千代米川の板碑
千代(米川)の板碑(ちよ(よねがわ)のいたび) 1基
区 分:飯田市有形文化財(平成24年3月21日 飯田市指定)
所在地:飯田市追手町2丁目655-7 飯田市美術博物館
所有者:飯田市
時 代:鎌倉時代〈永仁2年(1294)〉
規模等:高さ99.5cm、幅31cm、厚さ3cm 重量22.5kg 緑泥片岩製(※)
概 要:
板碑とは石製の供養塔の一種です。この板碑は、昭和6年、千代村役場建設中(旧千代自治振興センター敷地内)に地中から発掘されたもので、永仁2年(1294)の記銘年が刻まれており、作品の特徴もこれに近い鎌倉時代中後期の年代を示しています。長野県内の板碑としては、3番目に古い年代であり(※)、2番目の大きさです。また、市内の制作年が明らかな石製文化財としては、文永寺の五輪塔・石室〈弘安6年(1283)〉に次ぐ古さです。
出土地の土地所有者の墓地に移転されていたものが、平成24年に当市へ寄贈されました。
※ 近世以降、骨董品として流通するようになりますが、後世に持ち込まれたものを除きます。
画像右は拓本
解 説:
板碑とは
板碑とは石製の供養塔の一種で、板状に加工された石に梵字(ぼんじ ※)や、供養年月日、内容等を刻んでいます。形状は、板状に加工された短冊形の塔身部を中心とし、塔身部の上に三角形の額部(頭部)、下に設置のための基部を付けています。
鎌倉武士の信仰と強く結びついているといわれ、鎌倉時代から室町時代前半にかけて主に関東地方、鎌倉武士の所領地で流行り、戦国時代には廃れました。
形状や石材・分布から、主に武蔵型板碑と下総型板碑に分けられています。武蔵型とは、主に秩父・長瀞地方で産出する緑色片岩(りょくしょくへんがん ※)で造られた板碑をいい、下総型とは、主に茨城県筑波山から産出する黒雲母片岩という岩石製の板碑をいいます。
※ 梵字:古代インドで発祥した文字で、日本の仏教では、仏や菩薩などを一文字で表す際に多く使われています
※ 緑色片岩:火成岩(マグマが固まってできた岩石)等が、変成(圧力や温度等で岩石組織が変化すること)作用を受けた岩石の一種。緑色が強く縞模様が美しいため、庭石などに利用されており、秩父産のものは秩父青石と呼ばれています
現状
・額部の上端は欠損しており、塔身部との境にあったはずの二条線は、出土以前の風化・破損によって失われていますが、右端にその痕跡が残っています。風化もみられますが、全体の形状を保っており、銘文も判読できます。
・塔身部表側の最上部に天蓋(てんがい ※)を彫り、その下に阿弥陀如来を示す梵字「キリーク」、その下の右に観音菩薩を示す「サ」、左に勢至菩薩を示す「サク」を陰刻し、阿弥陀三尊が蓮華に載っていることを現しています。この下に「永仁二年二月」と陰刻しています。梵字は鎌倉時代の特徴である薬研(やげん ※)状に彫られ、天蓋はやや形骸化(けいがいか)していますが、垂飾金具の表現が確認でき、蓮弁を丁寧に表現しています。
※ 天蓋:仏像や貴人の頭上にある日傘や覆い
※ 薬研:薬草などを細かくするための道具で、断面V字状の舟形の容器。ここでは、断面がV字形の溝が彫られていることを示しています
長野県内でも古い板碑
本件は、長野県内で確認されている板碑のうちで、上田市「五位塚の板碑」(1275~78年)、佐久市「時宗寺の板碑」(1279年)に次いで3番目に古い年代のもので、大きさでは「五位塚の板碑」160cmに次ぐ2番目の大きさです。
武蔵型板碑の分布の西縁
武蔵型板碑の分布は関東全域に及び、周辺である山梨県や長野県にも存在が確認されています。長野県内の板碑の多くは東信地方に分布しており、南信地方では岡谷市で2基確認されているのみで、本件は武蔵型板碑分布の西縁を示す資料といえます。
参 考
本件の来歴を示す史料・伝承等はありませんが、竜東地域(天竜川左岸一帯)は、承久3年(1221)以降諏訪氏分流知久氏の所領といわれ、中世の文物が多く残されている地域です。
隣接する泰阜村には、宝治年間(1247~49)北条氏に滅ぼされた三浦氏の残党や南武蔵の豊島氏の一族の移入し、豊島氏の分流が千代へ落ち着いたとの伝承が伝わります(『泰阜村誌』上巻(1984))。
見 学:
飯田市美術博物館(外部リンク)の常設展示にて公開中
参考文献等:
『千代村 郷土写真』第一輯 下伊那郡千代小学校 1935