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旧瀧澤医院

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年12月14日更新

旧瀧澤医院(きゅうたきざわいいん) 1棟

区 分:飯田市有形文化財(平成20年11月18日指定)

所在地:飯田市虎岩734-1

所有者:個人

時代:明治28年(1895)

構造:木造二階建、寄棟造(よせむねづくり ※1)桟瓦葺(さんがわらぶき ※2)

規模:桁行(けたゆき ※3)6間(けん ※4)、梁間(はりま ※4)2間

※1 寄棟造:四方に傾斜している屋根で、2面の三角形と2面の台形の4面の平面で構成されます。

※2 桟瓦葺:「~」形をした一般的な形の瓦のことです。

※3 桁行・梁間:本を伏せたような三角形の屋根の場合、本の背表紙に当たる平らな方向(棟)が桁行、三角形に見える方向が梁間です。

※4 :建物の柱と柱の間のことをいい、1間は約1.82mです。

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概 要:

旧瀧澤医院は、明治28年(1895)に瀧澤清顕(たきざわ せいけん)によって建てられた飯田・下伊那最古の洋風病院です。

屋根の八角形の時計塔と1階の大きな門が目を引く漆喰(しっくい ※5)塗りの木造二階建てです。

門を挟んで2部屋あり、それぞれ診察室・手術室として使われていました。

二階は背面に木製バルコニーを付設した居室となっていて、患者の入院施設として利用されていました。

また、二階に設置された梯子(はしご)から時計塔に登ることもできます。

takizawaiinnikai 2階の入院のための部屋

 

見どころ

明治初期、文明開化の風潮で西洋の文化や技術が導入されましたが、建築の分野でも西洋建築に似せた「擬洋風建築(ぎようふうけんちく)」と呼ばれる建物がひろがりました。

旧瀧澤医院にも、赤い屋根の八角塔屋、縦に長い上げ下げ式の窓、漆喰で花びらをかたどった照明台座、洒落た手すりのバルコニーといった擬洋風建築の特徴が確認できますが、屋根は桟瓦葺、外壁は白漆喰で伝統的な日本建築の形式を踏襲(とうしゅう ※6)しています。

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    2階天井の照明台座(提供:歴史研究所)          2階背面にはおしゃれなバルコニー

 

また、八角形の塔屋をのせた寄棟造2階建ての建物は、長野県を代表する擬洋風建築である旧開智学校校舎(きゅうかいちがっこうこうしゃ ※7)や旧中込学校校舎(きゅうなかごみがっこうこうしゃ ※8)にもみられます。

旧瀧澤医院は、現在でも残る明治期の擬洋風建築の病院として全国でも珍しく、小規模な建物でありながらも、近代病院に必要な診察・手術・入院の機能を備えており、当時の西洋医学のあり方を知る上でもきわめて貴重な建築物です。

 

平成の大修理

完成から100年以上経過していたこの建物は、骨組みの変形による雨漏りや壁が剥がれ落ちるなどの劣化が進行しており、倒壊寸前の状況でした。

toukaisunnzennnokyuutakizwaiin 倒壊寸前の建物(2004年10月撮影 提供:歴史研究所)

平成17年(2005)4月、旧瀧澤医院の修理・再生を実施するために「旧瀧澤医院再生委員会」が発足され、解体・調査・修理が行われました。

この委員会による検討ののち、旧瀧澤医院は慎重な解体修理が行われ、平成18年(2006)秋、現在の美しい姿でよみがえることができました。

takizawaiinnisigaki 旧瀧澤医院へとつづく当時のままの立派な石垣

 

瀧澤清顕について

旧瀧澤医院を建てた瀧澤清顕は、嘉永6年(1853)に長野県下伊那郡下久堅村(現飯田市下久堅)の眼科医の家に生まれました。

筑摩県(ちくまけん ※9)立飯田病院(※10)が創立されると、最初の講習生として西洋医学を習得します。

明治9年(1876)に東京医科大学別科に入学し、優秀な成績を修めました。

その後、内務省衛生局の選抜医として27歳で高松病院院長として赴任しますが、明治14年(1881)に肺病を患い退職します。

こうして瀧澤清顕は故郷に戻り、父の跡を継いで地元で開業しました。

当初は和館で診療していたようですが、やがて西洋医学の治療・手術にふさわしい施設・空間が必要となり、明治28年(1895)に現在のような擬洋風建築の病院が竣工しました。

清顕はこの病院で治療にあたるかたわら、急患の知らせを聞くと、馬に乗って急峻な坂道を駆け抜け往診に出かけたそうです。

正面の大きな門は馬が出入りできるよう設けられたものです。

その後は長野県医師会会長(明治37年〔1904〕)、信濃毎日新聞社長(大正4年〔1915〕)などの重職を歴任し、昭和7年(1932)に79歳で亡くなりました。

takizawaseikenzou 下久堅小学校前に作られた瀧澤清顕の胸像

下久堅小学校前に作られた瀧澤清顕翁胸像は、昭和36年に多くの地区民の協賛を得て、地元ゆかりの彫刻家によって製作建立されました。

目標額の2倍もの寄付金が集まったとされています。

 

※5 漆喰:石灰を主な原料とした日本古来の壁材料のひとつです。

※6 踏襲:これまでの人のやり方をそのまま受け継ぐという意味です。

※7 旧開智学校校舎:明治9年(1876)に竣工した、松本市開智に残る明治時代初期の洋風校舎です。昭和36年(1961)に国の重要文化財に指定され、現在は松本市立博物館の分館となっています。

※8 旧中込学校校舎:明治8年(1875)に竣工した、佐久市中込に残る明治初期の洋風校舎です。昭和44年(1969)3月には国の重要文化財、同年4月には国の史跡に指定されています。

※9 筑摩県:明治4年(1871)の廃藩置県により、飯田藩は飯田県と改称。同年11月にそれまで名古屋県、伊那県の管轄であった南信のすべての地帯が合併して筑摩県となりました。明治9年(1876)に廃止されました。

※10 筑摩県立飯田病院:明治6年(1973)、飯田扇町に開業しました。開院当初から経営難が続き、明治12年(1879)に閉鎖しましたが、のちの下伊那の医業に大きな影響を与えることとなりました。

 

こちらもチェック!!

旧瀧澤医院パンフレット (PDFファイル/500KB)

旧瀧澤医院パンフレット裏面 (PDFファイル/681KB)

『手術室から展示室へ―旧瀧澤医院で整備が行われています!』(2019年3月11日更新)

見学

外観一部のみの見学になります。

関連書籍・サイト等案内

「長野県の近代化遺産」 長野県教育委員会 2009

「みるよむまなぶ 飯田・下伊那の歴史―飯田市制施行70周年記念―」 飯田市歴史研究所 2007

「浪漫あふれる信州の洋館」 北原広子、大澤敬子ほか 2013

「飯田市医師会のあゆみ」 飯田市医師会 2014年

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