今田人形芝居
今田人形芝居(いまだにんぎょうしばい)
区 分:飯田市無形文化財(平成2年11月14日 指定)
「今田人形」長野県選択無形民俗文化財(昭和38年2月11日 選択)
所在地:飯田市龍江
概 要:
三人遣い(さんにんづかい)の人形浄瑠璃(じょうるり)です。三人遣いとは、三人で一体の人形を操る日本独自の手法で、主遣い(おもづかい)はかしらと右手を、左遣いは左手を、足遣いは足を操ります。浄瑠璃とは、三味線(しゃみせん)を伴奏(ばんそう)楽器に、大夫(たゆう)と呼ばれる役が台詞(せりふ)やナレーションを語る劇場音楽をいいます。
その始まりについては、「当村操始之事」と題する古文書には、一人遣いの時代にあたる宝永元年(1704)と記されています。
現在のスタイルである三人遣いは、享保19年(1734)に大阪(※1)で初めて上演されましたが、やがて街道を伝わって伊那谷へも伝わったと考えられており、本格的な人形芝居が各地で行われるようになりました。
今田人形は幾たびの存亡の危機を脱し、伊那谷の人形芝居では現在は最も後継者に恵まれて活動を続けている団体で、平成2年から始めた和蝋燭(わろうそく)の灯りによる独自の演出に人気があります。
人形のかしらは90頭を保有します。
本件を含めて、黒田人形(飯田市無形文化財)と早稲田人形芝居(下伊那郡阿南町)が、伊那の人形芝居として、記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に国から選択されています。
※1 大阪:江戸時代は大坂と書くことが普通でしたが、「坂」が不吉な字であるから「阪」を用いる人もいました。明治元年(1868)に大阪府が誕生し、明治10年代に大阪が一般的になりました。ここでは時代に関わらず大阪を用いました。
人形の仕組みと操り
人形は、かしらと胴、手足を組み合わせ、衣装を着せてできています。かしらは主にヒノキ材を彫り、二つに割って中をくり抜き、目、眉、口、鼻などが動く技巧を加えています。かしらの下に付いている胴串(どうくし)に付いている紐で動きを操作します。かしらは胴に付いている肩板にさし、手や足はひもで吊るします。かしらや手足は役柄によって幾種類もあり、女形(おやま)には普通、足がありません。
今田人形は三人遣いです。主遣いは、人形の後ろから左手で胴串を握ってかしらを操り、右手で人形の右手を操作します。主遣いだけは、身長に応じた舞台下駄を履きます。
左遣いは右手で人形の左手を差し金で操り、左手で小道具を扱います。
足遣いは両手で足を操り、草履(ぞうり)履きの足で足音を踏み鳴らします。女形は内側から裾(すそ)をつまんで足さばきを表現します。
外 題(げだい)
外題とは演題のことです。今田人形には以下の外題がありますが、実際に上演される外題は時々によって異なります。
◆寿式三番叟 ◆日吉丸幼桜 ◆御所桜堀川夜討・弁慶上使ノ場 ◆播州皿屋敷・青山鉄山之段 ◆菅原伝授手習鑑・寺子屋之段 ◆玉藻前、二段目・道春の館之段 ◆一の谷嫩軍記・須磨ノ浦の段 ◆三十三間堂棟木由来・平太郎住家 ◆奥州安達ヶ原三段目・袖萩祭文 ◆本朝二十四考・十種香 ◆傾城阿波の鳴門・巡礼歌の段 ◆妹背山女庭訓 ◆三勝半七・酒屋の段 ◆鎌倉三代記・三浦時姫之段 ◆堀川お俊伝兵衛・猿廻しの段 ◆絵本太功記 十段目・尼ヶ崎の段 ◆箱根霊験記・神藤勝五郎・滝ノ湯 ◆安漕ヶ浦・平次住家之段 ◆膝栗毛、赤坂並木之段 ◆壺坂霊験記・沢市内より御寺まで ◆伽羅先代萩 政岡忠義の段 ◆戎舞 ◆生写朝顔話 宿屋より大井川 ◆伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段 ◆日高川入相花王 渡し場の段 ◆小太郎物語(オリジナル作品) ◆夕鶴(木下順二作)
今田人形の歴史と、継承に尽力した人々
