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立石寺立石柿絵馬

ページID:0101652 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月16日更新

立石寺立石柿絵馬(りっしゃくじたていしがきえま) 2点

 1 板絵着色江戸柿問屋絵馬 1点

 2 板絵着色立石柿出荷天竜川通船絵馬 1点

区 分:飯田市民俗文化財(令和4年12月14日 飯田市指定)

 ・指定根拠:飯田市文化財保護条例第2条(3)飯田市民俗文化財

 ・指定区分等:飯田市文化財保護条例施行規則第4条

  種別:飯田市民俗文化財 6信仰に用いられるもの

  指定基準:2(2)この地方の地域的特色を示すもの

         (4)この地方の職能の様相を示すもの

所在地:飯田市立石140番地(立石寺)

所有者:立石寺

時代:江戸時代

  1    板絵着色江戸柿問屋絵馬  文化11年(1814)

  2  板絵着色立石柿出荷天竜川通船絵馬 天保9年(1838)

規模等:

  1 板絵着色江戸柿問屋絵馬  屋根形 縦111.3cm、横136.5cm

  2 板絵着色立石柿出荷天竜川通船絵馬  長方形 縦127cm、横182cm 

概 要:

  1 板絵着色江戸柿問屋奉納絵馬

写真1-1 全体 写真1-2 江戸柿問屋奉納絵馬 各写真の配置

この絵馬は、文化11年(1814)に山田河内村(現下條村睦沢)の佐野屋嘉蔵を世話人に、立石柿を扱う江戸の柿問屋4人が奉納したものです(写真1-3)。立石柿は、干柿の一種である串柿(4~5個または10個の柿を竹串に刺して干しあげたもの)で、当時の干柿のブランドの一つでした。

世話人である佐野屋嘉蔵は、今回指定されたもう一点の絵馬である『板絵着色立石柿出荷天竜川通船絵馬』の奉納に際しても世話人を務めています。また、絵馬を奉納した柿問屋はいずれも江戸の御用商人です。

写真1-3 江戸柿問屋奉納絵馬 奉納人・世話人

 

本絵馬は、立石柿が立石から江戸の問屋の蔵に収められるまでの様子が描かれ、左下から右上に絵が展開します。

写真1-4 板絵着色江戸柿問屋奉納絵馬 立石寺写真1-4 板絵着色江戸柿問屋奉納絵馬 馬と牛

左下に朱塗りの本堂と山門のある立石寺があり(写真1-4)、その門前を大量の荷物(立石柿)を背に載せた黒牛と馬が港に向かいます(写真1-5)。

 

 

写真1-4 板絵着色江戸柿問屋奉納絵馬 佐野屋の舟写真1-4 板絵着色江戸柿問屋奉納絵馬 問屋の蔵

絵の中程には、おそらく立石柿を積んだ2艘の帆掛け船が海を進む様が描かれ(写真1-6)、右上に到着地の江戸の波止場と多数の土蔵が描かれています(写真1-7)。

船の帆に描かれた屋号紋は「カネ吉」で、絵馬の世話人の佐野屋の屋号です。また波止場の手前にある4棟の倉に記された屋号紋は奉納者(柿問屋)のものとみられます。

 

 

2 板絵着色立石柿出荷天竜川通船絵馬

 

写真2-1 絵馬全体

写真2-2 絵馬解説、各写真の配置

この絵馬は、天保9年(1838)に山田河内村(現下條村睦沢)の佐野屋嘉蔵ら4名を世話人に、現在の阿南町から天龍村一帯及び遠州の水運業者たち27名が奉納したものです。絵師は親田村(現下條村睦沢)の古田鷹麿(寛政13~明治8[1801~1875]年)です。

本絵馬は、右上の朱塗りの立石寺本堂と仁王門を起点に、大きくS字にデフォルメされた天竜川を中心に据え、上流から下流へと盛んに行き来する帆掛け船や湊などの様子が描かれています。

立石寺の左側を天竜川に合流する河川は阿知川で、絵馬に描かれた天竜川は阿知川以南を中心に、下流側は信濃・三河・遠江の境付近までとみられます。

写真2-3 立石寺写真2-4 満島番所

 

写真2-5 佐野屋写真2-6 中馬

川沿いに建物が描かれていたり、帆を畳んだ船が横付けされている箇所は湊で、上流から川田(阿南町)、対岸に温田(泰阜村)、下流の右岸に御供(阿南町)と続き、中央の土蔵が建ち並ぶ場所が番所のある満島(現天龍村満島 写真2-4)で、対岸は松島(天龍村)とみられます。

陸上に目を向けると、右上に朱塗りの立石寺本堂と仁王門、参詣人が見えます(写真2-3)。川を挟んで左隣には「カネ吉」の屋号紋を付けた土蔵等があり、屋号紋から佐野屋嘉蔵の屋敷と思われます(写真2-5)。他の土蔵や屋敷も、それぞれ世話人や奉納者のものとみられます。

立石寺や屋敷の周囲、山々にはたわわに実を付けた柿の木が多数描かれ、一帯が柿の産地であることを強調しています。また、画面上部には荷物を背負った立石柿の仲買人とみられる人物や、荷を背負った馬と馬方も描かれています(写真2-6)。馬と馬方は中馬とみられ、立石柿が水運以外の手段でも運ばれていたことを示しています。

 

立石寺立石柿絵馬2点の価値

(1)現在も地域の特産品である干柿や果樹栽培の源流を描いた絵画史料であること

江戸時代において、立石柿の串柿は、山間部の年貢の対象として扱われる重要な産業であり、出荷先の江戸では正月の縁起物として広く取り扱われ、『本朝食鑑』※注1 にも記されるほど有名な特産品でした。2つの絵馬はそうした立石柿の姿を物語るものであり、現在でも当地域の主要産業である干柿※注2や果樹生産の源流を伝える重要な絵画史料といえます。

 

※注1 本朝食鑑

  元禄10年(1697)刊行。日本の食物全般についてまとめられた本。

※注2 干柿

現在、当地域の干柿は「市田柿」が主流ですが、「立石柿」と「市田柿」は異なるものです。立石柿は江戸時代に当地域の山間部を中心に栽培されていた渋柿です。一方、現在の市田柿は、江戸時代後期に市田村(現高森町)の人が伊勢参拝時に美濃から持ち帰った「焼柿」を元とする説が有力で、味が良いことから広がり、立石柿に代わって栽培されるようになり、大正10年に「市田柿」と改称されたものです。

 

(2)当時の物資輸送の様子を見ることのできる絵画史料であること

『板絵着色立石柿出荷天竜川通船絵馬』では天竜川の通船を中心に中馬の様子も克明に描かれており、『板絵着色江戸柿問屋奉納絵馬』では天竜川の河口の湊に運ばれた物資が海運によって江戸表に輸送され、問屋の倉に収まるまでの様子を見ることができます。また、奉納者として記された人々の中には、江戸の市場に関わる文書や満島番所に関わる文書等にも名前が記されています。このため、2枚の絵馬を合わせ見ることで、立石柿の流通や、江戸との繋がり、天竜川の物資輸送の実態を知ることができます。

 

(3)当時の天竜川や周辺の地勢を描いた絵画史料であること

『板絵着色立石柿出荷天竜川通船絵馬』には、天竜川通船における最大の難所であった「矢倉の滝」や河川中の大岩など今は見ることのできない天竜川の姿が描かれるとともに、道路や立石寺をはじめとする寺社、土蔵が建ち並ぶ問屋の屋敷の様子、周辺の地勢も丁寧に描かれており、江戸時代の阿知川以南の様子を知ることができます。


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