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竜丘児童自由画及び関連史料

ページID:0117563 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年3月21日更新

竜丘児童自由画及び関連史料(たつおかじどうじゆうが およびかんれんしりょう 

区 分:飯田市有形文化財(令和6年3月14日 指定) 第111号

所在地:飯田市桐林336(竜丘小学校自由画考古室)

所有者:竜丘地域自治会

年 代:大正8年(1919)から昭和15年(1940)

総 数:339点

 内訳:

   ・竜丘小学校児童による自由画運動期(1919年~1929年)の作品  127点

   ・竜丘小学校児童による1930年から1940年の作品           3点

   ・竜丘小学校児童による作品で、制作年不明な作品        135点

   ・他校の児童による作品(第2回児童自由画出展作とみられるもの)  64点

   ・その他(制作年・学校不明等)                 10点

指定された自由画の一部の写真
指定された自由画の一部

概 要:

(1)児童自由画運動について

 児童自由画運動は、明治期の技術者養成を目的とする実用主義的な臨画教育(※1)から、児童の個性と創造性の発揮を目指す美術教育への転換を図る契機となった教育運動です。山本鼎(1882年~1946年 版画家・洋画家)により提唱され、大正7年(1918)から昭和4年(1929)までのおよそ10年間が最も盛んで全国的な運動となりました。

 

※1 臨画教育(りんがきょういく)

 手本となる絵を忠実に写すこと。図を正確に描くための技術習得を目的としています。

 

(2)「竜丘児童自由画及び関連史料」の概要

本件は、明治後半から大正にかけて進められた長野県の教育界による自由教育運動(※2)や、山本鼎の児童自由画運動の提唱を契機に、竜丘小学校の図画教師であった木下茂男(雅号:紫水、以下「木下紫水」とする)による自由画教育の実践を伝える児童の絵を中心としています。昭和47年(1972)、竜丘小学校百周年時、附属の土蔵に所在が確認されて以降、竜丘地区の皆さんにより整理が進められ、昭和61年(1986)に学校内の「自由画考古室」に移し、平成23年(2011)に発足した「竜丘児童自由画顕彰委員会」によって整理、活用が行われてきた経過があります。

自由画運動が展開された大正8年(1919)から昭和4年(1929)を中心に、昭和16年(1940)までの作品及び制作年代等が不明な作品の合計339点があります。その中には、竜丘小学校で開催された「第二回児童自由画展覧会」に出展された他校の作品も含まれます。

 

※2 自由教育運動

画一的で形式的な教育から、児童ひとりひとりに注目して個性や創造性を尊重する教育を目指した運動。長野県では明治末から始まり、教師達によって国定教科書や授業の画一化の反省・批判、教育方法の革新・展開が議論され、次第に児童中心の教育へと変わっていきました。

 

「竜丘児童自由画及び関連史料」の価値

「竜丘児童自由画及び関連史料」は、竜丘小学校図画教師であった木下紫水が国定教科書である「新定画帖(※3)」の研究を通じて模索し、長野県の教育界における自由教育思想を背景に、山本鼎との交流を通じて実践した児童自由画教育の具体的な内容を物語るものとして当地域の教育史上貴重な史料です。

加えて、第2回児童自由画展に出展された市内の他校の作品もあり、当地域はもとより、長野県における自由画教育の展開と美術教育の先進性を伝える史料としても重要です。

また、児童自由画運動は、全国各地で実践され、今日の美術教育の基礎となった教育史上重要な出来事と評価されています。こうした教育史上の画期を伝える「竜丘児童自由画及び関連史料」は、当地域はもとより日本の美術教育史においても極めて重要な史料と言えます。

 

※ 新定画帖(しんていがちょう)

明治43年(1910)に制定された図画の国定教科書。児童の発達段階に合わせた内容や教授法が示されていたが、臨画を廃止していなかったため、山本鼎らの児童自由画運動から批判を受けた。


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