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飯田市のあゆみ(歴史/沿革)

ページID:0013756 更新日:2010年12月24日更新 印刷ページ表示

飯田市の詳細な沿革や気象・人口・産業・文化・教育など

 飯田市は日本のほぼ中央に位置し、長野県の最南端、いわゆる伊那谷における中心都市である。

 人口は約10万5千人、天竜川両岸に広がる面積は約659km2。
 東に南アルプス、西に中央アルプスがそびえ、山すそは扇状地と段丘が広がり、豊かな自然と優れた景観、四季の変化に富んだ暮らしやすい気候に恵まれている。
 本市は、古くから東西日本を結ぶ文化の回廊の要地として栄えた。
 人々の進取性と学究性に富んだ気質は、古層の文化をよく伝え残しながらも新しい文化をいち早く取り入れて、特色のある文化を築いてきた。

 近世の儒者太宰春台、近代日本画の先駆者菱田春草、生物学者・殖産家田中芳男、象徴派詩人日夏耿之介、演劇研究家河竹繁俊、法曹界の今村力三郎、地方史研究の市村咸人、農業経済史の古島敏雄ら優れた文化人が輩出した。

 日本民俗学の創始者柳田國男の養家の故郷もこの飯田である。
 近年は、りんご並木や天竜峡のあるまち、民俗文化の息づくまちとして知られ、また人形劇のまちとして広く親しまれている。

 本市には古代から近現代に至るまで、全国でも有数の膨大な量の歴史資料が残されている。

 山本地区で発掘された竹佐中原旧石器時代遺跡をはじめ、各時代の数多くの遺跡は人々の生活が脈々と続いたことをもの語り、中でも縄文時代中期、弥生時代後期、古墳時代後期に文化の高揚をみせている。

 奈良・平安時代になると、座光寺に伊那郡衙が置かれ、郊戸庄・伊賀良庄・伴野庄が拓かれた。鎌倉時代になると、伴野庄知久郷に知久氏、郊戸庄飯田郷には地頭阿曾沼氏の存在が知られ、南北朝時代からは小笠原氏系の坂西氏が勢力を持ち、室町時代に飯田城を築いたといわれる。

 このあたりが飯田の発祥といえよう。
 ちなみに、「飯田」という地名は「結いの田」つまり共同労働の田の意味から生まれたといわれ、文献に登場するのは鎌倉時代のことである。

 戦国時代末から安土桃山時代にかけての飯田は、武田・織田・豊臣・徳川の4大群雄の支配に翻弄され、領主が目まぐるしく変化した。
 天文23年(1555)伊那郡を攻略した武田信玄は秋山信友を郡代として飯田城に置き、天正10年(1582)織田信長は全郡を毛利秀頼に与えたが、本能寺の変の後は下条頼安が入城し、天正15年徳川家康配下の郡代菅沼定利が知久平城から飯田城に移った。

 天正18年、豊臣秀吉の命を受けた毛利秀頼が再び伊那郡10万石を統治し、その死後文禄2年(1593)、婿の京極高知が継いだ。
 毛利氏から京極氏のころにかけて10年足らずの間に、飯田城の大改修され、寺院の城下町移転がなされ、伝馬など交通網が整備され、本町・知久町・松尾町など城下町15町が新たに開発された。

 現在の飯田市街でみられる碁盤の目状の街路網はこの時作られたものが基盤となっている。豊臣秀吉が全国統一を行ったこの時期をもって、飯田における近世の幕開けとみることができよう。
 関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601)5万石で入城した小笠原秀政も在城12年で松本城に移り、一時幕府領となるが、元和3年(1617)脇坂安元が5万5千石をもって伊予大洲から移封となった。

 この頃伊那街道沿いに桜町一~三丁目が開発され、伊那谷の政治・経済・文化の中心としての近世飯田町の基礎がほぼ完成した。

 寛文12年(1672)脇坂氏に代わって下野烏山から堀親昌が2万石で入城し、以後明治まで196年間にわたって、堀氏が飯田の統治を行った。
 堀氏以外にも飯田市域には美濃高須藩領の飛地や小笠原・座光寺・知久・井上・近藤などの旗本領、幕府直轄領が配され、支配関係は複雑となった。

 近世を通じて飯田町やその周辺に広がる多くの農村では農業や生糸・和紙・元結・傘・柿・漆器などの小工業が発達し、所領の壁を越えて経済活動が活発に行われた。
飯田町と周辺農村は、中馬と呼ばれる運送業によって全国市場と結びつき、農民や職人、商人の活躍を基礎として、経済的にも文化的にもそれぞれ独自の発展を遂げた。

 明治の新政となり、明治2年(1869)堀親広は藩籍を奉還し、明治4年廃藩置県によって飯田県となったが、その年筑摩県に合併され、明治9年長野県に統合された。
飯田町は下伊那郡役所の所在地として、諸官庁諸機関を集め、伊那谷の中枢として近代を迎えた。大正時代は生糸が輸出産業として隆盛を極め、この地方の豪壮な農村風景の礎を築いた。

