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鈴岡城跡

ページID:0035668 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月19日更新

鈴岡城跡(すずおかじょうあと) 1区域

戦国時代の城跡で、信濃守護職(しなのしゅごしき ※1)を巡って一族で争った小笠原氏の城の一つです。

区 分:長野県史跡(昭和46年5月27日 県指定)

所在地:飯田市駄科1729他

所有者:駄科区 他

時 代:戦国時代

鈴岡城

概 要:

小笠原氏は、信濃守護職と重要な領地である伊賀良庄(いがらのしょう ※2)を巡って相続争いを繰り返しました。その結果、国府(こくふ ※3)のあった府中(松本市)と、松尾、鈴岡の3家に分裂してしまいました。こうした小笠原氏の動向は、信濃国内に大きな影響があり、全国的な歴史の流れを左右することもありました。

鈴岡城は南北朝時代に小笠原宗政によって築かれたといわれますが、実際には一族内での争いが激しくなった、応仁(1467~1468)から文明(1469~1486)の頃に築かれたと考えられます。

鈴岡小笠原家は、明応2年(1493)に松尾の小笠原家と争い、天文23年(1554)に武田晴信(信玄)と松尾小笠原家と、天正10年(1582)に知久氏らと争い、落城したことがわかっています。

天正10年以降の状況は不明ですが、少なくとも小笠原氏がこの地を去った天正18年(1590)には廃城(はいじょう)となったと考えられます。

城は、段丘の突端に築かれた丘城(おかじろ ※4)で、段丘崖と天竜川支流の谷によって三方が守られています。6条の大きな空堀によって区切られた、5つの主な郭(くるわ ※5)からなり、一部に土塁(どるい ※6)が残っており、およそ東西450m、南北300mの範囲に遺構が分布しています。

※1 守護:国(現在の都道府県に近い)ごとに置かれた、軍事指揮官と行政長官を兼ねた役職で、地頭を管理しました。現在でいうと、県知事と県警本部長を兼ねた役職です。

※2 伊賀良庄:飯田市の天竜川の西側(右岸)の、松川から阿智川にかけてのおよその地域といわれます。時代によって範囲が変化したようです。

※3 国府:奈良・平安時代に、その国を治める役所が置かれた都市をいいます。

※4 丘城:山や平地など、城をその立地で分類したとき、段丘や小高い丘に築かれた城をいいます。丘の傾斜を防御に利用し、丘の平たん部に郭や堀などが築かれます。段丘が発達した伊那谷で多くみられる城です。

※5 :堀や土塁、切岸(人工的な急斜面)、柵などに囲まれた平らな空間をいいます。

※6 土塁:堤防状に土を盛った防御施設をいいます。

ここに注目!

堀底に立って、郭を見上げてみましょう。城攻めがいかに厳しいか実感できます。実際には、武器を構えた守備隊がずらりと並んでいたのです。

横堀(堀ウ)

旧

城の中心部を大胆に取り囲んだ横堀は、両端を毛賀沢川に落としています。

横堀は南側からの侵入を阻止するだけでなく、堀の外側にある土塁が通路にもなっています。この通路は、郭4とつながっており、郭4の守備兵が城の奥に逃げ込むことができます。しかし、敵兵が通ると郭2から矢玉が雨のように浴びせられるでしょう。

城に真っ直ぐ近づけない!

組物

郭4(車のある島)の西側(写真右)の堀エは、南側(写真奥)の規模が大きく、北側(写真手前)で狭くなっています。

一方、郭4の東側(写真左)の堀ウは、北側(写真手前)で規模が大きく、南側(写真奥)で狭くなっており、互い違いになっています。

敵は、通常ならば堀の規模が小さいところから攻め入るでしょう。敵を真っ直ぐ進ませない工夫で、郭4へは北から入り、南側に迂回(うかい)させられます。

なお、現在「二の丸公園」に西側から入る道路は、公園整備で近年整備したもので、戦国時代にあった道ではありません。

地形を逆転

土塁

堀エの西側から見た写真で、堀を挟んだ向こうが郭4、さらにその奥が郭2です。

自然地形では、西側(写真手前)の方が高くなっていたはずですが、土を切り盛りして、主郭1側(写真奥側)を高くしています。写真ではわかりませんが、主郭1は郭2よりも高く造られています。

高所を確保して戦闘を優位にする工夫ですが、土木工事の規模は相当なものです。

堀底は自由に歩けない!

ほり

現在でも深い堀底ですが、部分的な発掘調査の結果、これは半分から三分の一程度埋まっており、当時はさらに深く、急な壁の堀であったことがわかりました。さらに、堀底は平ではなく、人一人がやっと歩けるだけの幅しかない、V 字形の底でした。

堀底でもたつく攻城兵は、守備隊にとって格好の標的でしょう。

(写真では堀底がW字形になっています。もともとW字形に堀底を工夫したものか、V字形の堀一度埋まった後に掘り直されたものか、判断できませんでした)。

畝

さらに、郭2と4の間では、堀底に直交する畝(うね 土塁)が確認されました。

これは、堀底での横移動を妨げる障子(しょうじ)とも、郭と郭とつなぐ土の橋(土橋)とも、木の橋の土台などと考えられますが、結論は出ていません。

いずれにしても、この場所が城の中で重要な場所であることには間違いなさそうです。

この他にも発掘の成果がありますが、すべてを紹介することはできません。詳しくは末尾の書籍か、現地の説明版をご覧になって下さい。

小笠原氏ゆかりの碑

碑

主郭1にある「鈴岡城址」の碑は、府中小笠原家の後裔(こうえい 子孫のこと)である唐津(佐賀県)藩の小笠原長生(ながなり)の筆によるものです。

同じく府中小笠原氏の後裔で最後の小倉(福岡県)藩主小笠原長幹(ながよし)の公園碑もあります。

鈴岡の系統は途絶えてしまいましたが、信濃小笠原氏は戦国時代を乗り切りました。

城跡からの眺め

看板

城跡からは、かつて争った松尾城や伊那谷の山なみをみることができます。

つつじ

つつじ

明治45年(1912)4月7日、消防組の演習地と運動場を兼ねて開園しました。都市公園としては、県内最古といわれています。駄科青年同盟会(後の駄科同盟会)らが多くの方が公園化に尽力されました。

城跡内には多くのツツジが多く植えられており、春にきれいな花を咲かせます。5月の連休には、地元駄科区によってつつじ祭りが開催されて、にぎわいます。現在は郭2も公園整備されており、親子が楽しめる公園となっています。

交通・アクセス

○駐車場有

○JR飯田線「駄科」 徒歩25分

○信南交通 市民バス千代線「駄科南平」 徒歩15分

 見 学

公園内は整備されていますが、一部坂道もあります。詳しく遺構(地形)を観察したい方は、里山散策や農作業に適した服装でお出かけ下さい。

山中の遺構見学には、草木の葉が落ちて地形の観察がしやすい、晩秋から早春が適しています。

書籍案内 ~もっと知りたい方へ~

『鈴岡城址』 飯田市教育委員会

『長野県の山城ベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均

『天正壬午の乱』 平山優

『鈴岡公園 今昔物語』 駄科公民館

いずれの資料も飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます。


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