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飯田城の歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年12月22日更新

飯田城の概要

絵図

飯田城外廓開墾之図(明治5年 飯田市美術博物館蔵)

飯田城は、下伊那では江戸時代まで残ったただ一つの城です。

段丘の突端付近に本丸を置き、裏側に山伏丸、表側に二ノ丸、出丸、桜丸、三ノ丸を重ねています。段丘を堀で刻んだ伊那谷らしい城ですが、いくつもの桝形虎口(ますがたこぐち ※1)を設けた織豊系(しょくほうけい ※2)の城郭で、惣構え(そうがまえ ※3)を設けて城下町を取り込んでいます。

始まりは室町時代、この地方の豪族であった坂西(ばんざい)氏が築いたことによるといわれています。その後武田氏や徳川氏などが下伊那支配の拠点として整備し、毛利氏など織豊系大名が三ノ丸まで広げて城下町を造り、現在の姿になったと考えられています。

※1 桝形虎口:虎口は城の出入り口のことで、城門があり防御の要となる場所です。桝のように、四角い空間を設けて、前後左右を城門や石垣などで取り囲んだ虎口を桝形虎口といいます。

※2 織豊系:織田信長と豊臣秀吉が政権をとった安土桃山時代を、二人の名前の頭をとって織豊時代ともいいます。また、彼らの配下の大名を織豊系大名、織豊系大名によって造られた城を織豊系城郭といい、天守閣に代表される石垣と瓦葺き建物、桝形虎口といった特徴があります。

※3 惣構え:城全体、特に城下町も含めて堀や土塁、石垣などで囲んだ城や、囲む施設をいいます。

ますがた

二ノ丸と三ノ丸の間の連続する桝形虎口  飯田城外廓開墾之図(明治5年 飯田市美術博物館蔵)

飯田城の歴史

 飯田城のはじまり ~坂西氏の頃~

飯田城はもともと、修験者(しゅげんしゃ ※4)の行場であったところを、坂西氏が城を構えたといわれています。坂西氏は、室町時代に飯田を治めていた豪族です。信濃守護小笠原氏の一族とも、阿波国(徳島県)出身の近藤氏の一族ともいわれていますが、天正10年に滅んだ一族のために文書が残されておらず、詳しいことはわかりません。

江戸時代の地誌書によれば、坂西氏の初代は信濃守護小笠原貞宗の三男宗満(むねみつ)で、貞和年中(1345~1350)に城を築きました。その子孫政忠(1393~1464)が「松原の城」と愛宕神社の土地を交換したといいます(『伊那温知集』)。

別の地誌書によれば、阿波国坂西の近藤周家が源頼朝の命により飯田の地頭(じとう ※5)になり、建久6年(1195)、「飯坂」の地に居館を構えました。周家の孫、長門守(ながとのかみ)が、山伏の修行場であったところを城とし、換わりに飯坂の地を山伏にあけわたしました。そこが愛宕神社で、飯田城の本丸奥が山伏丸とよばれるのはそのためといわれています(『信陽城主得替記』)。

当時の資料からは、鎌倉時代から室町時代の初めごろまで、飯田郷の地頭は鎌倉御家人(※6)であった阿曽沼(あそぬま)氏でした。

坂西氏は、永享12年(1440)の関東地方の合戦に登場し、室町時代中頃に書かれた物語ではこれにさかのぼる応永7年(1400)、長野市でおきた合戦にも登場しています。宝徳4年(1452)以降は諏訪大社(※7)の記録類にもたびたび登場するようになりますので、室町時代中頃には飯田の郷主となっていたとみられます。永正6年(1509)には風越山山頂に白山社奥社本殿を建立したことが知られています。

