飯田城桜丸のイスノキ
飯田城桜丸のイスノキ(いいだじょうさくらのまるのいすのき) 1本
区 分:長野県天然記念物(平成26年9月25日 県指定)
所在地:飯田市追手町2丁目678
所有者:長野県
概 要:
飯田城跡の桜丸の一画にあるイスノキで、飯田城の歴史と文化にゆかりのある樹木です。
イスノキは、マンサク科の常緑暖帯系の高木で、日本では東海・山陽・四国・九州・沖縄に分布しています。今のところ県内で自生種は知られておらず、本種も本来の分布域から外れたところで生育しています。大きさは目通り周は2.3m、高さは約12mであり、全国でも10番目の大きさとみられています。
江戸時代の飯田城を描いた絵図などに登場はしないものの、大きさやイスノキの特徴からして、江戸時代にいずれかの手によって植えられたものとみられます。

樹皮は灰白色で、葉は長楕円形で厚く、春に紅色の細かい花が穂状に咲きます。葉にできる虫こぶ(※1)はタンニン(※2)を含むことから布の染料に、材は堅く重いことから家具や櫛(くし)などの工芸品や床材などに用いられます。また、イスノキを焼いた灰の柞灰(いすばい)は陶磁器に用いられる高級な釉薬(ゆうやく)です。
※1 イスオオムネアブラムシが寄生してでき、虫こぶを笛のように吹いたときに鳴る音から、「ひょんのき」ともいわれます。
※2 タンニン:植物に含まれる渋味の成分です。

飯田城桜丸とイスノキ
飯田城は室町時代に坂西(ばんざい)氏が築城したといわれており、戦国時代には戦国大名武田氏・徳川氏・豊臣氏などが、その家臣を派遣して下伊那支配の拠点として整備しました。江戸時代の元和3年(1617)に脇坂氏が、寛文12年(1672)に堀氏が城主となり、南信地方の中核都市として城下町を発展させるとともに、政治・経済・学問で多くのすぐれた人物を世に出しました。しかし、堀家には江戸幕府の重臣であったため、飯田城は明治維新の後に新政府によって徹底的に破壊されてしまいました。詳しくは、飯田城の歴史をご覧ください。
桜丸は、脇坂安元(※3)が、安政を養子に迎えるために御殿を建てた場所です。桜丸御門(通称 赤門)を正面の入口として、白塀と水堀で区画されており、安元が多くの桜を植えたことからこの名がつけられたといわれています。堀氏の時代には、若殿や隠居(いんきょ)の御殿として使われ、安政2年(1855)の大地震で本丸御殿が壊れた後は、藩主が政治を行った飯田城の中心部でした。
絵図によれば、イスノキの位置は桜丸の庭園の一画であり、茶室が隣にありました。庭園の一画には青霞楼(せいかろう)と呼ばれた二階建ての建物がありました。イスノキは茶室とともに青霞楼からの景色の一つになっていたでしょう。城内や城の庭園にイスノキが植えられている事例は、金沢城・金沢城兼六園(石川県)、名古屋城(愛知県)、彦根城玄宮園(滋賀県)をはじめとする大名の城や庭園にみられます。
また、イスノキは釉薬(ゆうやく ※4)の材料としても知られていますが、飯田城主堀氏は、茶道や茶道具、造園に深い関心をよせていました。
桜丸のイスノキは当地方で珍しい種の大木であり、飯田城の歴史と文化とつながりが深い樹木であることから、長野県天然記念物に指定されています。
※3 脇坂安元(わきさかやすもと):文武に優れた名君として名高く、元和3年(1617)に伊予国(いよのくに 愛媛県)から飯田へ移り城主となりました。70歳で没し、長久寺(飯田市諏訪町)に葬られました。
※4 釉薬:陶磁器の表面をおおっているガラス質のうわぐすりです。
見学・注意事項
見学は自由ですが、下伊那地方事務所及び飯田市中央図書館の利用者へご配慮をお願いします。
交通・アクセス
○桜丸は現在の長野県飯田合同庁舎(下伊那地方事務所)の一画にあります。
○JR飯田線「飯田」駅 徒歩15分
○信南交通 市内循環線「県合同庁舎前」 徒歩2分