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研究報告「中原謹司とその周辺」1

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年6月3日更新

伊那谷の右翼思想政治家の活動

現在の中原家
現在の中原家

 中原謹司
中原謹司

飯田市誌編さん室 齋藤俊江

動機

 伊那谷は今まで概して左翼思想が強い地域とされ、その研究も多く行なわれてきた。しかし市誌編纂のため旧役場に保管されてきた行政文書や森本資料(松尾森本家が持っていた資料、飯田中央図書館所蔵)のなかに現れる右翼資料は決して左翼資料におとらない日本の歴史の流れを立証している。

 その中の一人、中原謹司は一般的には右翼思想政治家(ファシズム)だといわれてきた。しかし地方におけるファシズムとは何か。中原が戦前伊那谷でどんな活躍をし、中央へ出ていったのか。そして現在その思想が受け継がれてきているのかなど明らかにしたかった。現在川路、鼎、旧飯田市、竜丘の旧役場文書は未調査の為青年会資料を参考にした。

 現在の中原家

 中原謹司

生い立ち

 中原謹司は明治22年2月7日(1889)飯田市龍江今田に中原桃仙の二男として生まれた。祖父は三治といい治部右衛門と称し慶応2年58才で亡くなった。深く不二教を信じ布教に務め村の子弟に素読を教え南山一揆で郷中のため奔走した。

 父桃仙は忠孝節義の講談をしてあるいた。能弁で県内各地、美濃三河の諸學校へ行き社会に貢献した。このことが中原謹司の生涯の思想的基盤を、養ったものと言える。大正、昭和にかけ右翼運動をした人達はおよそ不二教・実行会信仰者の家庭で育った人達であった。祖父、父も俳句、和歌を好んだ。中原謹司は飯田中学を経て明治39(1906)年早稲田大学英文科に入学45年卒業、坪内逍遥が作った文芸協会演劇研究所に入り第一期生として卒業した。同級生に島村抱月、松井須磨子、河竹繁俊がいる。このころ中原は文学青年であり自由主義的気風の研究所の感化を受けたものと思われる。

 しかし俳優になるのを親に反対されあきらめて龍江へもどった。大正3年帰郷したが一年志願兵として陸軍に入り少尉となり帰村した。

ジャーナリストとして、国家主義思想へ

  少尉として帰村した中原謹司は在郷軍人会下伊那連合分会理事となる。同時に創刊されたばかりの「信濃時事新聞社」に入社する。26才であった。信濃時事新聞(社長 遠山方景)は当時飯田で発行されていた「南信新聞」(明治35年創刊)に対抗して創刊された新聞である。南信新聞が全国的ニュースを中心としていたのにたいし“郷土には郷土独特の風向あり、問題あり、輿論あり、政治あり、経済あり」とし大正4年8月10日創刊され、昭和14年7月末日の信州合同新聞に統一されるまで発行し続けた。社屋は追手町2丁目にあった。

 中原謹司はジャーナリストとして第一歩を踏み出すが大正9年には南信電気支配人となっているので信濃時事新聞社にいたのはいつまでだったのか不明である。この間に在郷軍人会の役員をつづけ次第に国家主義的思想へとかたむいていったものとおもわれる。

 当時飯伊地方には青年会の自主化運動が広まり、大正11年(1922)下伊那文化会、翌12年には郡青年会内にはLYL(自由青年連盟)が組織され、羽生三七、今村邦夫等によって急進化・社会主義化していった。これらの青年運動は全国的にみても早くそれに思想的に対抗する在郷軍人会も飯田連隊区司令部(現中央図書館の位置)を中心に、左傾思想撲滅のため奔走した。その中核的団体が下伊那郡国民精神作興会(以下作興会)であった。この会の目的は『国民精神作興に関する証書の趣旨を奉載し之が徹底を図る。』とし関東大地震で混乱した人心・風潮及び、社会主義思想の善導・赤化防止であった。この会も全国でもいち早く組織化された団体であった。作興会は発会式を大正13年(1926)10月26日に、県知事、郡長、町村長、学校長、神官僧侶など500名が参加し行なわれた。理事長は北原阿智之助(上郷)で、理事に森本州平(松尾)、大平 郎(千代)、中原謹司(龍江)などである。発足当時の資金は、森本州平、大平 郎、滝沢清顕(下久堅)、伊原五郎兵衛(飯田)、吉川芳太郎(松尾)、野原文四郎(飯田)が100円ずつ、その他大勢からの寄付であった。事務所を下伊那郡役所におき各町村に支部をおいた。その後経費は県費補助、町村負担金、寄付金でまかなっている。昭和3年県費補助115円、町村負担金1970円で、年間予算2770円、専従書記1人をおいた。この会の実質的な中心は森本州平であったが理論的指導者は中原謹司であったとおもわれる。中原謹司は当時35歳であった。作興会は機関紙「作興」を発行し「青年幹部講習会」を昭和2年から毎年各町村長推薦の青年50~60名を日本青年館・金鶏学院で数日間おこない、安岡正篤など現役軍人会が講師であった。また作興会は郡下町村を回り講演会や映画会をおこなった。作興会で活躍していた中原謹司は大正15年中尉となり当時在町村青年の軍事訓練の為にできた青年訓練所の指導員会長となった。