しかし、飯田城がいつごろ築かれたかは、当時の史料が残っていないためはっきりしません。

※4 修験者:山で厳しい修行を行う日本古来の山岳信仰と仏教が混じりあった日本独特の宗教を修験道といい、修行者を修験者または山伏といいます。

※5 地頭:中世に荘園といわれる私的で広い土地を管理していた職業をいいます。

※6 鎌倉御家人:鎌倉幕府に仕え、幕府から直接土地所有を認められるとともに、有事の際には軍事協力する義務を負った武士をいいます。

※7 諏訪大社:中世には戦の神として武家からの信仰が篤く、信濃国内をはじめ近隣の武士が祭に奉仕しています。

下伊那の拠点へ ~武田氏の頃~

天文23年(1553)に下伊那を支配した武田氏は、大島城とともに飯田城を下伊那の拠点として整備しました。しかし、武田氏侵攻の直後は坂西氏が飯田城主であったようで、永禄5年(1562)に、坂西長忠が小笠原氏の領地を侵して小笠原氏に討ち取られる事件が発生しますが、この後に武田家重臣秋山虎繁(とらしげ ※8)が城代(じょうだい ※9)として入城したと江戸時代の歴史書は伝えています。

元亀4年(1573)、秋山虎繁が美濃の岩村城(岐阜県恵那市)へ入城すると、飯田城には坂西長忠の弟、織部亮(おりべのすけ)が入城しました。武田氏は天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗しますが、その直後、坂西氏は武田氏から離反したために、多くの人物が処刑されています。同時に織田軍が下伊那へ攻め入ることを想定した防衛策を指示しています。それによれば、高遠城と大島城を重要な拠点として、伊那谷の武将の配置先などを具体的に定めていますが、飯田城は記載がありません。

※8 秋山虎繁:信友ともいわれ、はじめ伊那郡を任され、後に美濃の方面隊長として信長との交渉にあたり、天正3年に美濃で戦死します。

※9 城代:城とその周辺の土地の守備を任された家臣をいいます。

飯田城の落城と攻防 ~激動の天正10年代(1582~1590)~

天正10年、織田信長は武田氏を滅ぼす作戦を開始し、木曽谷・伊那谷から侵攻を始めます。下伊那では、下条氏・小笠原氏が相次いで織田軍に下り、2月14日、梨子野峠(なしのとうげ ※10)から織田軍先陣を招き入れます。これを見た飯田城の城将、坂西織部と保科正直(ほしなまさなお ※11)はこの日の夜に退却しました。続いて大島城も落城し、武田氏は3月11日に滅亡します。

織田信長は3月15日に飯田城へ入り、武田勝頼父子の首級を城下にさらし、17日に飯田を立ちます。甲斐信濃を平定した信長は、伊那郡を毛利秀頼(※12)へ与えます。しかし、6月2日に本能寺の変で信長父子が殺されると、武田旧領は、徳川家康、北条氏政・氏直、上杉景勝の三者が乱入し、地元の武将も巻き込んだ争奪戦となりました。

下伊那の大半は下条信氏が押さえ、徳川家康に属しました。しかし、諏訪・上伊那は北条氏につく者が多く、8月には飯田近辺にも北条軍が出没し、下条氏ら徳川軍は飯田城で籠城しています。この争いは10月末に徳川と北条の講和によって終わりました。下伊那は、徳川家臣菅沼定利(すがぬまさだとし※13)が郡代となり知久平に城を築きました。下条氏は小笠原氏との私戦に敗れ、さらに陣中で不始末をとがめられ、美濃へ逃れたといいます。下条氏を追い出した菅沼定利は、天正14年(1586)の終わりから翌年初めにかけて飯田城へ移ったと考えられており、下伊那支配の拠点として整備さたとみられます。

なお、この頃の飯田城には、部分的に石を積むことはあっても、城門や堀の全体を石垣で覆うことはなかったものとみられます。また、屋根に瓦が使われることもありませんでした。

