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南本城城跡

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年2月29日更新

南本城城跡(みなみほんじょうじょうあと) 1区域

大規模で複雑な構造をした戦国時代の山城(※1)です。

区 分:長野県史跡(平成25年3月14日 県指定)

所在地:飯田市座光寺2503他

所有者:飯田市座光寺地区財産区 他

時 代:戦国時代

※1 山城:平地や丘など、城をその立地で分類したときに、山の上に築かれた城をいいます。山の急斜面と高低差を防御に利用しました。

概 要:

尾根状になった段丘の先端に築かれた高さ約90mの山城で、南北370m、東西340mの範囲に遺構(いこう ※2)が分布します。

主郭1(しゅかく ※3)は西側に大規模な土塁A(どるい ※4)を盛り、周辺に小さな郭を何段も重ねています。主郭から延びる尾根は堀で断(た)っており、特に台地とつながる北側の尾根には、複雑な遺構が残されています。

これだけ立派な山城であるにもかかわらず、古文書に記されておらず、城主来歴ははっきりとしていません。

北隣に巨大な松岡城(外部リンク)を構えた松岡氏(※5)の城とする考えもありますが、「本城」と地名が残ることから、この地を本拠地とした座光寺氏に関連する城とみられます。

しかし、座光寺氏が単独でこれだけの山城を築いたとは考えられず、戦国大名クラスの大勢力が関与したとみられています。その勢力とは、当時の情勢からすると、武田氏、織田氏、徳川氏、北条氏、豊臣氏が考えられますが、今のところ特定できていません。

何重にも張り巡らされた防御構造に、戦国時代末期の緊張感が伝わってきます。

※2 遺構:昔の構築物(不動産的なもの)が地面や地中に残った跡をいいます。

※3 主郭:堀や土塁、切岸(人工的な急斜面)、柵などに囲まれた平な空間を郭(くるわ・曲輪とも)といい、城の中で中心となる郭を主郭(本曲輪)といいます。江戸時代に本丸といわれる部分です。

※4 土塁:堤防状に土を盛った防御施設をいいます。

※5 松岡氏:高森町市田を本拠地とした古くからの豪族です。武田氏に従い、武田・織田が滅んだ後は徳川氏に従いましたが、天正13年(1585)に豊臣方へ通じたことが原因で、後に滅ぼされました。

南本城

切岸:地面を削ったり盛られたりして造られた人工的な急斜面をいい、郭の縁辺部だけでなく、堀の斜面や土塁の急斜面も切岸といえます。

ここに注目!

折れ曲がった堀(イ・ウ)

堀

下伊那の一般的な山城の堀切は、真っ直ぐなものがほとんどですが、北尾根には折れ曲がった堀が特徴的です。

堀が曲がることによって、守備隊は堀底の攻城軍に対して、正面と側面の複数方向から射かけることができます。

四角く区画された土塁(C)

土塁

土塁Bに囲まれた空間は、城兵が潜(ひそ)んだ場所とも、敵兵を取り囲む施設ともいわれますが、詳しいことは分かっていません。

段郭

土塁Aの上に立って西側を見下ろしたり、下段の腰郭2から主郭1を見上げてみましょう。

腰郭と切岸が何重にも重なっており、主郭1へ簡単に近寄れない仕組みになっています。腰郭の南側の端に土塁が盛られており、いくつかの虎口(チェックポイント・B)が設けられています。

主郭1を守る厚い土塁(A)

旧

主郭1の西側を中心に、南側、一部北側に土塁が残っており、東側に土塁はありません。北端で途切れている個所(写真手前)が、虎口と考えられています。

敵兵は西から攻めてきて、東から攻めてくる可能性は低いと考えて造られた城です。

尾根を断つ堀切(キ)

組物

主郭からのびる各方面の尾根は、ほとんどに大きな堀(エ・オ・カ・キなど)が掘られています。

特に南尾根の堀キは大きなもので、その幅はおよそ20mにもなります。山城としては郡下で突出した規模で、絶対に侵入を許さない強い意志の表れです。さらに堀の端を洞底まで下しており、尾根上だけでなく、斜面からの侵入を拒んでいます。

斜面を埋め尽くす腰郭(こしぐるわ ※6)

南東側の尾根、南西側の尾根は、小さな平場と急な斜面が連続しています。これらがすべて城の遺構かはわかりませんが、市内の山城で多くみられる施設です。

※6 腰郭:斜面の中腹に設けられた小規模な郭をいいます。中心となる郭を取り巻くように造られた郭は、帯郭(おびくるわ)といいます。

隣接する北本城城跡

南本城城跡の北東側の台地、現在の座光寺小学校を中心とした辺りには、北本城城跡と呼ばれる広大な丘城があります。北本城は広大な台地に広がっており、水も得やすく、普段の生活には南本城よりも快適な場所です。普段住まいの北本城と、有事に逃げ込む南本城と考える研究者もいますが、結論は出ていません。

