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飯田アカデミア第102講座を開催しました(20240323)
飯田アカデミア第102講座を開催しました
- 開催日 : 2024年3月23日(土曜日)・24日(日曜日)
- テーマ : ロシア史を権力と民族から考える
- 講 師 : 池田嘉郎さん(東京大学教授)
- 会 場 : 飯田市役所 3階会議室
講義概要
現在の国際情勢にも繋がる国家体制や民族の問題を中心に、ロシア史を通史的に、ロシアの統治構造について論じていただきました。
テーマ ロシア史を権力と民族から考える
第1講 「リューリク朝とモンゴル支配」
9世紀に成立したキエフ・ルーシは、ユーラシア・ステップの国家として形成された。リューリク朝下でビザンツ帝国がキエフ・ルーシの上位権力として位置し、ウラジーミル聖公が政教をルーシの国教に定めたことで、教会権力が自立する西欧とは異なる構図で、政教が東スラブ文化の精神的基礎をなした。ルーシの都市の構造もまた、自立的な商業都市が形成された西欧とは異なり、公権力がつくった軍事・行政拠点としての性格を色濃く有していた。リューリク家の公が土地と住民を所有するという権力の性格がここで成立していった。その後、キエフ・ルーシは諸公国の分立とモンゴルによる間接支配の状態が続いたが、諸公間の争いのなかで、人口が流入した東部のモスクワ公が徐々に台頭していった。
第2講 「モスクワ大公国とロシア帝国」
14世紀後半以降、ハン国の衰退とともにモスクワ大公国が強大化していき、相続や集権的行政の点で徐々にヨーロッパ型の国家機構に近づいた。一方、そうした貴族の合意に基づいて統治されるモスクワ大公国にあっては例外的に、イヴァン4世(雷帝)は極端にツァーリ権力を強化し、その後のロシア政治における暴政・劇場政治の原型となった。また、西欧とは対照的に、ツァーリ権力と教会権力は一体性を持つに至る。スムータの動乱期を経て成立したロマノフ朝では、初期には貴族会議の意義も低下し、ツァーリの主導権が強まった。ピョートル1世は改革と啓蒙による近代化という構図を成立させた。一方で、政府と農民との懸隔が存在し、そこに専制打倒を唱える対抗エリートも存在していた。
第3講 「ソ連と現代ロシア」
19世紀に入ると、デカブリストの乱の流れをくむ自由主義貴族や自治体が立憲制をめぐって模索を続けた。1905年革命により成立した新国家基本法は、皇帝と議会による立法権の分有を定めたものの、実態は皇帝が歴史的権力として憲法の上位に立つ体制であった。専制政府を崩壊させたロシア革命においても、臨時政府は憲法と議会を導入することができなかった。ソヴィエト体制下の憲法は共産党を縛るものとはならず、すべての権力が共産党に事実上集中することとなり、実質的には1906年以前の専制体制に近かったと言える。権力者が法よりも上位に立つという体制が通底しており、その点では現代ロシアも1907年クーデタ以降のロシア帝国に近い状態が現出していると言える。
第4講 「多民族国家ロシア:とくに現状に着目して」
イヴァン4世以降、19世紀後半までにロシア国家は拡大していった。ただし、支配的宗教はロシア正教であっても現地の宗教も容認され、宗教ごとに行政機構を置いて統治の一助としていた。ソヴィエト政権下でも民族単位の共和国・自治共和国が許容され、その民族支配は植民地支配の時代にあっては新しさがあった。一方で、1930年代半ば以降はロシア・ナショナリズムが台頭し、大祖国戦争によってさらに強化された。その影響下にある現代ロシアもまた、国家統合としての戦争の記憶とソ連邦時代の勢力圏認識を共有していると言える。ロシア連邦にあって、「多民族国民」としての規定は上述の経緯を踏まえながら微妙な関係を保っている。