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明治中期の校舎問題 多和田真理子

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年6月3日更新

明治中期の校舎問題

上郷尋常小学校建物図面(明治23年時点)

 明治新政府が、近代化政策の一つとして急ピッチで進めたのは、学校の設置でした。それにもとづき、各地で次々に小学校が作られました。新しく学校を作るには莫大な費用がかかります。当時、学校の設立維持は地域の人々の寄付や出資金で賄われましたが、財政は厳しいものでした。

 そのため、当初設立された学校の大部分は、新築ではなく既にある建物を校舎に充てました。南信州では座光寺の麻績校舎などが校舎を新築(明治六年)しましたが、ほとんどの所は寺や神社、舞台、民家などを借りて学校としました。しかし、こういった間に合わせの校舎を使ううち、様々な問題点が発生してきました。建物の老朽化が進み、通学距離に関連して学校位置の議論も出てきました。さらに、就学児童が増え、建物が狭くなってしまったのです。

 これらの問題に対処するため、各学校は繰り返し移転・新築・増築を行いました。苦しい財政の中から資金を捻出し、毎年のように少しずつ工事をしていたようです。

上郷尋常小学校の事例

 一つの事例から、当時の状況を知る糸口を探したいと思います。とりあげるのは明治23年12月20日付の「上郷尋常小学校増築意見書」という、学校長の野村銀一郎から村長の斎藤磐根に宛てた文書です(現在は上郷歴史民俗資料館に保管)。当時上郷尋常小学校が使用していた校舎は、生徒149人が勉強するには適さないと書いてあります。その理由として野村校長は以下の六点を挙げました。順に見てみましょう。

教室間の壁がない

 各教室の間に壁がないと生徒が授業に集中できません。しかし壁を作るとますます狭く、出入通行も不便になります。

 教室に分かれて集団で授業を行う方法は、明治期に新しく導入されました。この頃にはもう近世の寺子屋のような学習方法が姿を消し、学年単位での集団授業が当たり前になっていたことが分かります。

通行廊下がない

 上郷尋常小学校の校舎図面を見ると、廊下がなく、点線で通行部分を示しています。

 当時の学校建物の図面を見てみると、廊下のない事例は少なくありません。多くの場合、出入り口近くに「生徒控席」というやや広い場所があり、生徒はそこに集まってから授業時間に各教室に向かいます。しかし上郷小の場合、生徒控席は校舎の端にあります。教室を確保した結果、生徒控席をまん中に置けなくなったのでしょう。やむなく教室内の机を前に詰め、教室後ろに3尺(約90cm)幅の通路を作りましたが、通りにくく、人が通るたびに授業が中断して困ると言っています。

教室内の教師の居場所が狭い

教室が狭い

 とにかく教室が狭くて身動きがとれない状況だったようです。いちばん余裕のある教室でも1坪(2畳分)あたり3人を超え、しかもこの計算には教師の居場所も含まれておらず、実際はそれ以上の詰め込みようです。とはいえ、明治15年に文部省が出した基準では、教室の広さは生徒一人あたり3尺平方(畳半分)を下らないようにとしています。当時の教室は全国的に狭苦しかったのです。

生徒控席が狭い

教室数不足

 生徒控席の状況がもっともひどく、12坪のスペースに生徒149人、一坪あたり13人あまりが詰め込まれる計算になります。立っていることすらできません。当時の状況から考えて、就学生徒数と毎日の通学生徒の数とにはズレがあるでしょうから、本当に生徒全員がここに詰め込まれたかどうかは分かりません。しかし、生徒が授業前に生徒控席に集まり整列して教室に入るという、教則本で奨励されたやり方を、当時の上郷小が実践することは不可能でした。

 以上の六点を具体的に述べ、最後に野村校長は「今日ノ教育法理法ニ適スル校舎ニ増築セラレンコトヲ希望ス」と強く訴えたのでした。翌24年12月、別府にあった上郷尋常小学校は、飯沼にあった派出所と合わせて移転増改築することが決まりました。上郷東尋常小学校として新築校舎が落成したのは25年10月のことです。

 また黒田支校は分離独立し上郷西尋常小学校となりました。

一点の文書から

 一つの文書から、当時の学校に関する多くの情報を読み取ることができますし、当時の人の思いが伝わってきます。こういった作業を通じて、歴史がより身近なものに感じられるのではないでしょうか。