伊那の人形芝居
伊那の人形芝居(いなのにんぎょうしばい)
区 分:記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(昭和50年12月8日 国選択)
所在地:長野県(飯田市龍江・上郷黒田 他)
保護団体:今田人形保存会・黒田人形保存会・早稲田人形保存会(阿南町)
概 要:
大阪(※1)を中心として江戸時代に栄えた人形浄瑠璃(じょうるり ※2)芝居は、街道筋を伝って全国各地に普及しました。江戸時代、中馬(ちゅうま ※3)街道として栄えた伊那谷でも人形芝居が行われるようになり、今日まで伝承されています。最盛期には20座近くの人形芝居の座がありましたが次第に衰退し、今日では今田人形(飯田市龍江)、黒田人形(飯田市上郷黒田)、早稲田人形(下伊那郡阿南町西条)、古田人形(上伊那郡箕輪町)の4座が活動しており、下伊那の3座が国から無形民俗文化財に選択されています。
いずれも義太夫節(ぎだゆう ※4)による三人遣い(さんにんづかい ※5)の人形芝居ですが、黒田人形のように、文楽(ぶんらく ※6)でも現在はみられない手と呼ばれる古い型を残していたり、早稲田人形のように民俗的な信仰を残している三番叟(さんばそう ※7)が演じられていたり、それぞれの得意芸を伝承する風習が残っていたりするところに特色があり、民俗芸能としての人形芝居として貴重な存在であるということができます。
なお現在も活動している各人形芝居は、いずれも市町の無形文化財に指定され、かつ長野県無形民俗文化財に選択されています。
※1 大阪:江戸時代は大坂と書くことが普通でしたが、「坂」が不吉な字であるから「阪」を用いる人もいました。明治元年(1868)に大阪府が誕生し、明治10年代に大阪が一般的になりました。ここでは時代に関わらず大阪を用いました。
※2 浄瑠璃:三味線(しゃみせん)を伴奏(ばんそう)楽器に、大夫(たゆう)が台詞(せりふ)やナレーションを語る劇場音楽をいいます。
※3 中馬:主に江戸時代から明治時代にかけて、塩などの必要な物資を農民が馬を用いて運送したことをいい、内陸部で発達しました。三州街道・遠州街道・大平街道が交わる飯田は中馬の中心地でした。
※4 義太夫節:太夫と三味線の伴奏により太夫が語る浄瑠璃の一派です。
※5 三人遣い:三人で一体の人形を操る日本独自の手法です。主遣い(おもづかい)はかしらと右手を、左遣いは左手を、足遣いは足を操ります。享保19年(1734)に大阪で初めて上演されました。
※6 文楽:淡路出身の植村文楽軒によって始められた文楽座によって行われる人形浄瑠璃で、国の重要無形文化財の指定を受け、ユネスコ無形文化遺産(俗にいう世界遺産)に登録されています。公益財団法人文楽協会によって、大阪の国立文楽劇場を中心に上演されています。
※7 三番叟:歌舞伎や人形浄瑠璃の幕開けに上演される祝儀の演目で、元々は五穀豊穣を祈る舞いで、足を踏みしめる動作があります。
歴 史
伊那谷の人形芝居の初見は、正保4年(1647)、名古屋の人形一座による下條村吉岡での上演です(『熊谷家伝記』(※8)等)。当時の人形芝居はこうした来訪者によるものです。
この地で自ら上演されたのは、元禄年間(1688~1703)と考えられています。黒田人形は元禄年間に正命庵(※9)の僧侶が人形を教えたとされ、今田人形は宝永元年(1704)に人形を操り始めていますが、それは元禄年間に千代野池の人々が買い求めた人形を買い取ったものです。現在のスタイルである三人遣いは、享保19年(1734)に大阪で初めて上演されましたが、やがて街道を伝わって伊那谷へも伝わったと考えられており、本格的な人形芝居が各地で行われるようになりました。驚くことに、大阪で初めて上演された外題(げだい ※10)が、早いものではわずか半年後に伊那谷で上演されています(※11)。
彼らを指導したのは、人形浄瑠璃の本場、淡路や大阪の人形遣いでした。三人遣いで人気となった人形浄瑠璃ですが、明和(1764~1771)頃には歌舞伎の流行によって、やがて客足が劇場から遠のくようになります。人形遣いは地方巡業に活路を求め、人形芝居が盛んな伊那谷にも訪れました。専門家の指導を受け、伊那谷には優れた技やかしら、舞台が残されることとなりました。
黒田には、天明年間(1781~1788)から文政年間(1818~1829)には、淡路の人形遣い吉田重三郎が住み着き、上郷黒田と上古田(上伊那郡箕輪町)で指導しています。黒田では天保3年(1832)から文久年間(1861~1863)でも、桐竹門三郎(大坂文楽座の二代目桐竹門造の弟)と吉田亀造が指導をしており、この3名はこの地で没しています。明治10年(1877)代には、太田切(上伊那郡宮田村)に住んだ文楽座出身の吉田金吾が、太田切のほか、黒田・早稲田・金野(泰阜村)等で度々指導をしています。