※10 梨子野峠:飯田山本と南木曽を結ぶ清内路街道の峠で、飯田市と阿智村清内路の境にあります。標高約1180m。

※11 保科正直:伊那の高遠氏の家臣でしたが、武田家臣となり、援軍として派遣されました。

※12 毛利秀頼:織田家の家臣で、中国地方の毛利家とは別の家系です。

※13 菅沼定利:奥三河(愛知県設楽町)の出身で、武田滅亡後に徳川に仕え、後に上州吉井藩(群馬県高崎市)の藩主となります。小大膳(こだいぜん)・大膳大夫(だいぜんだいぶ)の役職名で呼ばれました。

近世城郭へ ~桃山時代から江戸時代初め~

天正18年(1590)、徳川家康が関東へ国替えとなると、飯田城へは豊臣家臣である毛利秀頼が再び入ります。飯田城は伊那郡の拠点となり、城と城下町が拡大されたとみられます。江戸時代に記されたとみられる『飯田町旧記』には、これまでの飯田城は山伏丸・本丸・二ノ丸までで、毛利秀頼が三ノ丸とその西に追手門を設けました。また、それまであった伊勢町や番匠町に続く、本町などの城下町を建設したことが記されています。

文禄2年(1593)に毛利秀頼が亡くなると、娘婿の京極高知(きょうごくたかとも)が跡を継ぎ、彼は後に10万石(※14)に加増されます。城下町の建設も進み、神の峰城下の知久商人を移住させた知久町、松尾の町人が移った松尾町、名残町(伝馬町)など造られました。文禄5年(1596)には、町屋を碁盤(ごばん)の目のような町割りとし、城下町全体を惣堀(そうぼり ※15)で囲みました。

この頃から城には大きな石で石垣が築かれ、追手町小学校の東側、水の手御門にその石垣をみることができます(※16)。また、城門などの大切な建物には瓦が乗せられるようになり、二ノ丸の正門が松尾に移築されて残っています。

慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦で徳川家康が政権をとると、京極高知に替わって小笠原秀政(ひでまさ ※17)が飯田に入り、慶長18年(1613)に小笠原秀政が松本へ移ると、飯田藩は幕府直轄地となり、小笠原秀政の家老が在城しました。

元和3年(1617)に脇坂安元(やすもと)が入り、脇坂氏の時代に城下町を取り囲む惣構えが完成したといわれています。脇坂氏は伝馬町を整備し、惣構えの外に桜町が新たに造られました。

寛文12年(1672)に城主が堀氏にかわり、堀氏が幕末まで飯田藩を治めました。

※14 石:石(こく)は体積を表す単位ですが、土地や大名の規模を表すのに用いられました。1石は米1,000合、約150kgといわれており、単純に比較はできませんが、米1石は金1両と同じで、現在の貨幣価値で約10万円といわれています。10万石は100億円の生産高ということができるでしょうか。

※15 惣堀:惣構え(※3)の堀をいいます。

※16 織豊期の石垣は、平たい巨石を加工せずにそのまま積み上げた野面積み(のづらづみ)でした。関ヶ原の合戦の後、石を加工して積み上げる打込み接ぎ(うちこみはぎ)、切込み接ぎ(きりこみはぎ)が普及していきます。

※17 小笠原秀政:深志(府中)小笠原家の後裔で、松本藩初代藩主となりました。

そうかまえ

惣構え土塁跡(箕瀬町 柏心寺裏) 石垣は新しいもの、手前の道路がかつての堀跡

みずのてごもん

水の手御門(二ノ丸と出丸の間 現在の追手町小学校東側)の石垣

城の取り壊し ~明治維新~

堀氏は佐幕派(※18)であったため、明治維新の後に飯田城は徹底的に破壊され、建物は解体され、石垣は崩され堀は埋められてしまいました。現在も見ることができる遺構は多くありませんが、赤門と親しまれている桜丸御門や、織豊期の石垣の一部(※19)、堀の痕跡が現地で残されています。また市内には、二ノ丸御門であった八間門をはじめ、飯田城の城門(経蔵寺山門、桜丸西門(雲彩寺山門)、馬場調練場の門(脇坂門))が移築されています。

