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黒田人形芝居

ページID:0057139 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月17日更新

黒田人形芝居(くろだにんぎょうしばい)

区 分:飯田市無形文化財(平成6年2月18日 指定

     「黒田人形」長野県選択無形民俗文化財(昭和38年2月11日 選択)

所在地:飯田市上郷黒田2155

にんぎょうじょうるり

概 要:

三人遣い(さんにんづかい ※1)の人形浄瑠璃(じょうるり ※2)です。

その始まりについては、黒田諏訪神社の明神講記録から、一人遣いの時代にあたる元禄年間(1688~1703)といわれており、伊那谷でも最も古い人形座ということができます。現在のスタイルである三人遣いは、享保19年(1734)に大阪(※3)で初めて上演されましたが、やがて街道を伝わって伊那谷へも伝わったと考えられており、本格的な人形芝居が各地で行われるようになりました。文政年間(1818~1830)以降明治30年代までに、淡路の人形遣い吉田重三郎、大阪の人形遣い桐竹門三郎・吉田亀造・吉田金吾らを師匠に迎えた歴史を持ちます。

黒田人形でとりわけ注目できるのは、三番叟(さんばそう ※4)をはじめ人形の操法に、「手」と呼ぶ古い型を30近く伝えていることです。この手は、淡路・大阪出身の師匠から教わったといい、今日の文楽(ぶんらく ※5)等でも失われて見ることができない、貴重な古い型の可能性があります。

黒田人形ではかしらを100頭を保有し、その一つ「操人形『老女形の首』」は元文2年(1737)の、国内最古の銘がある人形のかしらであり、飯田市民俗文化財に指定されています。

また、人形を上演する「下黒田の舞台」は、間口(まぐち ※6)8間(けん ※67、奥行き4間の総2階づくり、天保11年(1840)の再建であり、全国で最も古く最も大きい人形専用舞台であり、重要有形民俗文化財に国から指定されています。

本件を含めて、今田人形(飯田市無形文化財)と早稲田人形芝居(下伊那郡阿南町)が、伊那の人形芝居として、記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に国から選択されています。

※1 三人遣い:三人で一体の人形を操る手法です。主遣い(おもづかい)はかしらと右手を、左遣いは左手を、足遣いは足を操ります。

※2 浄瑠璃:三味線(しゃみせん)を伴奏(ばんそう)楽器に、大夫(たゆう)が台詞(せりふ)やナレーションを語る劇場音楽をいいます。

※3 大阪:江戸時代は大坂と書くことが普通でしたが、「坂」が不吉な字であるから「阪」を用いる人もいました。明治元年(1868)に大阪府が誕生し、明治10年代に大阪が一般的になりました。ここでは時代に関わらず大阪を用いました。

※4 三番叟:歌舞伎や人形浄瑠璃の幕開けに上演される祝儀の演目で、元々は五穀豊穣を祈る舞いで、足を踏みしめる動作があります。

※5 文楽:淡路出身の植村文楽軒によって始められた文楽座によって行われる人形浄瑠璃で、国の重要無形文化財の指定を受け、ユネスコ無形文化遺産(俗にいう世界遺産)に登録されています。公益財団法人文楽協会によって、大阪の国立文楽劇場を中心に上演されています。

※6 間口:建物の正面の幅のことをいいます。

※7 間:建物の柱と柱の間のことをいい、建物の規模をいう時に用いられます。1間は約1.82mです。

にんぎょう

黒田人形の「手」

それぞれに名前を持つ人形の繰りの型を手といい、黒田人形の最大の特徴となっています。頭(ず)の動かし方、手の振り方、足の運び方、決めの動作など一つ一つに型が定まっており、この組み合わせて黒田人形独特の動きが生まれています。

手の動きには、ものを指す「さし手」、広いことをしめす「大まねき」、勇壮な姿を表す「のり手」など、頭の動かし方には「衿(えり)すり」とよぶ動きを基本として、悲しさを表す「くり頭(ず)」、憎々しさを表す「ひき頭」など、相手を威圧する「詰め」、立役(たち ※8)が見栄(みえ)をきる「弓張り」、女形(がた ※9)が後ろ姿で嘆き悲しむ「嘆きぶし」など、泣きや笑い、歩き方にも様々な手があります。

