文永寺 石室・五輪塔
文永寺 (ぶんえいじ)
区 分:重要文化財(昭和5年5月23日 国指定)
所在地:飯田市下久堅南原1245-3
所有者:文永寺
時 代:鎌倉時代 弘安6年(1283)
概 要:
文永寺にある五輪塔とそれを覆う石室です。
石室(せきしつ) 1基
構 造:石造(※1)、方形平面、切妻造(きりつまづくり ※2)、平入り(ひらいり ※3)、ノミ切り仕上げ(※4)
※1 長石質花崗岩(ちょうせきしつかこうがん):花崗岩はマグマがゆっくりと冷えて固まった岩石で、ご飯にごま塩をふりかけたような白と黒の岩石です。長石とは、箱形をした白っぽい鉱物で、ガラスのような光沢があります。長石を多く含んだ白っぽい花崗岩でできています。
※2 切妻造:本を伏せたような三角形の屋根を切妻といいます。
※3 平入り:切妻造で、本の背表紙にあたる部分(棟)と並行する部分に入口があることをいいます。
※4 ノミ切仕上げ:ノミと金槌で叩いて表面を仕上げたものです。
規 模:桁行(けたゆき ※5)1.289m、梁間(はりま ※5)1.200m(以上、石壁間真々 ※6)、軒高1.200m、棟高1.755m
※5 桁行・梁間:本を伏せたような三角形の屋根の場合、背表紙にあたる屋根の平な尾根(棟)と同じ方向が桁行、三角形にみえる方向が梁間です。
※6 真々:しんしんと読みます。建物の規模は、内側や外側の距離ではなく、柱や壁の中心と中心の距離で現す場合が多くあります。
概 要
正面を除いた三方に、平たく加工した石を積み、屋根は二枚の平石を突き合わせて、その上に棟石を置いています。内部床は一枚の床石とし、この上に五輪塔を置いており、納骨のための穴が開いています。この下に納骨壷が埋納されています(※7)。
正面の土台石にはホゾ穴があり、かつては扉などがあったと考えられます。
正面の天井面に、「弘安六年癸未 十二月二十九日 神敦幸造 南都石工 菅原行長 左衛門尉 神敦幸 生年六十二歳」と刻銘があります。これにより、五輪塔と石室は、知久敦幸(ちくあつゆき ※8)が南都(奈良)の石工に命じて造らせたものであることがわかります。
この石室によって、五輪塔の年代がわかるだけでなく、五輪塔を風雪から守り、良い形のまま現在まで残すことができました。
※7 発掘調査によって、この下から大きな甕(かめ)が出土しています。この甕は12世紀(1100年代)に焼かれたもので、五輪塔等設置とは時期差があります。また、焼骨や新しいものでは15世紀(1400年代)の銅銭、焼き物などが出土しており、五輪塔設置の後にも何らかの宗教的な行為が行われたと考えられます。
※8 知久敦幸:知久氏は諏訪氏の一族である神(みわ)氏です。もともと上伊那にいましたが、鎌倉時代に下伊那に土着し、飯田市の天竜川左岸一帯を支配しました。
五輪塔(ごりんとう) 1基
構 造:長石質花崗岩、組上げ式
規 模:最大幅0.430m、総高1.167m
地輪(ちりん):1辺0.430m、高さ0.276m
水輪(すいりん):直径0.394m、高さ0.291m
火輪(かりん):1辺0.409m、高さ0.267m
風輪(ふうりん):直径0.288m、高さ0.127m
空輪(くうりん):直径0.258m、高さ0.206m
概 要:
五輪塔とは、主に墓標や供養塔として使われるもので、下から方形、円形、三角形、半月形、宝珠形をしており、古代インドで宇宙を構成するという、地・水・火・風・空(ち・すい・か・ふう・くう)を表しているとされます。通常、地水火風空を表す梵字(※9)を刻んでいます。
風輪・空輪(上部の2段)のみ一つの石で、他は別の石を組み上げています。
この五輪塔は典型的な鎌倉時代の美しい形をしており、残りも非常に良いものです。
※9 梵字:古代インドで発祥した文字で、日本の仏教では仏などを一文字で表す際に多く用いられます。
右より、東側、南側、西側、北側側面の写真です。
ここに注目!
五輪塔としては日本で最初に、石室としては日本で3番目に重要文化財に指定されています。
石室を伴う五輪塔は全国的に珍しく、さらに鎌倉時代の銘がある点で、大変価値のあるものです。
知久氏と文永寺
知久氏は元々現在の上伊那郡箕輪町の知久沢を出自とする氏族でしたが、承久の乱(1221)の後、知久信貞が下伊那の天竜川左岸に本拠地を移したといわれています。敦幸は信貞の子といわれており、文永寺石室の銘から敦幸が諏訪氏である神氏に属していたことがわかります。
知久領内には文永寺や法全寺をはじめとする寺社が多くあり、知久氏の教養の高さをうかがうことができます。また、遣明使(けんみんし ※10)として活躍した天与清啓や、皇室との関係が深かった宗詢など、多くの高僧を世におくった名門一族です。
文永寺は文永元年(1264)に知久信貞により創建されたといわれ、武家関係では飯田下伊那最古の寺院です。皇室とのつながりも深く、室町時代、数代にわたり勅願寺(ちょくがんじ ※11)となった例は全国的にありません。戦国時代、武田信玄が下伊那に乱入すると兵火にあいましたが、その後、天皇の命によって再興しました。
※10 遣明使:室町時代、明(歴史上の中国の国)との交易のために使節が日本から派遣されました。
※11 勅願寺:天皇などによって願いがかけられ、国の平和や皇室の繁栄が祈られた寺をいいます。
見 学
見学は自由ですが、お寺の行事等都合に配慮してください。
交通・アクセス
○駐車場有
○JR飯田線「駄科」 徒歩13分