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飯田アカデミア第95講座を開催しました(20211016-17)

ページID:20211120 印刷用ページを表示する 掲載日:2021年11月20日更新

神戸大学 名誉教授の須崎慎一さんに、「二・二六事件とその時代」について講義していただきました。

 

アカデミア95の写真

 

  • 開催日 2021年10月16日(土曜日)、17日(日曜日)
  • テーマ 二・二六事件とその時代                                              
  • 講  師 須崎 慎一(すざき しんいち)さん(神戸大学 名誉教授)
  • 会  場 上郷公民館 2階講堂

  

講義概要

 天皇制の在り方が変容するきっかけになった二・二六事件について、東京地検記録課で公開された「二・二六事件裁判記録」を精査して再検討した成果をお話しいただきました。従来の統制派と皇道派の対立という構図を乗り越えて、事件そのものの構造が再検討されました。

テーマ  二・二六事件とその時代

第1講 「青年将校運動の登場への道とその構図

 第1講では、陸軍青年将校運動の発足過程が分析されました。
 1920年代、陸軍内の腐敗や対外危機、庶民の窮状などに不満を持った青年将校たちは、1931年8月に青年将校運動を本格化させました。彼らの一部がクーデターを計画した十月事件は未発に終わりました。陸軍青年将校運動は、陸軍が政府などに自らの要求を認めさせるために、何をしでかすかわからない「抜かない宝刀」として軍上層部により活用されていくことになりました。また青年将校運動は軍の上層部を動かして自らが求める改革を実施していくことを目指しており、テロなどを目的としていたわけではありませんでした。青年将校運動と陸軍上層部の関係性は、荒木貞夫陸相が退陣して以降、変化していくことになるのです。

 

第2講 「青年将校はなぜ蹶起したのか

 第二講では、陸軍の上層部との関係性が悪化して以降の青年将校運動の動向が分析されました。
 彼らの活動に軍上層部から圧力が加えられるようになり、青年将校のなかに上層部への不満が膨らんでいきました。そのような中で、永田鉄山を暗殺した相沢事件は青年将校たちに衝撃を与え、彼らを直接的な行動へ駆り立てる契機となりました。さらに、自らが満州へ派遣されることが内定したこと、財政規律を重んじ軍拡を抑制しようとする高橋是清大蔵大臣への不満などが募った結果、青年将校はついに決起し二・二六事件へ向かっていくことになります。しかしこの段階になっても青年将校の内部でも様々な考えがあり、一枚岩と呼べる状況でなかった点も指摘されました。

 

第3講 「二・二六事件の勃発と軍事参議官との会見」 

 第三講では、二・二六事件の勃発後の展開が述べられました。
 重臣たちを多数殺害した青年将校たちは、軍の上層部に特に人事面を中心に様々な要求を行いました。軍の上層部を動かして自らの目的をかなえようとする動きであり、二・二六事件は従来イメージされるような「純真な青年将校たちの運動」ではないことをありありと示しています。軍の上層部は、彼らへの有効な対応策を当初見いだせず迷走しました。そのような状況下で青年将校と軍事参議官の間で行われた会見は物別れに終わりました。史料から読み取れるその会見の様子は、二・二六事件は統制派と皇道派の対立といった単純なものではなく、また青年将校の要求と軍上層部の考えに通じるものがある点を示しています。

 

第4講 「「解決」へのプロセス」

 第四講では、事件の収拾について解説され、事件全体についてまとめがなされました。
 軍事参議官との会見ののち青年将校たちの間では情勢を楽観視する見方が広がっていましたが、天皇の強い鎮圧の意向により、彼らは叛乱軍として扱われ帰順することになりました。2月29日には青年将校側は総崩れの状況となり事件は鎮圧されました。
 青年将校運動は本来テロや決起を目的とするものではなく、軍の上層部を動かしつつ改革を目指すものであり、純真な青年将校たちの活動としての二・二六事件というとらえ方が適切でないことを史料に基づいて説明されました。

 

関連ファイル

飯田アカデミア 第95講座 (PDFファイル/481KB)

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