これらは、代々の師匠から教わってきた型といわれており、かつて外来の師匠から教わった芸が、地方で代々受け継がれたものです。人形の繰りの型は、文楽など他の人形座でも伝わっていますが、これほどまでに多くの型が名前をもって伝承される例はほとんどありません。黒田人形の手は、淡路や文楽では早くに消されてしまった古い型を伝えていると考えられています。

※8 立役:女形以外の男役の総称で、歌舞伎などでは「たちやく」ともいいます。

※9 女形:女姿の操り人形のことで、歌舞伎などでは「おがた」「おんながた」ともいいます。

さんにんづかい

外 題(げだい)

外題とは演題のことです。黒田人形には以下の外題が伝わっていますが、実際に上演される外題は時々によって異なります。

◆寿式三番叟  ◆御所桜堀川夜討 弁慶上使の段  ◆玉藻前三段目旭袂 道春館の段  ◆三十三間堂棟由来 平太郎住家の段  ◆安達原三段目 袖萩祭文の段  ◆関取千両幟 猪名川内の段  ◆傾城阿波の鳴戸 順礼歌の段  ◆伽羅先代萩 政岡忠義の段  ◆薫樹累物語 土橋の段  ◆鎌倉三代記 三浦別の段  ◆加賀見山旧錦絵 草履打の段  ◆絵本太功記 尼ヶ崎の段  ◆生写朝顔話 宿屋の段  ◆観音霊験記 壺坂寺の段  ◆花雲佐倉曙 総五郎住屋の段  ◆艶容女舞衣 酒屋の段  ◆増補忠臣蔵 本蔵下屋敷の段

黒田人形の歴史

元禄年間(1688~1703)に、正命庵(※10)の僧侶正覚が近くの壮年を集めて教えたのが始まりとされます。その後、諏訪神社の境内に6間に3間半の舞台を建設し、毎年の神楽の代わりに人形を上演するようになりました。宝暦年間(1751~1763)と寛政年間(1789~1800)には大祭が行われたと伝わっています。

天保11年(1840)には旧舞台に代わり、現在の舞台が建てられ、翌々年に舞台開きの大祭が開かれました。当初4日間にわたって上演する予定でしたが、3日目に飯田藩から風紀の取り締まりで興行が禁止され、弘化2年(1845)にようやく許されています。

天明年間(1781~1788)から文政年間(1818~1829)には、淡路の人形遣い吉田重三郎が来て、天保3年(1832)から文久年間(1861~1863)までは大坂から桐竹門三郎が来て教え、ともにこの地で没しています。明治時代には、大田切(駒ケ根市)に住んだ人形遣い吉田金吾が度々指導に訪れています。

こうした外来の人形遣いから指導を仰ぎ、明神講と呼ばれる講員が黒田人形を支えており、明治26年(1893)に結成された上郷青年会下黒田支会に地区の青年の加入が義務付けられました。昭和20年に上郷青年会が解散しますが、昭和26年に保存会が結成されています。

※10 正命庵:正命寺、高松薬師ともいい、上郷の介護老人保険施設ゆうゆうの北側にあります。

道 具

伊那谷各座の中でも最多の100点を超えるかしらを保有しており、約65点が江戸時代にさかのぼる古い趣を伝えています。立役には力強い作品が多く、女形には頬のふっくらした上品な表情があります。

一方、手足や胴輪(どうわ ※11)、衣装などは古いものは多くありませんが、これは黒田人形が今も活動している座であり、修理や更新によるものです。

※11 胴輪:人形を構成する部材で、肩を形づくる肩板に、体にふくらみをもたせる腰輪をつるしたもので、手足が紐で結わえてあります。

見学・交通アクセス

4月第2土曜・日曜の黒田の諏訪神社春季大祭にて、奉納上演されます。

舞台

○飯田市街地から車で6分

○JR飯田線 「桜町」「伊那上郷」徒歩20分

8月初めのいいだ人形劇フェスタ(外部リンク)にて上演します。

関連サイト・書籍等案内

黒田人形座

いいだtube.TV(外部リンク) (飯田市文化会館サブサイト)

平成28年度 黒田人形浄瑠璃 上演外題解説 (PDFファイル/674KB)

『黒田人形』 長野県飯田市教育委員会・黒田人形保存会 1994

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