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川路神社の石碑「惟拓魂」について
川路神社の石碑「惟拓魂(おもうたくこん)」について
この度、川路神社にある石碑についてのお問い合わせと、その石碑について多くの人に知ってもらいたいとの要望がありましたので、ホームページに掲載します。
【お問い合わせ内容】
川路神社の入り口に「惟拓魂」の文字が彫られた石碑がありました。その裏に私の曽祖父の名前が刻まれていることを最近知りました。曽祖父は戦時中満州に渡り、日本に帰ることなく亡くなっております。この石碑がどのような経緯で建てられたものなのか教えてください。
【説明】
「惟拓魂」と刻まれた川路村開拓団の慰霊碑建立についての記録は、『満洲分村開拓記 老石房川路村』(昭和54年(1979)、川路地区自治協議会刊)に詳しく記されています。
当時の地元の新聞記事も参照すれば、「惟拓碑」建立の経緯はつぎのように整理できます。
昭和46年3月に元川路分村開拓団員の母子が、一時帰国しました。このとき、旧満洲川路分村の老石房本部跡墓地の土を、中国現地政府公安当局の許可を得て持ち帰り、その墓地の土を開善寺に捧げて読経供養がなされました。この折に開善寺住職から、川路分村の墓地の土を故郷に埋めるにあたって、殉難者の慰霊の碑を建立し、その苦難の歴史を後世に伝えて霊を慰めるよう勧められました。これを受けて元開拓団の副団長はじめ旧開拓団員一同が賛同して実現されることになりました。
一方、これと前後して川路自治協議会においても旧満洲開拓団の慰霊碑建立の動きが具体化しつつあり、川路の全地区をあげて計画が進展していくことになりました。元村長・助役、旧分村開拓団からの帰国者、自治会役員などが準備委員に依嘱され、計画を進めるとともに、拠金協力を呼びかけました。募金目標は70万円でしたが、予想を超えて137万円余が寄せられました。
このため当初計画の慰霊碑に加えて、碑の裏面に犠牲者271名の名前を刻むことになりました。「惟拓碑」は川路神社の入口に建てられました。
除幕式は昭和47年4月30日に行われました。
「惟拓魂」の碑文には以下の追悼文が刻まれています。
満蒙開拓慰霊之碑
昭和七年満洲国成立し第一次弥栄村より第十四次に亘る開拓団八百八十余、三十二万余人を大陸に送出の歴史的時代に際し、川路村は先ず信濃村等に参加、青少年義勇軍の送出を重ね、昭和十三年満洲分村を決意して浜江省木蘭県老石房八千町歩に翌年紀元節を以って入植し、上伊那九ヵ村と佐久海瀬村の協力を得て、二百戸分村を達成。屢(る)次(じ)の勤労奉仕隊等々、事変戦争の熾烈下、農村更生と民族大移動の国策に挺身し、五色旗の楽土成らむとして、急転直下の悲運に遭遇せり。茲(ここ)に老石房川路村の清水団長と団員その家族老幼並に、各団各般に於いて満洲開拓に従いたる悉(ことごと)くの英魂を惟(おも)い、挙村協力慰霊之碑を建立して後世に伝え、永く民族の協和と平和永遠を冀(こいねが)う。
昭和四十七年四月三十日
川路自治協議会
同 建碑委員会
(以上『満洲分村開拓記 老石房川路村』89頁より)