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在留外国人の増加と飯田下伊那地域 2 本島 和人(調査研究員)

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年6月3日更新

在留外国人の増加と飯田下伊那地域

図3 昭和30年国勢調査 韓国・朝鮮籍人口の男女比率
図3

図4 飯田下伊郡の国籍別在留外国人
図4

 敗戦から85年までの40年間は、在留外国人人口は漸減していった。敗戦当時の在留外国人人口は不明だが、長野県統計書によれば、昭和23(1948)年8月の長野県の在留外国人は5921人(うち朝鮮在籍者5542人、中国人151人)。飯田市178人、下伊那720人、飯田下伊那の合計は898人(うち朝鮮在籍者890人、中国人8人)であった。<註>

女性比率が高い旧平岡村の朝鮮在籍者

 地域別在留外国人人口が明らかになる55年国勢調査によれば、飯伊合計は838人(うち韓国・朝鮮831人)。町村別では旧平岡村・旧神原村の合計(現天龍村)では150人が居住、対住民人口比2.3%を占め、男72人、女78人と女性のほうが多かった。飯伊合計でも男女比率が52対48と県計に比べても女性の比率が高かった(図3)。なぜ女性が多かったのだろうか。

平岡ダムと朝鮮在籍者

 平岡村では、昭和13(1938)年から平岡ダム建設が開始され、戦時下の労働力不足を補うために、中国人労働者のべ884名と朝鮮人労働者のべ1921名が強制徴用され、アメリカ・イギリスの連合国軍捕虜307人が強制労働に従事させられていた。敗色が濃くなった20年4月に工事は中断され、中国人労働者は6月までに全員が県外の事業所に転出。連合国軍捕虜は日本の敗戦から三週間後の9月に満島駅から帰国していった。工事の主力をなしていた朝鮮人労働者の多くは祖国へ帰ったが、留まった人々も少なくなかった(『天竜村史』ほか)。

都会からも土木工事に流入した在日一世

 この朝鮮人労働者についての記録は多くはない。『信州韓国人社会の記録まほろばに無窮花は咲く』(民団長野五十年史編集委員会)によれば、戦局が険しくなってきた頃、家庭をもった在日一世たちは仕事を求め都会から地方へやってきたことが記録されている。伊那谷には天竜川に沿ってダム工事や道路工事の飯場がいくつもあり、飯田下伊那には徴用された人々(男子単身者)だけでなく、都会から土木工事の仕事を求めてやってきた世帯持ちの在日一世が少なくなかったのである。特に昭24(49)年の平岡ダム建設工事の再開はこれらの朝鮮人在日一世(特に世帯持ち)を引き留めることになり、その後も朝鮮戦争(50~53年)の勃発により祖国への帰国の機会を失わせ、この人たちが定着することになった。昭和27年の平岡ダム建設工事の終了直後には、下伊那の外国人638人(国籍別不詳)、うち210人が平岡村にいた(『下伊那郡勢要覧』)。

80年代前半まで減少する旧来外国人

 このように、戦前から引き続き日本に在留する旧植民地の人々とその子孫を、のちに来日する外国人と区別して旧来外国人(オールド・カマー)という。オールドカマーの韓国・朝鮮籍人口は、65年の日韓条約批准以後減少し、85年の373人が最低となった。来日一世が亡くなる年代に至ったこと、日本への帰化による国籍変更が減少の原因であろう。
高度成長期には飯田下伊那の余剰人口が流出するばかりで、外国人人口を引き寄せる原因はなかったのである。

80年代後半から増加する新来外国人

 外国人人口の増加がはじまるのは80年代後半からである。86年からは長野県国際課調による国籍別・市町村別外国人人口が公表されるようになった。同年12月末現在の飯田下伊那の国籍別では、韓国・朝鮮270人、中国147人、フィリピン59人、その他19人、合計420人であった。前年の85年国勢調査から47人、国籍別では中国、フィリピンが増加した。(図4)

 これらの人々を、オールドカマーに対して新来外国人(ニューカマー)という。ニューカマーが増えはじめるなかで85年5月、飯田市内のスナック経営者が売春斡旋の容疑で逮捕される事件がおこった。店で働く東南アジア女性四人を常連客らに斡旋したという容疑であった(本紙85年5月)。地域社会のなかで静かに進行している変化は、事件や事故によってある時突然あらわになるものである。飯田下伊那でのこの種の事件は多くはないが、県内では温泉街や長野・松本市内などでは観光ビザで来日した東南アジアの女性たちによる在留資格外活動と売春が摘発され強制送還されるケースが相次いだ。

 80年代半ばから増加しはじめたもう一つは中国から来日した人たちであった。(つづく)

 <註>朝鮮在籍者と韓国・朝鮮籍について。1947年の勅令「外国人登録令」によって、それまで日本国民とされてきた朝鮮半島出身者は外国人として管理される対象となり国籍欄に「朝鮮」(朝鮮在籍者)と記載された。その後、49年8月に大韓民国、9月に朝鮮民主主主義人民共和国が成立。これにともない50年には、国籍欄の記載変更が認められ、「朝鮮」籍から「韓国」籍への変更が可能になり、外国人登録の国籍等として「朝鮮」(法的には記号)と「韓国」(国籍)という二種類の記載になった。