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旧座光寺麻績学校校舎

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年10月15日更新

旧座光寺麻績学校校舎(きゅうざこうじおみがっこうこうしゃ) 1棟

区 分:長野県宝(昭和60年11月21日 県指定)

所在地:飯田市座光寺2535

所有者:飯田市

時 代:明治6年(1873)

構 造:入母屋造(いりもやづくり ※1)2階建、一部中2階建、桟瓦葺(さんがわらぶき ※2)、霧除庇(きりよけびさし)こけら葺(※3※4)

規 模:桁行(けたゆき ※5)10間(けん ※6)、梁間(はりま ※5)7間 

※1 入母屋造:本を伏せたような三角形の屋根(切妻 きりづま)の妻側(三角形の部分)の下部に屋根を足した構造をいいます。妻側は、上部は三角形の壁となっており、下部は台形の屋根となります。

※2 桟瓦:「~」形をした一般的な波形の瓦のことです。

※3 霧除庇:窓や庇などの上についている小さな雨よけの庇をいいます。

※4 こけら:2~3mmの薄い木の板を重ねた屋根です。水に強いサワラ・ヒノキなどが用いられます。

※5 桁行・梁間:本を伏せたような三角形の屋根の場合、背表紙にあたる屋根の平な尾根(棟)と同じ方向が桁行、三角形にみえる方向が梁間です。

※6 :建物の柱と柱の間のことを間といい、建物の規模を表す時に用います。1間は約1.82mです。

外観
組物

概 要

小学校校舎でありながら、一階を歌舞伎舞台として造られていることに最大の特徴があり、県内に残る小学校校舎としては最も古く、デザインも優れています。

梁間7間のうち5間を歌舞伎舞台、2間を楽屋とし、楽屋部分には中二階があります。舞台の正面の左右には1間づづの太夫座(たゆうざ ※7)と下座(げざ ※7)があります。

外部は真壁白漆喰(しんかべしろしっくい ※8・9)仕上げ、正面を除く三方の腰(こし ※10)は海鼠壁(なまこかべ ※11)で仕上げています。内部の壁は白漆喰仕上げ、床は楽屋と太夫座、下座は土間叩き仕上げ(どまたたき ※12)、舞台と二階広場は板張り、中二階楽屋と二階楽屋は畳敷きです。

民家の様式を生かしており、洋風の要素はありません。

※7 太夫座・下座:舞台に向かって右側が太夫座で、義太夫(ぎだゆう)が物語のナレーション等を独特の調子で語る場所です。向かって左側が下座で、効果音として曲や音楽を演奏します。

※8 真壁:柱を露出する壁をいいます。柱が見えない構造を大壁(おおかべ)といいます。

※9 白漆喰:瓦留めや壁の上塗りに用いられる消石灰を主成分とした建材で、単に漆喰ともいいます。

※10 :壁の低い部分をいい、特に仕上げや構造が上部と異なる場合にいいます。

※11 海鼠壁:壁に平らな瓦を並べ、目地(めじ つなぎ目)に漆喰をかまぼこ状に盛り上げて塗る工法で、目地がナマコに似ていることからいわれます。

※12 土間叩き:土間は地面を露出した仕上げで、叩きは赤土に適量の石灰や苦汁(ニガリ)を混ぜて叩き締めた仕上げをいいます。

ここに注目!

明治6年の校舎は長野県内でも最古で、間口10間の歌舞伎舞台は県下最大級です。

校舎と歌舞伎舞台の複合建物は、県内はもとより全国的にも例がありません。

舞台正面の大きな虹梁(こうりょう ※13)は、現在の飯島町で伐(き)られ、天竜川を流して村中で引き上げたものです。

芝居上演のため、舞台の床板、二階の床板と根太(ねだ ※14)の一部が外せるようになっています。

校舎に隣接して南信州を代表する名桜「麻績の里舞台桜」(飯田市天然記念物)があります。

※13 虹梁:虹のように上に反った梁(はり)をいいます。

※14 根太:床の板を支えるために、床の下にわたす横木をいいます。

旧

舞台正面に設けられた昇降口は、平成の修理工事で取り外され、麻績の里交流センターの裏玄関に移築されています。

校舎の歴史

江戸時代 歌舞伎が盛んな飯田下伊那

今のような娯楽が少なかった時代、庶民が夢中になったのは、歌舞伎や人形浄瑠璃でした。飯田下伊那では各地で行われており、座光寺でも歌舞伎舞台を造ることが村中の願いでした。