江戸時代・明治時代と、風紀粛清(ふうきしゅくせい ※12)により上演が制限されることが度々ありました。しかし、娯楽としての人形芝居が禁止されれば、産土(うぶすな ※13)神への奉納に置き換えたりして、民衆は人形芝居を止めませんでした。
幕末以降は、伊那谷でも歌舞伎(地芝居)が流行しました。三人一組の人形と違い、役者の個性を発揮しやすい歌舞伎(地芝居)は若者の心をとらえました。さらに明治政府は、税収確保のために鑑札制度(※14)を設けるなどしたため、かつて伊那谷に29座あった人形座のほとんどが活動をやめてしまいました。
また、戦中戦後は人手が不足し、さらには古いものが敬遠される風潮となり、また昭和36年の大水害で経済が疲弊し、人形芝居をやる人はほとんどいなくなりました。このような人形芝居の現状に危機感を覚え、古いしきたりにこだわる古老を説得し、多くの人々に人形芝居に参加してもらう等の努力を行った人々がいました。こうして、下伊那では3座の人形芝居が残ることができました。
こうした中で、昭和50年に国から無形民俗文化財に選択されたことは、人形芝居を続ける人々にとって大きな励みとなりました。近年は、人形劇フェスティバルや各地区の中学生のクラブ活動など、さらに活動が広がっています。特に、ユネスコ無形文化遺産に登録されている人形浄瑠璃文楽で、三味線奏者の鶴澤清志郎さん、人形遣いの吉田蓑之(みのゆき)さんが技芸員として活躍しているなど、今田人形座からは極めて優れた人物が輩出されています。
鶴澤清志郎さん・吉田蓑之さん凱旋上演(広報いいだ 平成29年1月1日号抜粋) (PDFファイル/166KB)
※8 熊谷家伝記:天龍村坂部を開いたとされる熊谷家の子孫が残した、中近世(南北朝~江戸中期)の記録をまとめたものです。
※9 正命庵:正命寺、高松薬師ともいい、上郷の介護老人保険施設ゆうゆうの北側にあります。
※10 外題:芝居・講談などの演題のことです。
※11 古田人形(上伊那郡箕輪町)では、元文4年(1739)8月に大坂で上演された「挟夜衣鴛鴦劔翅」が、は寛保4年(1744)に、延享2年(1745)4月3日に大坂で上演された「延善帝秘曲琵琶」が同年8月祭礼で上演されるなどしています。
※12 風紀粛清:社会生活上の規律や節度を正すことをいいます。
※13 産土:その人が生まれた土地や、その土地の神様のことをいいます。
※14 鑑札:行政や組合が、許可や登録したことを認める免許証のようなものですが、明治政府は売り上げに対して税金をかけました。
人形の仕組み
細かな動きで情感の揺れ動きを表すため、眉・目・口の仕掛けなど様々な工夫が凝らされており、かしらと右手を操る主遣い(おもづかい)、左手を操る左遣い、足を操る足遣いの三者によって、世界でも例がないほど繊細で自然な人形の動きが生み出されています。
かしら・舞台
長野県内に残る人形のかしらは、800を超しますが、そのうち下伊那では約550、上伊那も含めると700以上です。また江戸時代に遡る古い作品が多いことが知られており、全国的にも卓越した宝庫といえます。
黒田人形ではかしらをおよそ100頭を保有し、その一つ「操人形『老女形の首』」は元文2年(1737)の、国内最古の銘がある人形のかしらであり、飯田市民俗文化財に指定されています。
また、人形を上演する「下黒田の舞台」は、間口(まぐち ※15)8間(けん ※16)、奥行き4間の総2階づくり、天保11年(1840)の再建であり、全国で最も古く最も大きい人形専用舞台であり、重要有形民俗文化財に国から指定されています。
※15 間口:建物の正面の幅のことをいいます。
※16 間:建物の柱と柱の間のことをいい、建物の規模をいう時に用いられます。寸法としても用いられ、1間は約1.82mです。
見学・関連サイト・書籍等案内
今田人形 (10月第3土曜・日曜の大宮神社秋季大祭にて、奉納上演されます)
今田人形座 人形の仕組み、歴史、外題等の解説が豊富です
『グラフィック 今田人形座』 今田人形座 1999
黒田人形 (4月第2土曜・日曜の黒田の諏訪神社春季大祭にて、奉納上演されます)
『黒田人形』 長野県飯田市教育委員会・黒田人形保存会 1994
平成28年度 黒田人形浄瑠璃 上演外題解説 (PDFファイル/674KB)
共通・その他
『伊那谷の人形芝居』 飯田市美術博物館 1991
伊那の人形芝居(飯田市歴史研究所)