※18 佐幕派:幕末の動乱で使われた言葉で、徳川幕府を補佐するという意味です。

※19 二ノ丸と出丸の間の堀、現在の追手町小学校の東側にある水の手御門に残されています。

飯田城の発掘調査

これまでの部分的な発掘調査の結果、本丸では石組の水路(御用水)と、これに先立つ大きな建物跡が見つかりました。建物は間口5間以上、掘り方の幅・深さ共に1m以上ある大きなものです。江戸時代前半に造られた御用水よりも古いことから、武田氏あるいは徳川氏時代の建物跡とみられます。

二ノ丸では、多数の方形竪穴(※20)、折れ曲がった堀などがみつかりました。堀は現在の飯田城とは異なる縄張で、方形竪穴は市内の他の丘城から見つかっていないことから、下伊那支配の拠点となった飯田城と国衆(くにしゅう ※21)の持ち城との違いがあるかもしれません。

城と城下町を区画する北堀は、幅20m以上、土塁を除いた深さが8m以上ある箱堀であることがわかっています。

※20 方形竪穴:地面に四角く掘られた穴で、半地下式の臨時的な住居とみられています。

※21 国衆:地方豪族のことで、国人ともいわれます。農民とのつながりが強く、守護や戦国大名と対立したり、家臣となったりしました。

きたぼり

飯田城北堀(三ノ丸西側追手門脇 銀座3丁目)の発掘

飯田城下町の概要

えず

飯田城下町絵図 (江戸時代初期 下伊那教育会蔵 飯田市有形文化財)

飯田は、三州街道・遠州街道・大平街道・伊那街道の起点となっています。城下町の外側には惣構えが設けられ、街道の出入り口には桝形や木戸が設けられており、惣構えの内側は寺院が多く集められています。

城下町は谷川を境に南町と北町に大きく分かれています。竪の通りと横町によって長方形に区画された町並みが特徴で、南町に13町、北町に5町がありました。

街道の集まる飯田の町は、近郷の百姓が中馬と名乗り、荷を運んだことから、出馬千匹入馬千匹といわれるほどの賑いがありました。また、城主脇坂氏以来、茶道が盛んな土地柄であることから、和菓子作りが盛んになり、現在でも多くの和菓子屋が店を構えています。

飯田の町はたびたび大火に見舞われていましたが、間口の狭い間取りに海鼠壁(なまこかべ ※22)の城下町の風情が良く残っていました。しかし、昭和22年4月の大火では、飯田市街地の大半が焼失し、城下町の町並みが失われてしまいました。これを機に、市民が自らの土地の一部を提供し、町屋の境に避難用道路「裏界線(りかいせん)」が設けられ、復興事業で防火帯道路が設けられると、地元の中学生によって並木としてりんごが植えられました。裏界線とりんご並木は、飯田市のシンボルとして、多くの人から愛されています。

※22 海鼠壁:平らで四角い瓦を張り並べ、継ぎ目を漆喰(しっくい)と呼ばれる白い材料で盛り上げた壁で、土蔵などによく見られます。

城下町の発掘調査

城下町は、追手門の正面に位置する本町で本格的な調査事例があり、江戸時代の町屋の空間利用が確認されています。それによれば、通りから順に、母屋、中庭、土蔵と配置され、中庭には井戸や便所が造られる豪商と、母屋と裏庭のみの町屋の2種類の町並みが復元されています。

特殊な遺構や遺物として、明治以降のものとみられる水琴窟(すいきんくつ)と、文化文政期以後の櫛(くし)があります。水琴窟は甕などを埋めて水をため、ここに落ちた水滴が反響した音を楽しむ仕掛けで、庭園や茶室などに造られました。この水琴窟は、現在のJR飯田線のもととなった伊那電気鉄道の建設に奔走した伊原五郎兵衛の分家にあたる商家の庭園にあったものです。