北本城の中心部の多くは残っていませんが、耕雲寺の周辺や段丘の斜面には堀などが残っています。

ほり

また、この台地には井(い ※7)が縦断していますが、広域農道(フルーツライン)の西側で井にしては大き過ぎる溝があります。この溝は、南本城城跡の北尾根を横切って西沢川へ落ちており、北本城と南本城の共通の外堀であった可能性もあります。

※7 :山麓の沢などから水をひいてきた農業用水路のことで、井水(いすい)ともいいます。飯田下伊那では、平安時代の後半ごろから整備されはじめたと考えられています。

誰の城?

南本城城も誰が造った城か不明ですが、大規模な戦争に関与した城であることは間違いなさそうです。当時の城は、戦争の気運(緊張)が高まると造られ、必要がなくなると捨てられましたため、城主がいない城も少なくありません。ここでは南本城城跡の歴史をさぐるために、戦国時代の座光寺氏や座光寺郷の歴史を紹介します。

武田氏以前(~1554)

座光寺の地名の由来は、奈良時代の寺院「寂光寺(じゃくこうじ)」に由来する説、仏像の台座となっていた臼が光輝き「座光の臼」と呼ばれた伝説に由来する説があります。

後にこの地を本拠地とする部族が地名から座光寺氏を名乗ったとみられ、応永7年(1400)におきた北信地方の合戦に「座光寺河内守」が登場します。その後、戦国時代に諏訪大社(※8)の祭典をたびたび務めていることから、諏訪氏の一族とみられています。

座光寺郷のまわりには、北に松岡氏、南の飯沼や飯田に坂西氏、その南には小笠原氏、天竜川の東に知久氏がそれぞれ領土を持っており、勢力争いをしていました。

※8 諏訪大社:諏訪湖周辺にある信濃の国で最も格式の高い神社で、7年に一度の御柱祭などで知られます。神社の祭典を執り行う諏訪氏は神官一族であるとともに、武士の集団でもありました。

座光寺氏vs武田氏

天文23年(1554)、武田信玄(当時は晴信)が伊那谷に攻めてきました。

下伊那の多くの武将は相談した結果、武田氏に従うことを決めました。しかし、鈴岡城の小笠原氏と神の峰城の知久氏は従わなかったため、伊那谷から追われたり殺されたりしてしまいました。

知久氏と関係が深かったとみられる座光寺氏も、抗戦したともいわれますが、詳しいことは分かっていません。

武田氏vs織田・徳川氏

武田信玄の頃

その後の座光寺氏は、武田の武将である秋山虎繁(とらしげ 信友とも)の配下につきました。秋山は伊那郡を治めた武将であり、外交的には美濃(岐阜県・対信長)の方面隊長です。

元亀3年(1572)、武田信玄は遠州(静岡県西部)・三河(愛知県東部)へ侵攻し、徳川家康と戦をしました。

下伊那の武将も武田方として出兵しており、武田軍は各地で徳川方の城を落としました。この作戦自体は信玄の病気悪化によって中止されましたが、家康と同盟関係にあった織田方の美濃岩村城(岐阜県恵那市 ※9)が武田方に下り、秋山は岩村城に入城します。

※9 岩村城:日本三大山城に数えられる名城です。立派な石垣が見ごたえありますが、これは秋山よりも後の時代の遺構です。

武田勝頼の頃

信玄の死後、武田家は勝頼が継ぎました。勝頼は、しばらくは軍事行動を控えていますが、やがて遠州・三河に攻め入ります。

しかし、天正3年(1575)5月、長篠・設楽ヶ原で織田・徳川連合軍に大敗し、有力な武将が多く戦死してしまいます。

翌月、信長の長男である織田信忠が岩村城を包囲しました。武田勝頼は援軍を送りますが、寄せ集めの兵隊で、失敗に終わります。

11月、岩村城は織田軍に降伏し、城主秋山虎繁と、座光寺貞房らがあいさつに出向いたところをだまし討ちにされ、長良川で磔(はりつけ)にされました。残る城兵も多くが殺されてしまいました。この時、座光寺氏は滅亡したと考えられ、この後、座光寺氏はしばらく古文書に登場しなくなります。