 明治22年町制を布き、そして昭和12年4月1日には上飯田町と合併し、飯田市として新しく発足。
 以来、昭和31年9月30日には座光寺・松尾・竜丘・伊賀良・山本・三穂・下久堅の7ヶ村と合併。
 36年3月31日に川路村と合併、39年3月31日に龍江・千代・上久堅の3ヶ村と合併、59年12月1日に鼎町と合併。
 平成5年7月1日に上郷町と合併、そして平成17年10月1日に上村・南信濃村と合併し、静岡市・浜松市と隣接する都市となった。

 一方、昭和22年4月の大火により古来から小京都といわれた市街地の大半を消失したが、「りんご並木」に象徴されるように、都市計画に基づく整然とした緑の街路は、防火モデル都市として全国に誇るまでに生まれ変わり、学校施設をはじめとする文化施設や環境衛生施設等も急速に充実し、着々と近代的文化都市として発展してきた。

 また、昭和54年に始まった人形劇の祭典は、劇人と市民に支えられながら日本最大規模となり、フランスのシャルルヴィル・メジェール市と友好都市提携を結び、当市は人形劇のまちと称されるようになった。世界につながった飯田市は、平成22年に人形劇によりまちづくりを進める国際的な連帯とネットワークの構築を目指した「人形の友・友好都市国際協会」設立会議に参加し、小さな世界都市に向けた新たな一歩を踏み出した。
更に主体が行政から市民に移って継続・発展していることに象徴されるように、市民の自主的な学習活動や地域づくり活動の盛んなまちとしても注目を浴びるようになった。

 昭和41年に第1次「田園工業都市」、その後、第2次「緑と光にあふれた豊かな住みよい田園都市」、第3次「緑とロマンにあふれ 活力ある りんご並木のまち いいだ」を理想とした基本構想・基本計画を経て、平成8年4月には21世紀に向けての足固めとなる「人も自然も美しく、輝くまち飯田-環境文化都市-」をめざす都市像とした第4次基本構想・基本計画を市民と行政が一体となって策定。人の営みと自然とが調和するまちづくりに先駆的に取り組み地域の個性を磨いてきた。
いち早く環境に着目しまちづくりを進めてきた飯田市は、平成19年に「環境文化都市宣言」を行い、平成21年1月には国から「環境モデル都市」の認定を受けた。そして低炭素で活力あふれる地域づくりを進め、「環境への配慮」から「環境を優先する」段階へと新たな一歩を踏み出した。

 地域の少子高齢化が進む中、若者が故郷へ帰ってこられる産業づくりを目指して、市民、事業者、行政が一丸となって取り組む「地域活性化プログラム」を平成18年に策定。そして、市制施行70周年にあたる平成19年4月には、「住み続けたいまち 住んでみたいまち 飯田 人も自然も輝く 文化経済自立都市」を目指す都市像とした第5次基本構想基本計画をはじめ、自治基本条例、地域自治組織、行財政改革大網そして総合土地利用などの新しい枠組みに基づいた市政経営をスタートさせた。

 地域経済活性化プログラムによって若者が帰ってこられる産業づくりを進め、地育力向上連携システムの推進により帰ってきたいと考える人づくりを行い、自治基本条例の精神が浸透し地域自治組織がしっかり機能することで若者が住み続けたいと感じる地域づくりを進めていく。それらにより人材サイクルの大きなうねりをつくり出して、文化経済自立都市の実現を目指している。

 南信州地域の中核都市としての経緯を見ると、昭和43年に中部圏開発整備法に基づく伊那谷都市開発区域、昭和44年に飯伊地域広域市町村圏、昭和55年に第3次全国総合開発計画による飯伊地域モデル定住圏、平成5年には地方拠点法による地方拠点都市地域指定、さらに平成21年3月には、国の「定住自立圏構想」に則り飯田下伊那を圏域とする定住自立圏の中心市宣言を行い、同年7月には全国に先駆けて圏域内の13町村と「定住自立圏形成協定」の締結を果たした。安心して「定住」できる諸機能を確保し、「自立」のための経済基盤や地域の誇りを培うことで、魅力あふれる圏域づくりを目指している。

 南信州圏域の定住自立圏の取り組みを、高次都市機能を有する静岡県浜松・愛知県豊橋都市圏へ広げ、県境を越えた地域連携を進めていくための「三遠南信地域連携ビジョン」を策定。遠州、東三河地域との三遠南信地域連携は、新しい国土形成の先鞭として注目を集めている。
 また、当市及び下伊那郡の各町村で構成する南信州広域連合では、三遠南信自動道の早期全通やリニア中央新幹線飯田駅設置等の交通インフラの実現を見据えて「リニア将来ビジョン」を策定したところである。
 こうした様々な将来ビジョンを地域全体で共有化することにより、当地域の「結い」の力を一層引き出し、次の飛躍へとつなげていきます。