櫛は鼈甲(べっこう ※23)製で三ツ葵紋(みつあおいもん ※24)の蒔絵(まきえ ※25)が施されたもので、やはり商家のごみ穴から出土しました。どのような経緯でこの地に至ったかは不明ですが、幕府の老中格(ろうじゅうかく ※26)として活躍した飯田藩主堀家と徳川家とのつながりを示すもので、飯田の町人の暮らしぶりを偲ぶものです。

※23 鼈甲:ウミガメの甲羅(こうら)から得られる素材で、半透明の黄色と褐色です。

※24 三ツ葵:三ツ葉葵ともいい、江戸時代将軍徳川家の家紋として知られています。

※25 蒔絵:漆器の表面に漆で絵を描き、乾かないうちに金や銀の粉を蒔くことで図柄を表す技法です。

※26 老中格:江戸時代、将軍に直属して政治を統括する役職である老中に準じた役職です。

すいぎんくつ

水琴窟(本町 トップヒルズ第2)

くし

櫛(本町 トップヒルズ第2)

茶文化さかえる城下町

飯田は茶の湯文化が大変盛んなところです。お茶請けのお菓子や漬物、魔法瓶にお湯が常に用意されている家庭が少なくありません。飯田が温暖な気候で、茶の栽培が可能であることも無関係ではないでしょう。今も盛んな和菓子や半生菓子の生産は、喫茶の文化に由来するものです。

伊那谷には南北朝時代に渡来僧によって禅宗が広められ、それとともに喫茶文化が浸透したと考えられています。中世後半には地方豪族の間にも喫茶文化が広がっており、中世城館からは天目茶碗(てんもくちゃわん ※27)や茶入れなどが出土しています。江戸時代、飯田藩主であった脇坂安元らは上方の文化を積極的に取り入れたといわれ、その後中馬(ちゅうま ※28)や諸産業の発達によって増えた豪商なども、茶の湯の普及に貢献しました。

発掘調査では、桃山時代から江戸時代前半にかけての天目茶碗や小皿類が出土しており、ごく少量ですが志野(しの ※29)や織部(おりべ ※30)などの高級茶器・食器類もあります。これらは、伝世、あるいは豪商が収集したものとも考えられます。

江戸時代中ごろになると、風炉(ふろ ※31)などの茶器や、焼塩壷(しょうえんこ)など、喫茶に関連した陶磁器の出土が増え、茶の湯が町民にも普及したようです。その手法も、煎じ茶を含めた多様なものとなっていきました。焼塩壷は鯛の尾頭付の鯛などを食べるときに用いた高級な食卓塩で、本町出土と同じタイプのものが名古屋城三ノ丸でも出土しています。

※27 天目茶碗:黒い鉄質の上薬がかかっている喫茶用の碗をいいます。

※28 中馬:江戸時代、農民が馬を利用して行った輸送業で、東海地方と中部地方を結ぶ飯田はその中心都市でした。

※29 志野:桃山時代に美濃地方で焼かれた焼き物で、白い上薬が厚くかけられています。

※30 織部:桃山時代に美濃地方で焼かれた焼き物で、ゆがんだ器形に黒・緑・白などの上薬がかけられ、幾何学模様などが描かれています。

※31 風炉:茶の湯の席で湯を沸かす炉をいいます。

おりべ

織部椀(箕瀬町 市役所駐車場)

しょうえんこ

焼塩壷(本町 りんご庁舎)

もっと知りたい方へ ~参考・引用文献等~

飯田城ガイド(飯田市美術博物館のウェブサイト)

『飯田城ガイドブック 飯田城とその城下町をさぐろう』 飯田市美術博物館 2005

『飯田・上飯田の歴史』上 飯田市教育委員会 2012

『飯田城下町遺跡』 飯田市教育委員会 2006・2001

『飯田城跡』 飯田市教育委員会 2007

飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます