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飯田アカデミア第94講座を開催しました(20210619-20)

ページID:20210702 印刷用ページを表示する 掲載日:2021年7月2日更新

住友史料館主席研究員の海原亮さんに、流行病と江戸時代の社会についてオンライン形式で講義していただきました。

 

アカデミア94

 

  • 開催日 2021年6月19日(土曜日)、20日(日曜日)
  • テーマ 流行病と江戸時代の社会                                              
  • 講  師 海原 亮(うみはら りょう)さん(住友史料館主席研究員)
  • 会  場 飯田市役所 C棟大会議室

  

講義概要

  新型コロナウィルスの脅威が現代社会を覆っています。こうした感染症流行への対策は、あたかも国家=権力に要請された基本的な役割と思われがちでありますが、実はそのような考え方は、近代以降の所産であるのです。江戸時代の社会では、現代とは大きく異なる、独自の医療環境が成立していました。本講義では、こうした中で、頻発する感染症の流行に対し、江戸時代の人々がどう対応したのか、についてお話いただきました。

 

テーマ  流行病と江戸時代の社会

第1講 「江戸時代の医療環境」

 第1講では、「医療」という社会的事象を〈医療従事者〉と〈患者〉の相関関係で捉える「医療環境」の視角が提示されたうえで、第2講以降の前提として、江戸時代の医療環境の特質が紹介されました。すなわち、明治七(一八七四)年の医制を画期として近代的(現代的)な医学が確立する以前の、江戸時代の医療・医学は次のように理解できます。

(1)それ以前に比べ、漢方医論の日本化、臨床に役立てるオリジナルの治療体系の形成が進むなど、学問としての医学が飛躍的に発展しました。(2)商品経済・流通の発展や村落共同体の成熟などを背景に、医療に携わる者(医師、売薬業者など)が増え、医療が「商品化」しました。(3)出版文化が興隆し、養生書や簡易医学書などが普及したことで、医療を受容しようとする者(患者)の知識が豊かになり、需要が高まりました。(4)一方、公儀=幕府は確固とした医療政策をもたず、医学・医療の発展は医師の自発性に委ねられました。(5)免許制度などもなかったため、医師の存立は、師匠―弟子関係と医師集団(仲間)による承認に依拠していました。(6)売薬商・宗教者が大きな役割を果たすなど、医療従事者の担い手は多様でした。(7)こうした中、幕末の長崎で日本初の「病院」システムが確立しました。

 

第2講 「流行性感冒と庶民の医学」

 江戸時代には各地でたびたび風邪(インフルエンザ)が流行し、社会に混乱をもたらしました。第2講では、これに人々がどう立ち向かったのか、について論じられました。この当時の人々の対応は、「食養生」と「神送り」の二つが基本でありました。前者は禁食・療法食などであり、その中には、現代からみれば、効能の疑わしい、自然発生的な流言レベルのものまでが含まれていました。一方、後者は病気の神を退散させる信仰・祈祷行事であります。例えば、安永元(一七七二)年の随筆『耳嚢』には、大坂の町の若者たちが非人を「風神」に仕立て上げ、鉦・太鼓・三味線で囃し立てながら、「風神送」を行ったことなどが記されています。また、安永五(一七七六)年の三井家大坂両替店の「覚書」には、京都嵯峨清凉寺から嵯峨天皇勅筆とされる般若心経を印刷した「疫除の御守」が出されたことが記録されており、こうした御札なども頻繁に刷られました。このように、江戸時代には医学が発展したとはいえ、それを享受できる人は限られており、ふつうの庶民にとっては、様々な信仰や祈祷行事が大きな位置を占めたのです。

 

第3講 「天然痘対策=種痘の持つ社会的意義」 

 第3講では、強い伝染性をもつ天然痘への対策として行われた種痘(予防接種)について論じられました。日本にはまず、一七世紀に中国(明)から人痘法(天然痘に罹患した人の体液や痂などを接種する)が伝えられました。しかし、これは危険性や不確実性が高く広まりませんでした。その後、一八世紀半ばに、清で発刊された医書『医宗金鑑』が流入し、そこで紹介された旱苗法が周防の医師・池田瑞仙などにより実践されました。こうした清の人痘法は長崎からも広められていきました。さらにトルコ(ヨーロッパ)式の人痘法も紹介され、一九世紀には人痘種痘が各地へ一定程度普及していくことになりました。一八世紀末以降、イギリスのジェンナーによって始められた牛痘法が世界中に広まるが、日本でも人痘法の展開を基盤として、嘉永期より医師などのネットワークを介して急速に全国へ普及していくことになりました。日本社会の中で種痘が確立するのは明治期のことでありますが、病気を未然に防ぐ予防医学の考え方は、すでに江戸時代に登場していたのであり、それを可能にしたのは、医師たちの好奇心・意欲・積極的な実践姿勢だったのです。

 

第4講 「世界史の事件としてのコレラ流行」

 第4講では、幕末のコレラ流行が取り上げられました。パンデミック(感染症の世界的流行)に日本も巻き込まれ、文政五(一八三二)年、安政五(一八五八)年、文久二(一八六二)年の3回にわたりコレラが流行しました。当時の日本には、これに対峙するのに十分な実力を医師が身につけておらず、流行性感冒(風邪)などと同様に、人々は食養生や神送りなどの祈祷行事に依存することになりました。しかし一方で、コレラの流行は、当初は西洋医学の翻訳に終始していた蘭方医たちの医療技術を高めることにも結びつきました。とくに注目されるのは、検疫法が紹介された点です。これが社会全体のシステムの中に位置づくのは明治期以降ですが、外国から伝播したコレラの猛威が、西洋医学の知識を導入し、さらには医療の近代化を促す大きな契機となったのです。そして、こうした状況に立ち向かったのも、公儀=幕府ではなく、医師たちでした。

 

 本講義では、医書や随筆などが豊富に紹介され、それに基づきながら、江戸時代の医療環境の特質とその展開が鮮明に明らかにされました。また、世界における医学・医療の動向との関係も意識された視野の広い講義でした。