武田討伐

天正10年(1582)2月、織田信長は武田氏を討つ作戦を開始します。

甲斐・信濃を取り囲む各方面に武将を配置し、伊那谷へは織田信忠を総大将として派遣します。

国境を守る下条氏(下条村吉岡城)や小笠原氏(松尾城)は、家臣や本人が織田方についたために、織田軍に国境を突破されます。これを見た飯田城主の保科氏らは飯田城を焼き捨て、2月14日の夜に逃亡します。

15日には、飯田城の敗残兵が市田(下伊那郡高森町)で討ち取られており、16日には、大島城(下伊那郡松川町)を守る武将も逃亡します。

信長の家臣が書いた『信長公記』に座光寺に関する記載はないことから、南本城城などは、何事もなく通過されたのでしょう。ただ、如来寺(元善光寺)には、この時織田軍の兵火で寺が焼かれたことが伝わっています。

3月11日に武田勝頼が自刃(じじん)し、武田氏は滅亡しました。

伊那郡は信長の家臣、毛利秀頼が支配しました。

徳川氏vs北条氏

しかし、6月2日、本能寺の変で信長が急死すると、武田家のかつての家来が反乱をおこします。

甲斐・信濃を与えられた織田家臣は新領地を捨てて、彼らの本拠地に急いで引き返しました。そこへ関東の北条氏、遠州三河の徳川氏、越後の上杉氏が乱入し、争奪戦を繰り広げました。

伊那谷はひとまず徳川に従いましたが、8月には北条軍が諏訪から南下したため、北条に味方する武将が相次ぎました。少なくとも大草氏(上伊那郡中川村)は北条方に下っており、松岡氏も北条方となっていた可能性もあるようです。8月中旬には徳川方の下条氏らが飯田城に立て籠もる事態となっています。座光寺はこの時、ちょうど徳川勢と北条勢の中間(境目)にあたり、激しい争奪戦が繰り広げられたことでしょう。

10月末に家康と北条氏直が講和してこの争奪戦はひとまず終了し、信濃は徳川家康が押さえました。

徳川氏vs豊臣氏

この乱で領土を増やした徳川家康は、天下を狙える大大名に急成長しました。織田信長に代わって天下を治めつつある豊臣秀吉とは対立するようになり、天正12年(1584)に、小牧・長久手の戦いで対決します。

下伊那は、家康の家臣菅沼定利が知久平に城を築き支配していましたが、豊臣方から調略の手が及び、これに応ずる武将もいました。

天正13年(1585)に徳川方であった高遠城主の保科正直を密かに松岡氏が攻めました。これは失敗に終わりますが、これを松岡家臣の座光寺為真(ためざね)が菅沼氏に報告します。松岡貞利は菅沼定利に捕えられ、改易されてしまいます。

この働きによって座光寺氏は、後に山吹藩(下伊那郡高森町山吹)藩主として認められます。この座光寺氏と、かつて武田に仕えて滅んだ座光寺氏との関係は明らかになっていません。

さて、松岡氏の他にも、下条氏や知久氏など徳川に忠節を尽くした武将も取り潰されてしまいます。

下伊那は徳川氏の支配が強まっていくとともに、全国的には天正14年(1586)に家康が秀吉に従ったため、戦争の機運は遠ざかり、下伊那の山城の多くは必要性がなくなったと考えられます。

戦国の終わり

天正18年(1590)、秀吉は関東の北条氏を滅ぼして日本国内を統一し、家康の本拠地を関東に移させます。家康の配下の座光寺氏も上州(群馬県)大竹に移りました。伊那谷は毛利秀頼が治め、飯田城以外の下伊那の城は廃止されたと考えられます。

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、徳川秀忠(ひでただ)に従い上田城を攻めています。この戦いで天下を治めた家康は家臣の旧領復帰を認め、翌年に座光寺氏は伊那郡へ戻り山吹藩主となりました。

 見 学

山城の見学には、草木の葉が落ちて地形の観察がしやすい、晩秋から早春が適しています。

遊歩道はありますが、未舗装・急斜面ですので、里山散策や農作業に適した服装でお出かけ下さい。

かつては深い藪に覆われていましたが、地区の方々のご尽力によって刈り払われ、遺構(地形)の観察がしやすくなっています。

交通・アクセス

○駐車場有(麓の麻績神社周辺と、座光寺小学校側にも数台留められます)

○JR飯田線「元善光寺」 徒歩10分(麻績神社まで)

○信南交通 広域バス阿島線「元善光寺入口」 徒歩7分(麻績神社まで)

書籍案内 ~もっと知りたい方へ~

『南本城城跡』 飯田市教育委員会

『長野県の山城ベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均

『信濃の山城と館』第6巻 諏訪・下伊那編 宮坂武男

『天正壬午の乱』 平山優

いずれの資料も飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます。