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飯田アカデミア第91講座を開催しました(20210227‐28)

ページID:20210227 更新日:2021年3月17日更新 印刷ページ表示

 青山学院大学の高嶋修一さんに、鉄道と都市社会の発展の歴史についてオンライン形式で講義していただきました。

アカデミア

  • 開催日   2021年2月27日(土曜日)28日(日曜日)
  • テーマ  通勤電車の社会史-東京の通勤はなぜ「痛勤」なのか-                                              
  • 講  師  高嶋 修一(たかしま しゅういち)さん(青山学院大学経済学部教授)
  • 会  場  飯田市役所 C棟大会議室

  

講義概要

テーマ  通勤電車の社会史-東京の通勤はなぜ「痛勤」なのか-

  第1講  東京の近代化と都市交通機関の誕生

  明治時代初頭、東京は近代化を進めていきます。そのためには、都市交通機関の発展が必要不可欠でした。東京における最初の近代的な交通機関として、馬車鉄道が導入されました。馬車鉄道は当初は通勤などに使用されることは少なかったようですが、東京の発展とともに利用者が増加していきます。しかし馬の糞尿や蹄鉄による道路の破壊などの問題から、電車化が求められることになります。1880年代後半から電車運転の計画が立てられますが、経営形態や動力の技術面などをめぐり激しい論争が起こります。電車運転を東京で実現させることは、様々な勢力の政治的対立の争点にもなったのです。

 

  第2講  増大する輸送需要への対応

  政治的な紆余曲折が一応決着し、1900年代初頭から東京では電車運転が本格化します。その際に問題となったのは、利用者のマナーです。決まった停留所で乗り降りすることにはじまり、車内での適切な振る舞いが利用者に強く求められました。このような振る舞いは、「交通道徳」と呼ばれるようになり、戦後まで継承されていきます。その背景には、当時の東京では輸送需要が膨大に拡大していたのに対して、実際の輸送力が不足していたということがあります。実際、この時期には満員電車がすでに問題化していました。不足する輸送量を、円滑な車両運用でカバーするために、乗客に交通道徳を習得させてスムーズに乗降させようとしたのです。当時の社会は、輸送力というハードの不足を、乗客の交通道徳というソフトによって解決しようとしていたのです。

 

  第3講  都市計画と鉄道

  両大戦間期に、東京は周辺の町村と合併して拡大しその市域を拡大させていきます。その過程で、近代的な都市計画が必要であるという動きが出てきます。それをリードしたのは、鉄道関係者たちでした。鉄道を管轄する鉄道省の役人たちは、鉄道を東京に張り巡らせる鉄道計画を進めていくことが、近代的な都市としての東京を作ることにつながると考えていました。この時代、鉄道計画と都市計画は同義だったのです。彼らの計画は、財政的な問題により多くは実現しませんでした。しかしその構想は戦後も継承され、現在の東京の基盤となったのです。

 

  第4講  交通調整と戦後の展望

 1920年代から1930年代、民営鉄道の発達などを受けて、様々な交通機関を人為的にコントロールすることが必要であるという考えが出てきました。これを「交通調整」と呼びます。様々な議論の末に、東京とその周辺地域をいくつかのブロックにわけ、それぞれを鉄道会社が担当するという交通調整ブロックが採用されました。この方式は戦後に一部修正・揺り戻しが生じ、現在に至るまで首都圏の交通状況に影響を及ぼしています。

 鉄道という新しい技術は、社会に様々な変化をもたらしました。その中で、輸送力の不足という最大の問題を、当時の社会は人々の行動様式を変化させることで乗り切ろうとしました。それは、ハードウェアの不足という根本的な問題を、個々人の頑張りで強引に解決しようとすることと同義でもありました。東京における鉄道の歴史は、現在コロナウイルスなどで我々が直面している社会状況とも相通じる部分があるかもしれません。