絹本着色阿弥陀如来像
絹本着色阿弥陀如来像(けんぽんちゃくしょくあみだにょらいぞう) 1幅
区 分:飯田市有形文化財(平成19年11月21日 飯田市指定)
所在地:飯田市追手町2丁目655-7 飯田市美術博物館
所有者:飯田市
時 代:室町時代
規模等:縦87.0cm×横32.7cm 絹本着色※1 軸幅装※2
概 要:
飯田市立石の雌杉下の個人宅に伝わった阿弥陀如来の絵像で、摂取不捨印(せっしゅふしゃいん ※3)を結び、光明(※4)を放つ阿弥陀如来の姿を正面向きに描いています。肉身部には金泥(きんでい ※5)を、衣部には截金(きりがね ※6)風の文様を施しています。蓮台(れんだい ※7)部分は剥落でほとんど見えませんが、表装し直す際に切り詰められたと考えられます。
制作年代は15世紀までさかのぼると考えられます。浄土真宗では阿弥陀如来の姿を描いた絵像を「方便法身尊像」(ほうべんほっしんそんぞう)と呼び、方便法身尊像としては飯田下伊那で最も古いもので、全国的にも古作で出来栄えも良い作品です。かつて飯田下伊那でも盛んであった浄土真宗が残した数少ない文化遺産であり、当地の中世の仏教史を復元できる資料としても貴重です。
解 説:
方便法身尊像は、一般に時代が降るほど身体が短く、像も小さくなります。定型化が進むと鼻筋にはっきりと線が入るようになり、表情も少しとぼけたようなユーモラスな雰囲気になります。また、像身の背後にある光明の条数が、弥陀の四十八願(※8)になぞらえて48条になります。本像はこの種の像としては大柄で、体躯(たいく)のバランスも自然です。鼻筋ははっきりあらわさず、その表情は穏和です。光明の条数は補筆されており46条ですが、当初の配置を考えても48条にはなりません。こうしたことから、本像は定型化する以前の古い特徴を備えていると考えられ、15世紀までさかのぼると考えられます。
軸箱の蓋裏には、宝暦9年(1759)に表装し直したことを示す墨書があります。
個人宅敷地内には、戦後間もない頃まで阿弥陀堂(杉ノ堂)があり、堂が廃堂になると本像などが個人宅で管理されてきました。
南信州の浄土真宗
真宗寺院の多くは初めから寺院として創建されるのではなく、布教のための道場から始まり後に寺院へ格上げされるケースが多くあります。こうした寺号を持たない道場では、初期段階では「南無阿弥陀仏」などと阿弥陀如来の尊号のみを書いた掛軸を本尊とし、やがて阿弥陀仏の姿を描いた方便法身尊像に代わっていきます。これら道場が寺院に格上げされると、木像の本尊が本山から下付されます。
本像の旧蔵者である個人宅には、古くは慶長5年(1600)頃の創建と伝える正源寺があったと伝わり、後に下條村へ移転して改宗したといいます。本像は寺号を得る以前の普及道場であった頃から使われてきたことも考えられます。
飯田下伊那に現在残る浄土真宗寺院は、5ヶ寺のみで、浄土真宗の空白地帯と考えられてきました。しかし、近世に入る前に途絶えてしまったものの、室町時代には有力教団があり、浄土真宗の盛んな三河国(愛知県東部)との繋がりがあることが近年分かってきました。永禄6年(1563)には三河国(愛知県東部)で一向一揆が起きており、後に同国から逃れた門徒が持ち込んだ可能性も指摘されています。本件は、かつて飯田下伊那でも盛んであった浄土真宗が残した数少ない文化遺産です。
※1 絹本着色:東洋の絵画で、絹に色が塗られている絵画をいいます。
※2 掛幅装:いわゆる掛け軸のことです。
※3 摂取不捨印:阿弥陀仏が極楽浄土から迎えに来る際の手の形です。来迎印(らいごういん)に同じですが、浄土真宗では、来迎(死後の救済)を否定しており、すべての人々を見捨てない摂取不捨印と呼びます。
※4 光明:仏の身体から放たれる光で、慈悲や知恵の象徴とされます。
※5 金泥:金を粉末状にして接着剤と混ぜた高級な塗料です。
※6 截金:金箔や銀箔を、細い直線状や図形に切って貼った文様です。
※7 蓮台:蓮の花の形に作った仏の台座をいいます。
※8 弥陀の四十八願:菩薩が仏になるための修行に先立って立てた48の願い事です。
見学にあたり
常設展で展示しておりません。展示予定は飯田市美術博物館(外部リンク)へお問い合わせください。
参考文献
『伊那谷の仏教絵画 -聖徳太子絵伝と真宗の宝を集めて-』 飯田市美術博物館 2008
「飯田市立石・杉ノ堂伝来の阿弥陀如来像 ―修理報告と資料紹介―」織田顕行 2008(『飯田市美術博物館紀要』18 飯田市美術博物館)