 大正14年12月3日午後1時から下伊那郡役所で軍教問題対談会が開かれた。これは青少年軍事訓練に反対の郡青年会と在郷軍人会との異例な会合で、郡長・郡視学他大勢と報道機関の見守るなかで各々10名ずつが論陣をはった。このとき中原謹司はダーウインの「進化論」を引用し堂々と軍事教育の必要性をのべた。

 そして昭和2年(1927)38歳で在郷軍人下伊那連合分会副会長となる。そして軍部とのつながりを強めて行くことになる。
  また「信濃時事新聞」の社員2名がLYL事件で逮捕されると中原謹司は再び招聘されこの新聞社に昭和2年6月24日入社する。翌3年主筆となる。

 中原謹司は講演会にもよくでかけた。大正から昭和3年までに判明したものは次の通りである。

  • 龍江青年会「日支経済関係」280人
  • 14年12月6 日龍村会主催「新日ノ本主義」
  • 15年12月8 日上郷青年会「思想問題」
  • 昭和2年12月6日 上郷青年会「思想的指導原理を何処に求む」
  • 3年1月27日 上郷青年会「日本精神より観たる過激主義批判」
  • 3年1月29日 千代青年会「青年心理」
  • 3年3月31 日上久堅・下久堅女子青年会「題不明」 

  昭和3年以後9年までの中原謹司の講演会資料は見つからない。中原謹司の講演会は龍江を中心に千代・久堅の竜東及び北原阿智之助が村長の上郷村へいっていることがわかる。

ファシズム運動へ

 作興会が社会共産主義思想を撲滅するための思想運動であったが日本は国連を昭和8年脱退し軍国主義の道をまっしぐらに進んでいった。そのなかにあって中原謹司の活動は次第にファシズム運動として県会へ、国会へと活路を広めていった。昭和5年12月12日(1930)結成した「猶興社」を土台に昭和6年8月27日「愛国勤労党南信支部」(現飯田市江戸町2栽判所横)を結成した。市瀬繁(伊賀良)、吉野福一(竜丘)、今村良夫(川路)、塩沢治雄(松尾)などとともに「打倒ブルジョア政党」「勤労者は勤労党へ」と主張した。 同年11月21日には飯田劇場で南信国民大会を開き宣言・決議文を各町村長に配布依頼をしている。(資料1) 

資料1

 そして6年9月行なわれた県会議員選挙で、平田史郎・吉川亮夫他2名とともに当選した。この時羽生三七を1000票はなして当選したことは注目にあたいする。県会議員になった中原謹司は青年団への県費補助打ち切りに賛成、又信濃毎日新聞主筆桐生悠々が、【関東防空演習をわらう】と題して批判文を書いたため中原謹司等は信毎不買運動を展開し、桐生悠々を退社させた。やがて中央の政治団体とつながりを持ちファッショ政党へと急進していった。
 県会議員として政治活動の場を県内へのばした半年後、中原謹司は昭和7年2月20日(1932)に行なわれた第18回衆議院議員選挙に立候補する。しかし小川平吉、平野桑四郎など4名が当選し遠山方景、宮沢胤男とともに、最下位で落選した。
 中原謹司はジャーナリストとして昭和7年5月27日初めて「信濃国民新聞」を創刊する。週刊新聞であるが、社員に座光寺比生、近松久、小林八十吉、北村栄一他5名の名簿がある。信濃国民新聞は昭和9年3月「信州郷軍」に引き継ぐまで約2年間江戸町237の猶興社で発行されていた。当時飯田で発行されていた南信新聞や信濃時事、信濃大衆新聞と異なり政治色の強いものであった。発行部数2000部、月2回全国へ無料でくばられた。
 一方東京では5・15事件等国を揺るがす出来事がおき、それに続いて県内でも7年5月29日「信州郷軍同志会」が誕生する。この同志会は更級郡をのぞく郡全部の在郷軍人会幹部が同志会の幹部をしめた。発会式11月20日には陸軍省整備局長林桂中将がきて658名の会員で行なわれた。この発足をけっきに陸軍中央との結びつきが国内でも最もはやく強いものとなった。
 幹部は関重忠、中原謹司、宮沢修二、池内一郎などで中原謹司はやがて同志会をバックに昭和11年2月20日(1936)衆議院議員に当選する。47歳であった。中原謹司は続いて12年4月30日と17年4月30日の選挙で3回衆議院議員に当選している。
資料1
資料1