾を廃止しましたが、既に設置していた「小校」は廃止せず、近代小学校にふさわしい形へと変貌させる政策をとりました。

『説諭要略』にみる近代教育の姿

 この頃の筑摩県権令は、薩摩出身の永山盛輝でした。永山は「教育権令」と呼ばれるほど学校設立に熱心に取り組み、地域の実情を知るために自ら県内を歩いてまわり、民衆の古い風習を批判して新しい知識を教え、学校設立を呼びかけました。永山が明治七年の四月から五月にかけて諏訪・伊那地方に巡回した時の様子を、一緒に巡回した学事掛の長尾無墨が『説諭要略』という書物に記しています。下伊那では飯田学校の他、下市田、上郷、座光寺、山本、阿島、河野などで見聞きしたことが記されています。
 この巡回の時には、永山盛輝、長尾無墨の他に、教員の飯田正宣と児童数名が同行しました。行く先々の学校で、近隣の村から戸長・副戸長、学校世話係などを呼び寄せ、飯田が一緒に来た児童たちに模擬授業をしたようです。『説諭要略』の中に、座光寺の学校で行われた模擬授業の記述があります。それを読むと、飯田らが村の人々に見せた授業がどんなもので、どういう印象を与えたかが垣間見えます。
 まず飯田正宣は、生徒の前で「学制」の趣旨を説き、これからは為になる学問をするようにと諭します。ぐるっと教室を見回すと、様子を見に来ている村人たちが揃って昔ながらのちょんまげ姿をしているのに気づきました。そこで飯田は、「単語篇」という教材の絵図(身近な単語を絵で説明したもの)を掲げました。その「頭」のところを指して「なぜこの絵に描かれている人物の髪は短いのか」と、連れてきた生徒の一人に尋ねました。その絵には、短髪を横分けにした男性の頭が描かれていたのです。生徒が「無駄を省くためですか。先生、教えてください」と答えると、飯田正宣はこう教えました。脳は精神の宿る最も大事なところだ。ところが日本人はこれまで、頭の上でまげを結って上に昇る気を妨げ、額を半分剃って悪い気を引き込むという愚かなことをしてきた。健康を保ち知識を求めたいと望むなら髪を切りなさい、と。当時の人々はこれを聞いて感激し、争って髪を切ったと書かれています。
 説明の科学的信憑性はさておき、飯田らはこのように新しい教材の使い方、新しい授業の仕方を、村人たちの目の前で実演しました。さらにその教材を使って旧い習慣を否定し、新しい時代にふさわしい風俗を説き、人々の生活全体を近代化しようとしたのでした。

地域に即して教育史を考える

 明治初期には、永山盛輝が自ら巡回した他にも、県の役人が説諭のため何度も各地を回りました。制度の変化、繰り返される説諭、徐々に広まる情報などが、人々の生活を少しずつ変えていったと想像できます。しかし、村の人たちが時代の変化をどう受けとめたのか、この時代にあって学校は具体的にどんな人々によって設立され、維持されていったのかという点は、学校や地域に残された史料をもとに丁寧にたどってゆく必要があるでしょう。
 たとえば、明治10年代初めには多くの学校が資金難と不就学者対策に追われることになります。これを「地域の人々の後進性」あるいは「国家教育政策の現実との乖離」などといった言葉で簡単に説明してしまってよいか、もっと多様な要素を考え合わせるべきではないかと考えています。こういったいわば「定説」化して語られていることを、地域に即して考え、見直していきたいと思っています。