今田人形が始まったのは、一人遣いであった頃の宝永元年(1704)といわれています。宝永元年は、人形浄瑠璃の中心地であった大坂の竹本座で、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん ※2)が書いた「曽根崎心中」が初上演され、大ヒットした翌年です。名古屋でも竹本義太夫が出張興行に訪れています。こうした情報が、中馬(ちゅうま ※3)街道を通じて伊那谷にももたらされたと考えられています。
三人遣いという日本独自の手法が始まったのは、享保19年(1734)の大阪といわれていますが、後に歌舞伎が大流行して集客を奪われると、淡路や大阪の人形遣いは地方巡業に力を入れるようになります。江戸時代後期から明治時代には淡路や大阪の人形遣いが伊那谷を訪れ、優れた技術を伝え、人物を育てています。
近代化の中で人形芝居は苦しい時代もありましたが、特に昭和の第二次世界大戦前後は存亡の危機でした。今田人形を行うものは、昭和12年頃には人形遣い3人、太夫1人の4人だけになってしまい、さらに戦後は古いものが敬遠されました。
こうした中で、木下仙(せん)さんは、近隣の人形芝居を勉強し、人形芝居の道具を買って補充し、昭和26年に龍江村長となった翌年には龍江公民館人形部を立ち上げます。さらに昭和29年には、黒田人形、早稲田人形(阿南町)と共に「伊那人形保存協議会」を結成するなど、郷土芸能の保存継承に尽力しました。
仙さんの長男、木下迪彦(みちひこ)さんは、わかりやすい「夕鶴」を作り上演したり、神社への奉納芝居で地元民に限られていた人形座員を、年寄の反対を説得して門戸を広げました。また、文楽(※4)で優れた技を習う一方、足遣いが付くと重いために今田人形には足がないといわれたこともある「今田振り」を残すなど、今田人形独自の技も大切にしました。さらに昭和53年に竜峡中学校郷土クラブに今田人形班(後の今田人形クラブ)を誕生させ、その指導にも力を注ぎました。昭和58年には、仙さんの後に立ち消えてしまった「伊那谷人形芝居四座合同発表会(後の伊那谷人形芝居保存協議会)」を立ち上げ、江戸時代に思いを馳(は)せて和蝋燭を照明にした上演も試みました。
このように、今田人形のみならず、伊那谷の人形芝居の保存と継承に尽力されていた木下迪彦さんですが、昭和63年、不慮(ふりょ)の事故で急逝(きゅうせい)されてしまいます。
しかし、今田人形座は奮起(ふんき)して活動を続けました。日本が世界に誇るユネスコ無形文化遺産(俗にいう世界遺産)人形浄瑠璃文楽では、三味線奏者として鶴澤清志郎さんが、人形遣いとして吉田蓑之(みのゆき)さんが活躍していますが、お二人は迪彦さんの教え子です。今田人形座は、伊那谷でも最も後継者に恵まれた人形座に成長しています。
鶴澤清志郎さん・吉田蓑之さん凱旋上演(広報いいだ 平成29年1月1日号抜粋) (PDFファイル/166KB)
人形の仕組み、外題、歴史などは、今田人形座のウェブサイトに解説があります。
※2 近松門左衛門:江戸時代に、浄瑠璃という曲調を交えた演出方法や、「曽根崎心中」「国性爺合戦」などの歌舞伎や人形芝居のヒット作を生み出した脚本家です。
※3 中馬街道:主に江戸時代から明治時代にかけて、塩などの必要な物資を農民が馬を用いて運送することを中馬といい、内陸部で発達しました。三州街道・遠州街道・大平街道等が交わる飯田はその中心地でした。
※4 文楽:淡路出身の植村文楽軒によって始められた文楽座によって行われる人形浄瑠璃で、国の重要無形文化財の指定を受け、ユネスコ無形文化遺産(俗にいう世界遺産)に登録されています。公益財団法人文楽協会によって、大阪の国立文楽劇場を中心に上演されています。
見学・交通アクセス
10月第3土曜・日曜の大宮神社秋季大祭にて、奉納上演されます。
○飯田市街地から車で20分
○JR飯田線 「天竜峡」徒歩18分 「時又」徒歩22分
○信南交通 市民バス千代線「一本木」徒歩5分
8月初めのいいだ人形劇フェスタ(外部リンク)にて上演します。
関連サイト・書籍案内
いいだtube.TV(外部リンク) (文化会館サブサイト)
『グラフィック 今田人形』 今田人形座 1999
『今田人形芝居 飯田市郷土芸能調査報告書』 飯田市教育委員会 1973