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地域史講座を開催しました(満蒙開拓団送出と引揚者救済)

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年12月7日更新

11月30日に川路公民館で開催しました

飯田市歴史研究所では、地域史講座として「満蒙開拓団送出と引揚者救済」について研究報告を行いました。

旧川路村をはじめとする下伊那地方、あるいは山形県・高知県・新潟県・徳島県の事例などから、講師が

満蒙開拓団送出の背景と特質、引揚者救済のあり方、さらには満蒙開拓団を考えることの現代的意味について論じました。

 

  地域史講座1  地域史講座2                      

 

地域史講座 「満蒙開拓団送出と引揚者救済-地域に残された史料を手がかかりに―」

  • 日 時  2019年11月30日(土曜日) 午後2時~午後4時
  • 講 師  細谷 亨 (ほそや とおる)氏 (立命館大学経済学部准教授)       
  • 会 場  川路公民館 大会議室

  

講座の概要

 

日本政府が満蒙開拓団送出を進めた背景には、

1 昭和恐慌による農村疲弊、「過剰人口」問題への対応、

2 満洲事変・「満洲国」建国による軍事的要請(対ソ防衛・治安対策)、

3 海外膨張主義に基づく人口=移民政策、

4 日満ブロックの強化と総力戦を支える食糧増産という理由があった。

 

こうした国策移民は現地農民からの土地収奪を伴い、それは開拓団への怨嗟に結びついた。

分村移民には、1軒あたりの経営規模拡大による農家経済の建て直しを図る農林省が関与した。

 

下伊那地方の場合、分村移民を受け入れたのは、当時の県が評価するところの「貧弱村」と「模範村」であった。

前者は泰阜村・清内路村・平谷村などであり、農業生産力(米作反収)の低い山間地にあり、集落間対立を抱え、

行政村の統合力が弱かったため県の介入と圧力を招き、移民が促進された。

後者は川路村・河野村などであり、農業生産力の高い平場の「豊かな村」で、有力な地主兼村長が存在し、

村の統合力が強かったことが、国策を積極的に受容する素地となった。

 

しかし、いずれも計画通りには進まなかった。川路村では、総戸数495戸のうち200戸を送出する計画だったが、

実際に老石房川路村開拓団に入植したのは134戸、しかも半数以上が他村からの参加であった。

また、移民の主体が小作農や雑業者であったため、農家の経営規模の拡大にもつながらなかった。

理想から大きく乖離した開拓民の現地での厳しい生活は、退団者の増加や地主(日本人)と小作(中国人)の対立を引き起こした。

 

敗戦後、軍人の「復員」とともに、満洲を含む植民地にいた膨大な数の民間人の「引揚げ」が行われた(約319万人)。

しかし、当時の農村社会では過剰人口・食糧問題が深刻化しており、彼らを受け入れる余裕はなかった。

そのため政府により戦後開拓政策が進められ、引揚者は再び故郷を追われ、山林原野や高冷地など農業に

不向きな土地での開拓や困難な生活を強いられることになった。

 

こうした引揚者の排除が進む一方で、諸制度・諸団体・コミュニティを通じた引揚者の包摂も進められた。

生活保護法が1946年10月に施行され、福祉予算が拡充されたため、多くの引揚者が生活扶助を受給することができた。

また、農地改革においては、移住により不在地主化していた移民に対して比較的寛容な対応が取られた。

 

以上の満蒙開拓をめぐる経緯からは、

1 「国策」による過ちとそれを検証する情報の大切さ(公文書や歴史史料の適切な管理保存・公開が不可欠)、

2 犠牲をもたらした「責任」と歴史の継承の大事さ(責任を回避し続け、現在も責任を認めていない政府とは対照的に、

送出者の責任に基づいて引揚者救済に取り組んだことが地域づくりにつながった川路村・泰阜村)を学ぶことができる。

 

お問い合わせ 

 飯田市歴史研究所
 電話 0265‐53‐4670
 Fax  0265-21-1173

 関連リンク

 満蒙開拓団送出と引揚者救済チラシ (PDFファイル/792KB)

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