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丸山の早生赤梨

ページID:0047884 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月26日更新

丸山の早生赤梨(まるやまのわせあかなし) 3本

区 分:飯田市天然記念物(平成21年3月23日指定 ※平成29年3月10日 追加指定

所在地:飯田市滝の沢6994

所有者:個人

あかなしのき

概 要:

栽培樹としては伊那谷で最も古い梨の木で、飯田下伊那における果樹栽培の原点となった木です。

今なお多くの実を付けており、10月上旬から中旬にかけて収穫されます。


丸山三吉さんは、安政2年(1855)に新潟県中蒲原郡新田村で生まれました。

中蒲原郡は古くから梨の産地で、三吉さんは梨を新潟から浜松へ運んで販売していましたが、伊那谷でも越後の梨が好評で良く売れたので梨栽培を決意しました。

明治19年(1886)に、上郷村下黒田で三吉さんの親族である丸山栄吉さんが梨栽培を始め、三吉さん自身も明治22年(1889)に上飯田で栽培を始めました。この頃、丸山の早生赤梨が移植されました。

自らも梨園経営に乗り出した三吉さんは、明治24・25年頃から梨栽培の有利性と栽培法を説いて、伊那谷一帯を歩き回り梨栽培を勧めました。明治27年(1894)頃には、家族全員を新潟から呼び寄せ、上飯田に移住しました。

しかし、順調にみえた梨栽培もこの頃から病気がまん延し、農薬のない当時は廃園が相次ぎました。

三吉さんはボルドー液(※1)が効果があると聞くと、秋葉街道(※2)を下って浜松駅まで歩き、静岡市の農業試験場で調整法を習い、自ら調合しました。最初は散布器具がないため、ワラをほうき状にして枝や葉に振り掛けるなどし、何とか下黒田と上飯田の他、1・2の梨園だけは守ることができました。

その後、丸山三吉さんの努力と栽培技術の進歩もあり、昭和初期の養蚕の不況も重なり、梨栽培は徐々に広まっていきます。一方で、昭和の初め頃から新品種「二十世紀」、昭和40年代からは「新水」「幸水」「豊水」「南水」などに替えられました。また、明治の末期には桃、昭和初期にはリンゴも栽培が始まりました。今日、明治時代の早生赤梨は、滝の沢の丸山さん宅に4本残されているだけで、このうち樹勢の良い3本が指定されています。

※1 ボルドー液:殺菌剤として使われる硫酸銅と消石灰の混合液で、果樹や野菜など幅広く使用される農薬です。丸山三吉さんのこの明治29年(1896)頃の使用が伊那谷におけるボルドー液の初使用といわれています。

※2 秋葉街道:長野県から秋葉神社(静岡県浜松市天竜区)へ通ずる街道です。いくつも脇街道があり、飯田からは、八幡の町を起点に上村上町まで通じており、現在の国道256号とおよそ重なります。秋葉神社は防火の神社として名高く、秋葉街道は秋葉詣でと海産物流通の道として栄えました。

なしのき
なしのみ

収穫された果実です。市内の学校給食で提供されたこともあります。

 

見学・注意事項

見学にあたっては、所有者へ声をおかけください。

アクセス

○信南交通乗合バス 大休線「西中入口」 徒歩9分


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