絹本着色聖徳太子絵伝
絹本着色聖徳太子絵伝(けんぽんちゃくしょくしょうとくたいしえでん) 5幅
区 分:飯田市有形文化財(平成13年8月21日 飯田市指定)
所在地:飯田市追手町2丁目655-7 飯田市美術博物館
所有者:飯田市
時 代:鎌倉時代末期~南北朝時代(14世紀)
規模等:縦150.0cm×横77.5cm(各) 絹本着色※1 掛幅装※2
概 要:
飯田市宮ノ上の太子堂に伝わった聖徳太子絵伝です。聖徳太子絵伝とは、聖徳太子の生涯におこった出来事を、掛け軸や巻物へ年齢別に散りばめて描いた絵画作品をいいます。鎌倉時代、新旧の仏教勢力が自らのルーツを、日本仏教に多大な貢献をした聖徳太子に求めることで、勢力の拡大を図ったのでした。
本件は残存状況が良くはありませんが、室町時代を遡る太子絵伝は少なく、5幅におよぶ大作であり、作者の技量も高く評価できます。聖徳太子絵伝の展開を考える上で欠くことのできない作品であり、飯田下伊那地方における聖徳太子信仰の足跡を辿ることができる希少な資料といえます。地域の信仰と共に太子堂に伝わりましたが、平成5年に飯田市美術博物館に寄附されました。
1・2・3幅
4・5幅
解 説:
現状
現状では摩滅してなくなった部分が多く、各場面の比定は困難なものの、誕生から物部守屋との合戦、新羅との戦いなど、前生譚(ぜんしょうたん ※3)から30歳代までのおよそ30箇所の場面が確認できます。画面構成は、各幅ごと年代の近い事績(じせき ※4)が概ねまとまっており、第1~3幅までは多少の乱れがあるものの、ほぼ上から下へ、第4幅は下から上へストーリーが展開します。第5幅目は欠損部分が多く確認が困難ですが、年齢順に事績を追っていないものとみられます。本件は、5幅で一具(一組)とみられますが、40歳代から薨去(こうきょ ※5)に至るまでの場面の痕跡が確認し難いことから、最終幅にあたる第6幅目を欠いているものとみられます。
制作年代
堅実で的確な画風で、人物は堂々としており、建造物は細部まで緻密に描き、自然物は柔らかく闊達(かったつ ※6)にかき分けています。場面を仕切る素槍霞(すやりがすみ)も淡く定型化せずに場面に収まっており、建造物と戦乱の場面を大きくゆったりと描いています。以上の概観は、鎌倉時代末期のいわゆる南都絵所(なんとえどころ ※7)の作風に共通しており、四天王寺6幅本(重要文化財 元享3年〈1323〉)とあまり隔てることのない年代に制作されたものと考えられています。
制作者
型にはまった感じや、写し崩れた感じがなく、場面の特徴に応じて描く面積を変えたりする自由な画面構成や、場面の取捨選択の仕方が他の太子絵伝にはみられない独創性が看取れることから、単に古い形態を示しているだけでなく、南都絵所にきわめて近い筋の、優れた絵師による作品であることを物語っています。
室町時代を遡る古画は稀
現在確認されている聖徳太子絵伝は室町時代に入ってからもものがほとんどで、これを遡る作品は50点を少し超える程度です。県下の古画全般をみても、鎌倉時代の絹本着色八相涅槃図(重要文化財 開善寺蔵)とならび、最古の部類に属するとみられます。
宮ノ上太子堂
旧所蔵の太子堂は、延享元年(1744)に編纂された『伊奈郡神社仏閣記』にその名が確認できますが、それ以前の様子は定かでありません。毎年、聖徳太子が誕生した旧暦2月22日に「お太子さまのまつり」などを行っています。
※1 絹本着色:東洋の絵画で、絹に色が塗られている絵画をいいます。
※2 掛幅装:いわゆる掛け軸のことです。
※3 前世譚:この世に生を受ける前の別の人生、いわゆる前世の物語のことです。
※4 事績:ある人が成しとげた業績や功績をいいます。
※5 薨去:親王や皇太子妃など特定の位の皇族の死去をいいます。
※6 闊達:小さな物事にこだわらない様子です。
※7 南都絵所:絵所は、絵画や意匠(デザイン)を制作・考案する工房で、南都すなわち奈良に拠点を置いたため、南都絵所と呼ばれました。聖徳太子絵伝が数多く制作された14~15世紀には、興福寺に拠点を置いた吐田座、松南院座、芝座の三所が知られます。
見学にあたり
常設展での展示は行っていません。展示予定は飯田市美術博物館(外部リンク)へお問い合わせください。
参考文献
『伊那谷の仏教絵画 -聖徳太子絵伝と真宗の宝を集めて-』 飯田市美術博物館 2008
『信州の祈りと美 善光寺から白隠、春草まで』 飯田市美術博物館 2015