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飯田文化会館情報誌 toi toi toi!第1号「故郷に上質な室内楽を 時を越えて受け継がれる思い」
飯田文化会館情報誌 toi toi toi! いいだ文化の軌跡を紹介するコーナー「Curtain Call」。
第1号は「故郷に上質な室内楽を 時を越えて受け継がれる思い」と題して、萩元晴彦ホームタウンコンサートを紹介します。

「萩元晴彦ホームタウンコンサートIN飯田」は、飯田市馬場町生まれの故 萩元晴彦さんが平成8年に創立したコンサートです。
「生まれ故郷の飯田に上質な室内楽を」という萩元さんの思いに賛同した飯田信用金庫が全面的に協力。市民有志からなる実行委員会が主催し、今年で記念すべき20回目を迎えます。
日本初のテレビ制作プロダクション「テレビマンユニオン」の初代社長であり、日本屈指のテレビプロデューサーとして、また音楽プロデューサーとして名を馳せた萩元さん。
クラシック音楽への造詣も深く、世界的指揮者の小澤征爾さんをはじめ多くの音楽家がその思いに共感し、共に夢を実現してきました。
萩元さんは71歳で急逝しましたが、カザルスホールで行われた音楽葬では谷川俊太郎さんが詩を朗読し、今井信子さん、堀米ゆず子さんらが弦楽演奏を披露。
小澤征爾さん、井上道義さんの指揮による新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏で見送られるなど多くの演奏家たちから慕われ、愛された人生でした。
萩元さんにとって飯田市は若くして亡くなった愛する母の郷里であり、5歳までの幼少期を過ごした場所。
飯田を思い出す時、縁台から見た夏の花火や祭りの神輿、谷川線を走るバスの警笛などと並び、音楽が好きで幼い萩元さんに多くのレコードを聞かせてくれた母の記憶が蘇り、飯田でのコンサート開催を熱望していたといいます。
では、なぜ室内楽だったのでしょうか。
萩元さんは小澤征爾さんと音楽論を語り合う中で「音楽の基本は室内楽であり、室内楽を聴く習慣から音楽への関心や知識を深めることができる」と確信。
室内楽への思いを強くしていったといいます。
萩元さんが総合プロデューサーを務めた「カザルスホール」は日本初の室内楽ホールとして“室内楽の殿堂”と称されるほどでした。だからこそ、演奏者の息遣いまで感じられる親密な空気感の中で若い才能と聴衆が育てられていく室内楽の土壌を、自身のホームコンサートを通じて郷里に根付かせたいという萩元さんの強い願いがあったのではないかと考えられます。
このコンサートでは、世界を舞台に活躍する一流の演奏家に加え、これから羽ばたくであろう新進気鋭の若手演奏家も招くスタイルを貫いています。「本物の音楽を飯田の皆さんに提供したい。自分の耳で確かめてこれならという演奏家をたとえ無名でも連れてくる。できれば格安で」をモットーに掲げていた萩元さん。そんな萩元さんの遺志を尊び、現在もそのスタイルは受け継がれています。
第1回コンサートのパンフレットに寄せ「人生の味わいの深くなった人が次の機会に若い人を連れて来られることを夢想する。カザルスホールにはそんな幸せな例がいくつもある。私は飯田にもそれを期待する。そもそもわが飯田はそういう町ではないか」と綴った萩元さん。飯田にいながらにして本物の音楽に触れ、人生を色濃くし、その芽を若い世代へとつないでいく。萩元さんが飯田にもたらした音楽の感動は幸せな循環となり、今後も受け継がれていくはずです。

萩元 晴彦(はぎもと はるひこ)さん 略歴
昭和5(1930)年 3月7日
飯田市馬場町で生まれる。5歳のときに母を病で亡くし松本市へ転居する
昭和20(1945)年
南安曇郡烏川村(現安曇野市)に疎開し、旧制松本中学(現松本深志高校)へ通う。
野球部のエースとして甲子園に出場
昭和24(1949)年
早稲田大学文学部ロシア文学科に入学
昭和28(1953)年
同大学を卒業。同時にラジオ東京(現TBSテレビ)入社。
社会派ドキュメンタリーを次々と制作して注目を浴びる。「神これを癒し給うー心臓外科手術の記録ー」「現代の主役・小澤征爾”第九”を揮る」ほか
昭和45(1970)年
TBS時代の仲間と日本初のテレビ番組制作会社「テレビマンユニオン」を創立し、初代社長に就任。
「遠くへ行きたい」「オーケストラがやって来た」、ドキュメンタリードラマの先駆けとなった「欧州から愛を込めて」(芸術選奨文部大臣賞)などを手掛ける
昭和62(1987)年
カザルスホール(千代田区)の総合プロデューサーに就任。日本初の室内楽ホールとして浸透させる
平成4(1992)年
松本市で「萩元晴彦ホームタウンコンサート」初開催
平成8(1996)年
飯田市で「萩元晴彦ホームタウンコンサートIN飯田」初開催。以降、現在まで続く
平成10(1998)年
長野冬季オリンピック開閉会式総合プロデューサーとして五大陸を衛星中継で結ぶ「第九」合唱を成功させる
平成13(2001)年 1月
大崎善生の原作に惚れ込み、出版元と直談判して映像化権を獲得したドラマ「聖の青春」(TBS・藤原竜也主演)が新春スペシャルドラマとして放送。これが遺作となる
平成13(2001)年 9月4日
脳梗塞で死去。享年71歳。葬儀はカザルスホールでの音楽葬にて行われた
インタビュー
萩元春彦ホームタウンコンサート実行委員長 上沼 俊彦 さん
「すべての新しいことはひとりの熱狂から」 萩元さんのその言葉が今も耳に残っています

