ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
ホーム > 分類でさがす > くらしの情報 > 教育 > 歴史・風土 > 研究報告「中原謹司とその周辺」2
ホーム > 分類でさがす > くらしの情報 > 教育 > 学習情報 > 研究報告「中原謹司とその周辺」2

研究報告「中原謹司とその周辺」2

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年6月3日更新

天竜峡龍角峰に建つ記念碑
天竜峡龍角峰に建つ記念碑

 裏碑文
裏碑文

 信州郷軍同志会は実質的には中原謹司が中心であったことが機関紙「信州郷軍」の内容で判明する。「信濃国民新聞」をひきついだ形で発行した「信州郷軍」は昭和9年3月20日(1934)に創刊され月2回の発行である。

 発行所は(現飯田市)江戸町237で猶興社となっている。「信濃国民新聞」からひきついだ号数を使っており最終号は290号位とおもわれる。飯田中央図書館に8部あるのみである。内容は殆ど軍事色が強いが大正年代左翼青年が発行していた「政治と青年」の両極を伊那谷ではたしていた感さえうかぶ。

 県会議員・衆議院議員となった中原謹司は郷里ではどのような活動をしていたのであろうか。「信濃国民新聞」や「信州郷軍」の新聞発行と同時に勢力的に講演活動をおこなっている。旧役場文書、青年会資料で見つけることができたものは下記の通りである。

  • 昭和9年2月4日(1934) 千代村青年訓練所・軍人会合同講演会題未定
  • 昭和9年3月26日 松尾青年会・処女会「日満経済統制と明日の我らの生活」
  • 昭和9年10月19日 龍江女子青年会「不況を打破すべき農村女性の覚悟」
  • 昭和10年1月16日(1935) 松尾青年会「時局に処する青年の覚悟」
  • 昭和10年4月30日 龍江商業組合「経済更生講話会」
  • 昭和11年日未定(1936) 伊賀良青年会「国体明徴問題」
  • 昭和11年3月10日 龍江青年会「時局問題」
  • 昭和12年3月10日(1937) 龍江国防婦人会「時局問題」
  • 昭和12年11月2日 千代婦人会題未定
  • 昭和12年11月19日 松尾軍人会・青年会・処女会「日支事変及び満州視談」
  • 昭和12年12月12日 龍江青年会「時局問題」
  • 昭和13年11月2日(1938) 龍江男女青年会「時局と青年」
  • 昭和13年11月17日 松尾青年会・処女会・軍人会「世界史転換期に就き」
  • 昭和15年4月15日(1940) 伊賀良青年会「国際関係と支那事変処理」
  • 昭和16年3月2日(1941) 下伊那翼賛壮年団結団式題未定 会場飯田商業学校
  • 昭和16年3月21日 龍江村主催「大政翼賛会理念と国際情勢」
  • 昭和16年12月13日 対米英宣戦奉載川路村民大会にて講演
  • 昭和16年12月21日 飯田翼賛壮年団決起大会で講演 宣戦の証書 2000人
  • 昭和16年12月22日 千代村主催「現代の国際情勢において」
  • 昭和17年3月8日(1942) 川路村指導者錬成会題未定
  • 昭和17年7月7日 上郷青年会題未定
  • 昭和17年12月14日 大政翼賛会三穂村支部題未定
  • 昭和18年2月23日(1943) 川路村青年会題未定
  • 昭和18年3月21日 松尾村銃後奉仕会・感謝会題未定
  • 昭和18年4月23日 下伊那翼賛壮年団 時局大講演会 飯田会館
  • 昭和18年4月24日 下伊那翼賛壮年団 時局大講演会 大下条国民学校
  • 昭和18年12月5日 上郷産業組合「政局について」
  • 昭和19年7月23日(1944)下伊那翼賛壮年団 「時局問題」

 議員になったころは出身地の龍江、千代での講演が多く森本州平のいた松尾での回数も多い。その頃伊賀良では高倉輝、竜丘では野溝勝の講演会が多いのも特長である。又羽生三七・鷲見京一のいた左翼の強い鼎での講演会が今の所みつからない。しかし昭和16年(1941)頃になると太平洋戦争の勃発のため翼賛壮年団としての演説が多い。これらの講演のなかで特に目立つのは昭和16年3月2日飯田商業学校で行なわれた「下伊那翼賛壮年団結団式」と、太平洋戦争勃発直後の12月21日丸山国民学校で行なわれた「飯田市翼賛壮年団決戦大会」での演説であった。この大会は長姫神社(8000名)の祈願祭や東野国民学校での“暁の大会“ にひき続いて行なわれたものである。参加者は全員国民服、戦闘帽姿で2000名で終わりに東野国民学校生徒のブラスバンドで知久町・伝馬町をへて大宮神社まで行進した。

 代議士としての中原謹司は昭和14年(1939)平沼内閣で海軍参与官や大政翼賛会総務局国民協力会議副部会長をつとめ戦時体制つくりのため活躍した。やがて日本は敗戦となり中原は公職追放された。56歳であった。戦後郷里へ帰り、俳句や郷土史に関心をもち伊那資料叢書刊行に協力した。森本州平が開放地主保障運動をしたのと対称的に静かにすごし政治活動からすべて手をひいた。昭和26年(1951)62才で亡くなった。中原謹司が力をいれていた翼賛壮年団の団員は戦後、遺族会や青年会・公民館の指導者としてその地位を確立していった。

  これらの資料からみると中原謹司は伊那谷のファシズム運動の旗手であり、日本の昭和軍国時代が要請した寵児であったと思う。中原謹司には子どもがなく、幸治・喜代子を養子とした。現在幸治は亡くなりその子3人は結婚したり独立している。今の当主は喜代子である。

 中原謹司のもっていた政治資料は殆ど国会図書館憲政資料室で保管している。わずかであるが飯田中央図書館へ寄贈されたが未整理である。 

参考資料

飯田翼賛壮年団決起大会 宣誓・誓(昭和16年12月22日 信州合同新聞より)

宣言

 畏くも宣誓の大証を拝す誠に恐惟感激に堪えざゆ処なり。
 惟ふに聖戦完遂は帝国不動の国是にして大東亜の安定は一に帝国の興廃在り今や国の総力を挙げ 国の大使命を体し決死奉公以て国難克服に邁進せんとす。
 我等翼賛壮年団員心を一つにして外に国防大任を全うすると共に常に卓越せる生活力によって戦時態勢の強化に努め純正なる政治力の結集により身を以て聖業を翼賛し奉り必勝の信念を堅持万難苦闘を拝し各各其の職命をつくし以て聖慮にこたえ奉らん事を期す。

 飯田市翼賛壮年団

 我等翼賛壮年団幹部は上御一人の御為に固く相結んで純正なる政治力の結集に努め結成態勢の確立に挺身す。茲に同士署名し天地天明に誓う。