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「恒川遺跡群出土品」を飯田市有形文化財に指定しました
座光寺地区の恒川遺跡群から出土した伊那郡衙に関わる出土品を飯田市有形文化財に指定しました。
伊那郡衙(いなぐんが)は奈良・平安時代に信濃国の伊那郡を治めていた役所で、座光寺の高岡の森南側に広がる恒川遺跡群にありました。今回、指定した出土品は、恒川遺跡群が伊那郡衙であることを示す重要な資料で、墨書土器(ぼくしょどき)7点、陶硯(とうけん)88点、瓦(かわら)15点です。
新指定 恒川遺跡群出土品(ごんがいせきぐんしゅつどひん) 一括 計110点
- 「官」4点・「官」カ1点・「厨」1点・「信」1点 計 7点
- 圏足円面硯79点・円面硯2点・蹄脚円面硯1点・獣脚円面硯2点・転用硯4点 計88点
- 軒丸瓦3点・丸瓦3点・軒平瓦6 点・平瓦3点 計15点
墨書土器
墨書土器は墨で文字や記号が書かれた土器をいいます。須恵器や土師器の底部や側面に書かれることが多く、8世紀から9世紀に盛行します。組織や官職、地名、人名など、所有者に関する情報や目的・用途などが記されているものが多く、他に仏寺や祭祀・儀礼に関連したもの等があります。恒川遺跡群では54点の墨書土器が出土し、その内郡衙に関連する遺構及び区域から出土した墨書土器は41点あり、その中で、郡衙に関連すると考えられる「官(かん)」「厨(くりや)」「信(しん)」の文字が書かれた資料を指定しました。
「官」は官用で使われたことを示しています。「厨」は官衙の給食施設である厨家(くりや)の所有物であることを示しています。「信」は信濃国を示す可能性があると考えられます。「官」と読む可能性の高い1点を含んで「官」が5点あり、「厨」と「信」はそれぞれ1点です。
恒川遺跡群から出土した墨書土器は、判別の難しい文字や記号が記されたものが多いのですが、その中で、指定の墨書土器は、伊那郡衙の所有であったと考えられます。また、出土位置などから伊那郡衙の遺構の役割や変遷を推定することができ、極めて重要な価値を持っています。
陶硯
陶硯は硯専門に焼かれた陶器製の専用硯(せんようけん)、他の目的で焼かれた土器などを硯に転用して使う転用硯(てんようけん)があり、専用硯には形態により円面硯(えんめんけん)・風字硯(ふうじけん)・形象硯(けいしょうけん)に分けられます。遺跡群全体で88個体が出土し、専用硯が84個体、転用硯が4個体です。円面硯の脚部形態は輪状の脚で透かしをつける圏足が79点と大多数を占め、獣の足を模した獣脚2点、蹄をかたどった蹄脚1点があります。また、転用硯には朱墨が付着したものが1点あります。小破片も含めてすべての個体を指定しました。
恒川遺跡群から88個体の陶硯が出土しており、その内84個体が専用硯です。長野県全体の専用硯数268個体のおよそ31%にあたります。なお、伊那郡全体では109個体があり、長野県全体の約40%を占めています。硯は郡衙で働く役人の必需品であり、当時の文書作成業務の中心をなす遺物です。
恒川遺跡群の陶硯の特徴は、専用硯の出土量が多いことです。近隣の官衙遺跡と比較すると、美濃国武儀郡衙(むぎぐんが)の岐阜県関市弥勒寺(みろくじ)東(ひがし)遺跡では、27個体の円面硯が出土し、郡庁区域から18点、正倉院から3点、館・厨家区域から2点等が示されています。また、信濃国諏訪郡衙の岡谷市榎垣外官衙(えのきがいとかんが)遺跡の広範囲から13個体の円面硯が出土しました。調査面積や出土地点の遺構などに違いがあって単純には比較できませんが、恒川遺跡群の多さが際立っています。このことは、伊那郡衙での文書業務の多さを反映していると考えられ、信濃国衙に匹敵するほどのレベルで行政に関与していた可能性も指摘されています。
瓦
瓦類は軒丸瓦・丸瓦・軒平瓦・平瓦に分類されます。薬師垣外地籍の正倉院の区画溝とその周辺からの出土量が多く、軒丸瓦3点・丸瓦3点・軒平瓦3点・平瓦6点の計15点を指定しました。
正倉院の北西隅の区画溝及びその内側の正倉院内から出土しており、正倉の中で大型で中心的な役割をもつ法倉が瓦葺きであった時期があったことを示しています。
伊那郡衙の正倉院については、正倉1期~4期の変遷とその構造が明らかとなっています。その中で、瓦類は正倉3期に位置づき、8世紀後半から9世紀代にあたります。正倉3期は、正倉が掘立柱建物から礎石建物へ建替えられる段階であり、この時に瓦葺きの法倉の存在していたこと想定されます。