萩元晴彦ホームタウンコンサートの初開催は平成8年。私は1回目から実行委員として携わっています。
当時は飯田信用金庫の企画部にいましたが、その際に友人で新聞記者やTV番組プロデューサーをしていた後藤拓磨くんを介して萩元さんから「生まれ故郷の飯田でコンサートをやりたい」と飯田信用金庫にスポンサーの打診がありました。
当時理事長だった伊藤篤さんにご相談したところ、伊藤さんが「スポーツや文化事業を通して地域に恩返しがしたい」という思いを強く持っていたこともあり、飯田信用金庫がスポンサーに就き、実行委員を募る形で開催が実現しました。
資金面としてはチケットを販売し、足りない分を飯田信用金庫が補う形をとっています。
ただこれは非常に画期的な方式だったようで、萩元さんは雑誌等のインタビューでも事あるごとに「僕の生まれ故郷には飯田信用金庫という心強いスポンサーがいる。スポンサー精神の鏡だ」と感謝してくださっていました。
またこのコンサートでは演奏家と実行委員の懇親の場を必ず設けていますが、その席で世界的ヴィオラ奏者の今井信子さんから言われたことがあったんです。「飯田の聴衆は聴く姿勢を持っている」と。「飯田では皆が前のめりになって聴いてくれる。だから演奏家も応えたくて気持ちが乗ってくる」と言うんですね。ほかにも何人かの演奏家が「飯田の聴衆は素晴らしい」と話してくれました。
おそらくそこにはアフィニス夏の音楽祭で築かれたベースがあり、加えてこのホームタウンコンサートがシナジー効果を生み出したのだと思います。
肩の力を抜き演奏を楽しむ余裕が生まれた事。そして何より招聘する演奏家が一流の方ばかりだったことも文化の芽が育まれた理由かもしれません。
しかし難点は、オーケストラに比べて室内楽のコンサートはチケットの販売が難しいという事です。
私も最初は1人で大量に売りましたが「さすがに辛いです。この状況では長続きしないと思います」と萩元さんに漏らしてしまった事がありました。
そのとき萩元さんがおっしゃったんです。「上沼さん『すべての新しいことはひとりの熱狂から』」と。
たったひと言でしたが、ガツンと響きましたね。そうか、熱狂から…と。以降、この言葉は自分を鼓舞したいときに思い出す座右の銘になっています。

また、今も忘れがたいのは萩元さんと過ごした日々の思い出です。
委員会の懇親会後、もう一軒行こうとしていた私たちに萩元さんが言ったんです。「私も連れていってください。私は自分が寝ている間にみんなが楽しい思いをしているのが悔しいんです」と。
この言い方もしゃれていると思いません?それからは毎回最後までお付き合いいただくようになりました。
萩元さんが長野五輪でプロデューサーを務めていた際には、長野や松本での打合せ後「今夜空いていますか?」と突然お誘いがあり、わざわざ飯田に足を運んでくださって飲み歩いた事もありました。
「馬場町の萩元です」。コンサートではこう自己紹介していた萩元さん。
おそらくこの機会がなければ萩元さんの人生と飯田が交わる事はほとんどなかったと思います。
言われたことがあるんですよ。「私のこの遊び好きな血は松本のものではないと前々から思っていましたが、上沼さんや後藤さんと飲んでいて、これは飯田の血だと確信しました」と。
それは恥ずかしくもあり、うれしい言葉でしたね。萩元さんは飯田に特別な思いを抱いており、私たちも濃密な時間を過ごさせてもらいました。
このコンサートが飯田にもたらしたもの、それは私には分かりません。
私は今もクラシックファンではないですし、実は普段ロックを聴いていることの方が多いです。
ただ、やはり「一流のもの」との出会いは素晴らしいこと。何よりも演奏家から「聴衆が素晴らしい」と言ってもらえるまちはなかなかありませんよ。
そう考えれば、これまでの取り組みは決して間違いではなかったと確信しています。

上沼 俊彦(かみぬま としひこ)さん
1954年、豊丘村生まれ。
飯田信用金庫に勤務し、代表理事を務めたのち2017年に退職。
同年からNPOしんきん南信州地域研究所の主任研究員を務める。
これまでの知見を生かし(公財)長野県産業振興機構 事業継承・引き継ぎ支援センター部南信エリアコーディネーターほか民間企業の役員としても活躍。