しかし、当時の座光寺は、天竜川の治水対策で石川除の工事の費用が負担となっていました。村の支出について意見が割れており、なかなか舞台を建設できませんでしたが、明治4年(1871)に建設が決まりました。

明治6年(1873)6月 学校設立伺書の提出

明治維新後、座光寺村は筑摩県(ちくまけん ※1)に属しました。

永山盛輝(ながやまもりてる)権令(ごんれい ※2)は教育熱心な人で、明治5年(1872)2月に『学校創立告諭』というお触れを出して、学校建設をすすめていました。村では6月に如来寺(元善光寺)を借りて、「筑摩県第三十二小校」が開校しましたが、手狭でした。

明治5年8月、明治政府が『学制』を発布し、学校建設をすすめました。村でも学校建設の機運が高まり、明治6年6月、学校設立伺書を県に提出しました。

しかし、学校と舞台と両方を建てることはできないので、相談の結果、舞台としても使える学校を造ることとなりました。

※1 筑摩県:現在の中・南信と岐阜県飛騨地方、中津川市を含んでおり、明治4年に発足し、明治9年に廃止されました。

※2 権令:現在の県知事に相当する職です。

明治7年(1874)4月4日 麻績小校開校

校舎建設にあたっては、敷地をはじめ、すでに舞台建設のために伐られていた高岡の森(高岡第1号古墳)の杉の木22本のほか、村中から木や竹、米、石、お金、瓦などが寄付され、村中で手伝いを行ないました。舞台正面の大きな梁(はり)は、現在の上伊那郡飯島町から切り出され、天竜川を下り、村中総出で引きあげられたものだそうです。

大工棟梁は現在の鼎名古熊(なかえなごくま)の小西弥惣太(こにしやそうた)と、座光寺の赤羽目辰治郎(あかばめたつじろう)でした。

村中で建てられた校舎は、9月18日に上棟式(じょうとうしき ※3)を行い、明治7年4月4日に竣工(しゅんこう)、「麻績小校」として開校しました。

明治9年(1876)、県下に同名校があるため校名を「島学校」と変更し、明治19年(1886)に町村合併により「座光寺学校」となりました。その後も学校制度の変更や合併により名称は変更されました。

明治28年(1895) 体操場新設

この頃、戦争に備え強い体をつくる機運が高まり、体操場が造られました。そのために麻績学校校舎は曳(ひ)かれて、現在地に移されました。

明治31年(1898) 大石垣が造られる

学校制度の改革により児童数が増えて校地を広げる必要が生じ、裁縫場と教員住宅を建設しました。校地が拡大され、自治振興センター裏の大石垣が造られました。

明治41年(1908) 玄関追加

明治42年(1909) 近代的な教室棟と体操場が設置される

学校制度が変わり教室が不足したため、大石垣によってできた場所に本格的な2階建の校舎を建て、体操場は造り直されました。

昭和3年(1928) 校舎と運動場を拡大

子どもの数が増え将来教室の不足が予想されたため、校舎の増築と広い運動場をつくることとしました。並木沢を埋めて運動場を拡張し、現在の自治振興センター建物の位置に2階建の教室を建てました。

昭和12年(1937) 新体育館設置と運動場を拡大

裏山を削り用地を拡大し、追手町小学校を参考に新体育館を造りました。裏山の土は運動場拡大に使われ、運動場の東側の大石垣はこの時に整備されました。児童の昇降口や便所の改造、中庭などが造られました。

昭和59年 北本城へ移転

子どもの増加によって、現在の位置では対応できなくなったため、北本城の高台へ小学校を移転しました。下段に現在の座光寺自治振興センター等が建築され、上段には竹田人形館が建設されました。

舞台校舎を残して、旧座光寺小学校のすべての建物は取り壊されました。

昭和60年(1985) 県宝指定

平成7~9年(1995~1997) 保存修理工事

建築当初の姿に戻しました。

 見 学

外観の見学は自由です。

内部の見学は、隣接する竹田人形館(電話:0265-23-4222)で申し出て下さい。

休館日:月曜日(祝日の場合はその翌日)・祝日の翌日・年末年始

開館時間:午前9時から午後5時まで

交通・アクセス

○駐車場有

○JR飯田線「元善光寺」 徒歩10分

○信南交通 広域バス阿島線「元善光寺入口」 徒歩7分

書籍案内 ~もっと知りたい方へ~

『長野県宝 旧座光寺麻績学校校舎修理工事報告書』 飯田市

『よみがえった舞台校舎』 麻績の里振興委員会

『私たちのふるさと 座光寺』 私たちのふるさと座光寺」編集委員会

『座光寺村史』 座光寺村史編集委員会 

飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます。