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資料展示コーナー「川路の歴史を探る 」

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年12月8日更新

資料展示コーナー

 歴史研究所の資料展示コーナーで、歴史研究所所蔵史料や調査した関係史料などを解説を加え紹介しています。

現物の資料には、写真で見るのとはまた異なる味わいがあります。歴史研究所へ来所の折には、

ぜひご覧ください(不定期に更新します)。

 川路の歴史を探る―旧川路村役場文書の調査成果より―

飯田市歴史研究所では、平成28年度(2016)から2年をかけ、川路まちづくり委員会などの協力を得て、

川路自治振興センターの蔵に残る旧川路村役場文書(川路支所文書)の調査に取り組みました。

今回の展示では、その成果の一端を紹介します。

 

天竜川争論絵図 

下川路村・時俣村・今田村天竜川争論絵図  宝暦5年(1754年) (川路自治振興センター蔵)

 

分村開拓史料、養蚕組合史料  

(上段)「分村開拓民関係綴」昭和17年~

(下段)「下川路村第六区養蚕組合第二回育蚕品評会審査報告書」大正12年

豊川工廠史料

「豊川工廠・吉原部隊終結関係書類」昭和20年~

展示コーナー

 

(1)下川路村・時俣村・今田村天竜川争論絵図  1754(宝暦5)年 縦120センチ×横242センチ

 宝暦3年に下川路村(現在の川路)・時俣村と今田村(現在の龍江)との間でおこった争論のなかで作成された絵図。

今田村が天竜川に新しく「堰切(せききり)」2ヶ所と「籠刎(かごはね)」1ヶ所を築き、2本あった流路の1本を閉じてしまったことに、

それでは洪水の際に水が押し寄せ、自らの堤・川除が維持できなくなるとして、下川路村と時俣村が反発し、争論となった。

宝暦5年に、今田村の堰切は取り払い、籠刎は放置(修繕禁止)ということで和解が成立するが、この後も争論は断続的に繰り返された。

 

(2)分村開拓民関係綴 1942(昭和17)年~

戦時中、国策に従い川路村からも多くの人びとが、満洲へ渡った。本史料は、長野県から川路村長あてに送られた通牒や、

川路村民に発送した文書が綴られた簿冊である。展示の部分は、昭和17年10月に、老石房川路村開拓団長から川路村長へ宛てた手紙で、

慰問品への御礼とともに、開拓団の近況が記されている。

 

(3)下川路村第六区養蚕組合第二回育蚕品評会審査報告書 1923(大正12)年11月5日(『養蚕組合関係書綴』より)

下川路村(現在の川路)では、大正期に養蚕業が発展し、村内の地区ごとに、養蚕組合が設置された。

組合では、蚕種の共同購入、共同催青(蚕の孵化)、養蚕教師雇用による技術指導などに取り組み、良質な繭の生産が目指された。

本史料は第6区で、大正12年に開催された繭の品評会の審査報告である。

「組合員相互ガ手ヲ取ッテ進歩改善ノ道ヲ進ムコトハ、最モ緊要ノコトデアリ、効果アルモノト信ジマス」と記されている。

 

(4)豊川工廠・吉原部隊終結関係書類 1945(昭和20)年~

アジア・太平洋戦争末期の昭和20年5月、豊川海軍工廠の一部が天龍峡一帯に疎開してきた。

また、海軍吉原部隊が地下工場をつくるためにやってきた。本史料には、疎開工場用地の地籍、面積、所有者などが記されている。

戦後、これらの建物は、占領軍の管轄下で払い下げられたり、地主へ補償がなされたことがわかる。

ただし、これにかかわる戦争中の史料は残されていない。