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飯田城桜丸御門(通称赤門)

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年12月22日更新

飯田城桜丸御門(通称赤門)(いいだじょうさくらのまるごもん つうしょうあかもん) 1棟

区 分:飯田市有形文化財(昭和60年11月20日 市指定)

所在地:飯田市追手町2丁目678

所有者:長野県

時 代:宝暦4年(1754)

構 造:三間一戸(さんげんいっこ ※1)、入母屋造(いりもやづくり ※2)、桟瓦葺(さんがわらぶき ※3)、弁柄塗(べんがらぬり ※4)

規 模:桁行(けたゆき ※5)4間(けん ※6)(7.3m) 梁間(はりま ※5)3間(4.28m)

※1 三間一戸:門の規模を表すもので、間口が三間で中央間を戸口としたものをいいます。

※2 入母屋造:切妻造の妻側(三角形の部分)の下部に屋根を足した構造をいいます。妻側は、上部は三角形の壁となっており、下部は台形の屋根となります。

※3 桟瓦:「~」形をした一般的な波形の瓦のことです。

※4 弁柄:酸化第二鉄を主要な発色成分とする赤色顔料の一つです。

※5 桁行・梁間:本を伏せたような三角形の屋根の場合、本の背表紙にあたる平らな方向(棟)が桁行、三角形にみえる方向が梁間です。

※6 間:建物の柱と柱の間のことをいい、建物の規模をいう時に用いられます。1間は約1.82mが現在一般的ですが、建物や場所によっても異なります。

外観

概 要

飯田城の桜丸の正門で、弁柄で赤く塗られていることから、赤門と呼ばれています。

きりつま

屋根は入母屋造で、妻飾(つまかざり ※7)には木連格子(きづれごうし ※8)とかぶら懸魚(かぶらげぎょ ※9)を用いています。屋根の鬼瓦に刻まれる梅の文様「向梅(むこううめ)」は藩主堀家の家紋です。

※7 妻飾:切妻部分の装飾をいいます。

※8 木連格子:細い木を碁盤の目状に組んだもの(格子)で、切妻にあるものを木連格子・狐格子といいます。

※9 かぶら懸魚:懸魚とは切妻の三角形の部分にある装飾された板をいい、かぶら懸魚は蕪(かぶ)のような形をしたものをいいます。

くぐりど

間口(まぐち ※10)中央に2枚の開板戸がつき、左に小さいくぐり板戸がついています。

側面は、右側は横板を張り、左側は吹き通しとなっており、ともに上部は漆喰(しっくい ※11)塗となって、赤と白のコントラストが際立っています。

※10 間口:建物の正面やその幅をいいます。

※11 漆喰:消石灰を主成分とした白い建材です。

ばんしょ

番所(ばんしょ ※12)は脇の内部に設けられるのが一般的ですが、この門では門を番所を別屋根で造っていることが特徴で、番所が門の脇に突きだして付属する形は、県内で例がありません。

また、梁(はり ※13)を門の前後に持ち出して、腰壁(こしかべ ※14)を築いて屋根を載せるというのも独特の形式です。

江戸時代、飯田藩主堀家9代親長の時代に再建された建物で、宝暦3年(1753)8月に工事が始まり、宝暦4年(1754)に完成しました。それまであった門は、家老安富(やすとみ)家に移築され、後に経蔵寺(飯田市上郷別府)に移築されています。

明治以降、飯田県、筑摩県飯田支所、下伊那郡役所、下伊那地方事務所の正門として使われていましたが、昭和46年の長野県飯田合同庁舎の建設とともに、通用門としての役割を終えました。

※12 番所:警備の者がいる施設です。

※13 梁:建物の短軸方向(梁間)に架けられ、屋根や床などの重さを柱に伝える横木をいいます。

※14 腰壁:壁の低い部分、主に壁の仕上げが上と下で異なる場合にいいますが、ここでは上部構造の壁そのものが低いため壁すべてを指しています。

ここに注目!

飯田城で唯一、当初位置に残る建物

飯田城に関連する建築は、二の丸の御門(旧飯田城の八間門)、桜丸の御門(経蔵寺山門)、桜丸西門(雲彩寺山門)、馬場調練場の門(脇坂門)がありますが、いずれも文化財に指定されています。その中でも、建築当時と同じ位置にあるのは赤門だけです。

長野県内でも当初位置に残る城門は4棟だけ

他に小諸城の大手門、三の門(ともに国重要文化財)、上田城の藩主居館表門(上田市指定文化財)があります。

全国でも数少ない赤門

赤門は、大名に嫁いだ将軍徳川家の娘の敬称である「御守殿(ごしゅでん)」のために許された特別な門で、火事などで焼失しても建て替えが許されていません。そのため、全国でもほとんど残っていません。

諸説ありますが、飯田城の赤門は9代藩主堀親長が、将軍徳川綱吉のご側用人柳沢家から室を迎える際に許されたといわれています。一般の大名の位は五位でしたが、柳沢家は四位と高い位でした。他に、堀親寚(ちかしげ)が、将軍の御側用人を務めており、従四位下(じゅうしいげ)という高い位であったからという説もあります。

寺社の赤塗りの門は除き、城門に限れば本件の他には、東大の赤門(旧加賀藩主前田家上屋敷御守殿門)、和歌山城追廻門や名古屋城の三の丸清水口の赤門(泰岳寺に移築)などが知られています。

見 学

見学は自由ですが、下伊那地方事務所及び飯田市中央図書館の利用者へご配慮をお願いします。

現在門は閉じられていますが、毎年春に開門式が行われており、桜の花びらの中、追手町小学校の新入生が門をくぐります。

飯田城の歴史

飯田城は、室町時代に当地の豪族坂西(ばんざい)氏が築城したのが始まりといわれ、武田氏や徳川氏、豊臣氏ら戦国大名によって、伊那谷支配の拠点として整備されました。特に、現在の飯田城の形を造ったのは、豊臣家臣の毛利秀頼・京極高知らによる整備といわれています。

くわしくは、飯田城の歴史をご覧ください。

桜 丸

桜丸は、脇坂安元(※15)が、安政を養子に迎えるために御殿を建てた場所です。桜丸御門を正面の入口として、白塀と水堀で区画されており、安元が多くの桜を植えたことからこの名がつけられたといわれています。堀氏の時代には、若殿や隠居(いんきょ)の御殿として使われ、安政2年(1855)の大地震で本丸御殿が壊れた後は、藩主が政治を行った飯田城の中心部でした。

※15 脇坂安元(わきさかやすもと):文武に優れた名君として名高く、元和3年(1617)に伊予国(いよのくに 愛媛県)から飯田へ移り城主となりました。70歳で没し、長久寺(飯田市諏訪町)に葬られました。

交通・アクセス

○桜丸は現在の長野県飯田合同庁舎(下伊那地方事務所)の位置です。

○JR飯田線「飯田」駅 徒歩15分

○信南交通 市内循環線「県合同庁舎前」 徒歩2分

 書籍等案内 ~もっと知りたい方へ~

『飯田市指定有形文化財 飯田合同庁舎赤門修理工事報告書』 長野県下伊那地方事務所 2011

『飯田城ガイドブック -飯田城と城下町を探ろう-』 飯田市美術博物館 2005

飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます