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飯田アカデミア第89講座を開催しました

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年1月4日更新

12月14日・15日に飯田市役所で開催しました

 横山百合子氏(国立歴史民俗博物館)を講師に迎え、「幕末維新期の新吉原遊郭と遊女」をテーマに飯田市役所で開催しました。

 新吉原遊郭の運営・管理体制、遊女屋経営の実態、遊女の生活と精神世界の検討を通して、近世社会の中で遊郭がどのような存在だったのかについて論じられました。

 

   横山先生  

                

  • 開催日   2019年12月14日(土曜日)、15日(日曜日)
  • テーマ  幕末維新期の新吉原遊郭と遊女                                                   
  • 講  師  横山 百合子(よこやま ゆりこ)さん(国立歴史民俗博物館研究部教授
  • 会  場  飯田市役所 C棟大会議室

 

  会場内

 

 

  

講義概要

テーマ  幕末維新期の新吉原遊郭と遊女

 

  第1講  新吉原遊郭の成り立ちと構造

 巨大城下町・江戸における遊廓の位置が論じられた。

遊廓は軍事都市でもある城下町に設けられた公認買売春施設であり、江戸には新吉原遊廓、京都には島原遊廓、大坂には新町遊廓が置かれた。新吉原遊廓を構成する五町(京橋一丁目・同二丁目・角町・揚屋町・江戸町一丁目・同二丁目)は、幕府に対し性の秩序化や不審者情報の収集・密告という役を務め、その対価として売春営業の公認、売女訴訟(非合法の売女の摘発)、発向(非合法遊女屋への攻撃)、「奴」刑(売女を新吉原五町の財産とする)などの特権が認められていた。

新吉原遊廓には最盛期で五千人の遊女がいたといわれ、遊廓内部には遊女屋・茶屋・番人などが遊女に吸着して存在していた。

また、遊女屋には、数十人~百人超の遊女を抱える大店(大見世)から小規模な局遊女屋まで多様なランクがあったが、女性を引き取る際の身代金など遊女屋には相当の資金力が求められた。

遊客は、当初の豪商・大名などが次第に減少し、参勤交代の武士や大店の番頭が大見世の常客となっていった。

 

 

  第2講  遊女屋経営と寺社名目金貸付

 資金力を必要とした遊女屋経営を支えた金融ネットワークについて、北信の豪農(須坂・坂本家、中野・山田家)の史料から論じられた。

坂本家や山田家などの豪農は、准門跡(跡継ぎが摂関家二条家の猶子となる)である京都仏光寺の寺社名目金貸付に出資し、それを通して江戸の町人に対する金融活動を行っていたが、その最大の貸付先は新吉原遊廓であった。

この貸付の利益は大きく、これに目をつけた二条家が貸付事業の乗っ取りを図るようなこともあった。これらの点からは、公家・有力寺社・地方の豪農など多様な存在が遊廓から利益を獲得しようとしていたことがうかがえる。

さらに、江戸町奉行所の収入の一割以上を遊女屋からの上納金が占めていたことなども考えあわせると、近世社会全体が遊女や遊廓に吸着する側面があったと理解できる。

 

  

  第3講  新吉原遊郭の動揺

遊女の書簡が紹介されたうえで、幕末維新期の新吉原遊廓の窮状が紹介された。

遊廓からの客離れに加えて、徳川幕府崩壊による江戸の人口の大幅な減少により、幕末維新期の新吉原遊廓は厳しい経営環境に陥ることになった。その中で遊女屋は値引きなど行ったため、遊女の労働・生活環境は一層過酷なものとなっていった。

こうした惨状を生んだ背景には、労働を行う人ではなく商品として扱われる遊女の性格や、その流通が遊廓内に限定されるという遊廓の身分的性格、さらには、それらの基底にある幕府の遊廓・売買春を公認する政策、遊女屋による暴力的・金銭的な遊女支配が存在した。

 

  第4講  遊女の日記を読む -幕末維新期遊女の群像

遊女の日記などを用いて、第三講までに論じられてきた新吉原遊廓に生きた遊女の生活とその精神世界が論じられた。

東北大学附属図書館所蔵「竹島記録」中の「梅本記」は、嘉永二(1849)年八月におこった梅本屋佐吉抱え遊女16人による放火一件の関係史料をまとめたものである。

「梅本記」は裁判調書と遊女の日記で構成されているが、裁判調書からは、激しい暴力など遊女が劣悪な環境に置かれていたことがうかがえる。また、日記からは、遊女がその時々に、心に強く刻まれたこと、吐き出さずにはいられなかったことを、話し言葉によって書き記していたことが知られる。

こうした「書く」という行為は自己を客観視することを可能とし、主体としてどう生きるかという問いを生み出すことになったと考えられる。しかしそれは、家の中で生きた女性とは対照的に、遊女が個として生きることを強いられた存在であったことと表裏であった。