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観耕亭碑

ページID:0059656 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月17日更新

観耕亭碑(かんこうていひ) 1基

飯田藩主 堀親義(ほりちかのり)を称える碑で、碑文・筆跡ともに優れています。

区 分:飯田市史跡(昭和43年11月19日 指定)

所在地:飯田市追手町2丁目641

所有者:長姫神社

時 代:江戸時代 安政6年(1859)

ひ

概 要:

飯田城の本丸にあった観耕亭の名の由来と、飯田藩主堀親義の徳(とく ※1)を称え記した石碑です。

飯田城の本丸は天竜川・松川・伊那山脈・近郊の町や村が一望できる場所にあり、碑には「時の藩主堀親義候は文武の勉強に志し政(まつりごと)に励み、折を見ては城外に出て山水(さんすい ※2)を鑑賞することを楽しみとしていた名君である。しかし、外出すると働いている農民の邪魔になる。そこで城内に小亭(※3)を作り、そこから農民が農耕に励む様子を眺め楽しんだ。賢者の楽というべく、まさに仁政(じんせい ※4)の基とすべきである」という意味が書かれています。

石碑は高さ105cm、幅39cmの粘板岩(ねんばんがん ※5)製で、本文は1行30字詰め12行で書かれています。

観耕亭記の篆額(てんがく ※6)は安藤正宜の筆、碑文は安積信の作、高橋豊珪の書によるものです。

※1 徳:社会的に価値のある優れた品性をいいます。

※2 山水:山と川、自然の風景のことです。

※3 亭(てい・ちん):あずまや(東屋・四阿)のことで、景色などを眺める比較的簡単で開放的な造りの建物をいいます。

※4 仁政:民衆に思いやりのある政治のことです。

※5 粘板岩:泥が堆積してできた岩石が熱や圧力を受けたもので、薄く剥がれる特徴があります。

※6 篆額:石碑などの上部に書かれた題字です。

部分

碑 文

観耕亭記

柳塘堀公采地在信州山水之鏡、而城中高爽所、尤可以攬其勝於几席、又可以観田野耕稼之収、因構一亭名曰観耕亭、南嚮眼界清豁、近則松川一帯流水演迤、如曳匹練、田疇罫布林野繍錯、農民佃夫往来散布其間、遠則峯巒蜿蜒、高者如屏卑者如箕、仰者如龍拏雲、俯者如虎負嵎蒼如畳螺、青如点黛、雲煙繚繞朝暮万変、宛然郭熙一幅図画、宣取山水之勝而名其亭、顧独有取於観耕何也、余竊惟、公器識雄邁講究文武之業、而於政事尤尽心焉、夙夜励精図治、未嘗為声伎酒色驕逸之楽、有暇則小隊出遊観山水以自娯耳、然猶懼其妨農事也、故構小亭於城中、時登臨以自娯、可不謂賢者之楽哉、夫人主之徳莫大於仁、政事之本莫重於農、今公不肯出遊其意欲使斯民竭力於稼穡也、則恭倹恤下其仁可知矣、其名亭不以山水而以観耕則務政事之大本而不忘稼穡之艱難、亦従可知矣、由是観之茲亭雖小而升高望遠、遊心於清曠寥郭之表、悠閑自得 頤養精神以為行仁政之基其所係豈小乎哉、

安政己未十月 昌平学教官 安積信 撰文 高橋豊珪書

訳 (安藤智重 2012 に一部加筆・変更)

堀親義公は、領地が信州の自然が美しいところにある。城内の小高く爽やかな所では、その優れた景色を居ながらにして眺めることができ、また田や野原での農耕や収穫の様子を見ることができる。そこで、亭を構えて、観耕亭と名付けた。

南方は視界が清らかに開けている。近くの景色は、松川が一筋に広々と流れ、練り絹を曳いたような様である。田畑は碁盤の目のように布かれ、林野は刺繍(ししゅう)をちりばめたようであり、その間を農民が行き来ししている。遠くの景色は、峰々が蛇のようにうねうねとどこまでも続いている。高い峰は衝立のよう、低い峰は箕のよう、仰ぎ見る峰は龍が雲を捕えたよう、蒼の様は法螺貝を重ねたよう、青の様は黛(まゆずみ ※1)を書き入れたようである。雲や靄(もや)はまつわりめぐり、朝夕様々に変化して、あたかも郭熙(北宋の山水画家)が描いた一幅の絵のようである。この山水の景勝に因んで、亭に名を付けるべきである。思うに、ひとり農耕を観ることから名を取るとは、どうしてであろうか。

私は思いを巡らせた。堀公は器量・見識が優れており、文武の道を講究(※2)されている。そして、政治に最も心を尽くされている。朝から夜遅くまで精励して治世について考えを巡らし、芸事や酒色のような遊びはなさらない。暇を見ては小隊を組んで野山に遊び、山水を見ることで自ら楽しまれるのみである。しかし、なお農作業を妨げないようと心配された。それで、城中に小さな亭を構えて時折亭に登ることで自ら楽しまれる。それこそ賢者の楽しみというものである。

そもそも君主の徳は、仁より大きいものはなく、政治の根本は農より重いものはない。今、堀公があえてお出ましにならなくとも、そのお心は人民に、力を農耕に尽くさせようとしているのである。すなわち、恭倹(※3)で下の者を憐れむところに、その仁を知るべきである。この亭を名づけるのに、山水からとらず、農耕を見ることからとったのは、すなわち、政治の大本を務めて、農耕の苦労を忘れないことであると、また理解されよう。

このような思いに基づいて観耕亭を見れば、小さな亭だけども高い所に登って遠くを望んで、心を美しく広大な世界へと解き放ち、閑静な心持ちを自得して精神を養い、それでもって仁政を行なう基としていることがわかる。この亭に関わるところは、どうして小さなことと言えようか。

