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正調「絵島」

ページID:0113677 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月17日更新

正調「絵島」(せいちょう えじま) 

区 分:飯田市民俗文化財(平成10年11月27日 指定 ※上村指定

所在地:飯田市上村上町

概 要:

正徳4年(1714)におきた、当時人気の役者生島新五郎と江戸大奥の江島(絵島 ※1)のスキャンダルは人々の好奇心をかりたて、悲恋として劇となり唄となり舞踊となって江戸で流行しました。それが哀調を帯びた優雅な盆踊り唄として、上村上町に受け継がれています。

江島は風紀を乱した処分として高遠藩(伊那市高遠)へ流されて軟禁されましたが、高遠でも残っていません。高遠と上村は秋葉街道で繋がっており、上町は街道の上町宿として栄えた場所です。

  • ※1 「絵島」は、後年、事件を華やかにするための当て字です。

一、絵島ゆえにこそ門にたちくらす

  見せてたもれよ おもかげを

二、雁が渡るに出てみよ絵島

  今日は便りが来はせぬか

三、花の絵島が唐糸ならば

  たぐり寄せたや この島へ

四、風もないのに高遠の里の

  花が散るぞえ 姥桜

五、恋のとが人絵島が墓の

  里に来てなけ 秋の虫

江島生島事件

江戸時代中期に江戸城大奥御年寄(※2)の江島が歌舞伎役者の生島新五郎(いくしましんごろう)らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名が処罰された綱紀粛正事件です。大奥は、江戸時代将軍家の血筋を守るために設けられた居所で、正妻や側室や将軍の子、女中らが住まい、原則男子禁制です。

正徳4年(1714)、第七代将軍である家継(いえつぐ)の生母月光院(げっこういん)に仕える江島は、主人の代理として上野 寛永寺、芝 増上寺へ前将軍家宣の墓参りに出かけます。その帰り、芝居小屋 山村座にて生島の芝居を見学した後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開きますが、大奥の門限に遅れてしまいます。この事が江戸城中に知れ渡り、評定所(※3)が審理することになりました。

関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされました。江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)でしたが、月光院の嘆願により、さらに罪一等を減じて高遠藩にお預けとなりました。江島の遊興相手とみなされた生島は三宅島(伊豆諸島 東京都)への遠島、山村座は廃座となりました。他にも、江島の兄は斬首、大奥と出入りがあった業者らも処分を受けました。

江島は屋敷を出ることを許されず、食事は朝夕の二度、一汁一菜で、手紙のやり取りは許されないなど、質素な生活を送りました。後に比較的自由になり、高遠藩女性の躾(しつけ)の指導などをしましたが、寛保元年(1741)に61歳で死去しました。蓮華寺(伊那市高遠)に墓所があります。

  • ※2 御年寄:江戸城大奥の役職の一つで、将軍や将軍正妻との謁見が許されます。江島は月光院の右腕と呼ばれ、月光院に仕える女中の筆頭でした。
  • ※3 評定所:江戸幕府の最高裁判機関です。

見学・関連サイト等:

演舞の予定はありません。

動画:【本編】信州上村の伝統芸能 中郷獅子舞 御祝い棒 事の神送り 正調絵島 下栗の掛け踊り(外部リンク)(一般社団法人 地域創造)


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