※1 黛:眉を描く墨です。

※2 講究:学問を修め、研究することです。

※3 恭倹:つつしみ深く振る舞うことをいいます。

 

堀親義(ほりちかのり) 文化11年(1814)~明治13年(1878)

飯田藩主堀家11代・13代当主です。弘化2年(1845)に父親寚が隠居すると家督を継ぎ、奏者番(そうじゃばん ※1)や京都見廻役頭(きょうとみまわりやく ※2)、講武所(こうぶしょ ※3)奉行に登用されるなど、江戸幕府の要職を務めました。12代から15代まで4代の将軍全員に奏者番として仕えた大名としては、全国唯一です。

朝廷にも仕えましたが、明治元年(1868)、徳川慶喜(※4)の嘆願書提出に協力したため明治新政府からは警戒され、養子の親廣(ちかひろ)に家督を譲り隠居しました。明治10年(1877)、親廣を離縁し、堀家家督を再相続し、翌年養子親篤へ家督を譲ります。明治13年(1879)、松尾久井で没し、飯田市諏訪町の長久寺へ埋葬されました。

親義の在任中の元治元年(1864)、水戸藩を中心とした尊王攘夷派(※5)の天狗党(てんぐとう)が飯田領内を通過しました。国元の家臣は外堀へ大砲をすえて籠城決戦の構えをみせましたが、親義が講武所奉行という立場にありながら領内を通過させ、天狗党を追討しませんでした。このため、親義は講武所奉行を解任され、領地が没収されるなどし、清内路の関所を預かる役人2人は切腹となりました。しかし、飯田の町は戦禍(せんか)から守られたのでした。

この時に水戸浪士が今宮町で昼食をとったことから、飯田市丸山公民館の前に記念の石碑が建立されています。

※1 奏者番:大名や旗本と将軍の連絡役などを行う要職です。

※2 京都見廻役:新撰組と同じく京都の反幕府勢力を取り締まる幕末の組織です。新撰組が町人街・歓楽街を担当したのに対し、見廻役は御所や二条城周辺などの官庁周辺を担当しました。

※3 講武所:幕末に幕府が設置した武芸訓練機関です。

※4 徳川慶喜:徳川幕府15代、最後の将軍で、慶応3年(1867)に政権を朝廷へ返し(大政奉還)、新政府軍に対しては江戸城を明け渡しました。

※5 尊王攘夷:尊王とは天皇を敬うこと、攘夷とは外国の脅威(きょうい)を排除するとの意味です。江戸時代の終わりごろ、すでに多くのアジア諸国を侵略し植民地とした欧米諸国が日本へも交易を求めてきました。欧米諸国に対する警戒観が攘夷運動となり、やがて諸外国に弱腰な幕府を倒そうとする運動へ繋がりました。

 

安積艮斎(あさかごんさい) 寛政3年(1791)~万延元年(1860)

江戸時代後期の儒学者(※1)で、名は重信または信、艮斎は号(※2)です。陸奥安積郡郡山(福島県郡山市)に生まれ、17歳で江戸に出て学び、24歳で私塾を開きました。嘉永3年(1850)、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ ※5)の教官となりました。ペリー来航時のアメリカ国書の翻訳(ほんやく)や、ロシア国書の返書の起草(きそう ※6)に携わりました。

また、岩崎弥太郎(※7)や清河八郎(※8)、阪谷朗廬(さかたにろうろ ※9)、吉田松陰(※10)など、明治維新の原動力となった人たちに影響を与えたといわれます。

※1 儒学:古代中国に始まる、社会秩序を安定させて良い世の中にしようとする学問です。

※2 号:本名とは別に使用する名称で、現在のペンネームに近いものです。

※5 昌平坂学問所:江戸の神田湯島に設置された江戸幕府直轄の教学機関です。

※6 起草:物事を計画したり、その文案を作成することをいいます。

※7 岩崎弥太郎:三菱財閥の初代創業者です。

※8 清水八郎:庄内藩(山形県鶴岡市)の藩士で、九州を遊説して尊王攘夷の志士を京都へ呼び寄せる一方、浪士組を結成し、明治維新への流れをつくりました。

※9 阪谷朗廬:幕末の儒学者で、朗廬は号、名は素(しろし)といいます。弘化4年(1847)に飯田を訪れ、現在国の名勝に指定されている景勝地「天龍峡」を命名するとともに、その景観の美しさについて述べています。

※10 吉田松陰:明治維新に携わる多くの若者に影響を与えた幕末の思想家です。

 

安藤龍淵(あんどうりゅうえん) 文化3年(1806)~明治17年(1884)

名は正宜といい、幕末明治の幕臣、書家です。特に隷書(れいしょ ※1)に優れ、古美術の鑑賞にも才覚を現しました。

※1 隷書:文字が横長で、左右の払いで波打つような筆運びをする書体の一つです。

 

高橋石斎(たかはしせきさい) 文化14年(1817)~明治5年(1872)

幕末明治の書家で、名は豊珪、字(あざな ※1)は子玉、石斎は号です。尾張名古屋潘の撃剣師範でしたが、江戸にでて書家として名をあげました。

※1 字:文人・学者などが、本名以外につける名前です。
 

交通・アクセス

○JR飯田線「飯田」駅 徒歩17分

○信南交通 市内循環線「県合同庁舎前」 徒歩4分

書籍案内 

「安積艮斎撰文「観耕亭記」解題並びに訳注」 安藤智重 2012 『飯田市美術博物館 研究紀要』第22号

『信州飯田領主 堀侯 -日本を動かした郷土の外様大名-』 飯田市美術博物館 2010

飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます。


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