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旧飯田城の八間門

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年12月22日更新

旧飯田城の八間門(きゅういいだじょうのはっけんもん) 1棟

区 分:飯田市有形文化財(平成10年11月27日 市指定) 

     重要美術品(昭和24年5月28日 国認定 ※1

所在地:飯田市松尾久井2595-1

所有者:個人

時 代:桃山時代(文禄年間)

構 造:三間一戸(さんげんいっこ ※2)、櫓門(やぐらもん ※3)、2階建て、切妻造(きりつまづくり ※4)、桟瓦葺(さんがわらぶき ※5)、長屋付属

規 模:門 桁行(けたゆき ※6)7.58m(※7)梁間(はりま ※6)3.31m

     二階 桁行5間(8.54m)、梁間2間(4.59m)

※1 重要美術品:日本の美術品が海外へ流出することを防ぐ目的で昭和8年に制定された「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」によって「門(旧飯田城八間門)」が認定されています。昭和25年、現在の文化財保護法が施行されましたが、重要美術品の認定は効力をもっています。

※2 三間一戸:門の規模を表すもので、間口が三間で中央間を戸口としたものをいいます。間(けん)とは建物の柱と柱のあいだのことをいい、建物の規模をいう時に用いられます。1間は約1.82mが現在一般的ですが、建物や場所によっても異なります。

※3 櫓門:門の上に櫓(防御や物見のための建物)を設けた、大変防御力の高い城門です。

※4 切妻造:本を伏せたような三角形の屋根を切妻といいます。

※5 桟瓦:「~」形をした一般的な波形の瓦のことです。

※6 本を伏せたような三角形の屋根(切妻)の場合、背表紙にあたる屋根の平な尾根(棟)と同じ方向が桁行、三角形にみえる方向が梁間です。

※7 建物の規模は通常柱の芯と芯の間の距離で表しますが、1階の門のを両脇の長屋と長屋の間で測ると9.08mです。

外観

概 要

飯田城の二ノ丸(にのまる ※8)の御門(正門)の櫓門でしたが、明治4年(1871)に飯田藩が廃藩となると払い下げられて、松尾の羽根庄(はねしょう 木下家)へ運ばれました。

門の左右に長屋が4間づつ(※9)つけられていますが、飯田城にあった頃には両脇に石垣があり、桝形(ますがた ※10)を形成していました。明治に木下家へ移築するにあたり、石垣に代わり長屋が移され、その際に門の間口(まぐち ※11)を少し詰めたといいます。長屋も城内にあったいずれかの建物といわれています。長屋が八間門の名前の由来といわれることもありますが、17世紀前半の絵図にも八間門と記載されており、古くからそのように呼ばれていたようです。

1階の部分は文禄年間(1592~1596)、2階の部分は江戸時代前期の建築と推定されています。2階は明治20年頃、隣にできた小学校の職員室に使われたことがあります(※12)

飯田城の数少ない建築遺構で、安土桃山時代(※14)の作風をよく伝えています。

※8 二ノ丸:現在、飯田市美術博物館が建つあたりで、江戸時代の初めには重臣の屋敷や、米蔵、櫓がありました。

※9 戦後に付け足されて現在の姿になりました。文化財指定は移築当初の長屋(左右4間づつ)までです。

※10 桝形虎口:虎口は城の出入り口のことで、城門があり防御の要となる場所です。桝のように、四角い空間を設けて、前後左右を城門や石垣などで取り囲んだ虎口を桝形虎口といい、略して桝形ともいいます。

※11 間口:土地や建物の正面の幅をいい、ここでは桁行を指します。

※12 竿縁天井(さおぶちてんじょう ※13)が設置された痕跡が残ります。

※13 竿縁天井:竿と呼ばれる細長い部材を数10cm間隔で並べ、天井板を支える天井をいいます。

※14 安土桃山時代:織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代のことで、二人の頭文字をとって織豊時代ともいいますが、始まりと終わりについては諸説あります。文化・芸術の面からは、豊臣秀頼が滅ぶ慶長20年(1615)までをいいます。

1階部分

正面

礎石から2階床面までは4.36mを測り、鏡柱(かがみはしら ※15)は、33.5cm×53.0cm、冠木(かぶき ※16)も44.0cm×53.0cmと大変太く立派なものです。

向かって右側にくぐり戸があります。

※15 鏡柱:門扉を支える中央の二本の太い本柱をいいます。

※16 冠木:門や鳥居などで、左右の柱の上を貫く横木です。

とびら

門扉の腰上が太い格子(こうし)となっているのが特徴で、戦国時代末期の特徴を残したものです。和歌山城岡口門や、熊本城不明門などがありますが、全国的にも少ないものです。肘壺金具(ひじつぼかなぐ)と呼ばれる蝶番(ちょうつがい)の金具で本柱へ取り付けています。

うら

2階部分

いしおとし

二階は扉より前面に張り出していて、石落とし(※17)を設けています。

壁は真壁(しんかべ ※18)の漆喰(しっくい ※19)塗りで、東西に板戸があります。

※17 石落とし:下方に開口し、真下の敵を攻撃するための開口部です。文字通り石を落すほか、鉄砲や弓矢、熱湯などを用いたとされます。

※18 真壁:柱を露出する壁をいいます。柱が見えない構造を大壁(おおかべ)といいます。

※19 漆喰:瓦留めや壁の上塗りに用いられる消石灰を主成分とした白い建材で、白漆喰ともいいます。

もん

屋根は、江戸時代前半の絵図に入母屋造(いりもやづくり ※20)に描いてありますが、現在は切妻造で、隅木(すみぎ ※21)の痕跡を確認できないことから、当初から切妻造で懸魚(げぎょ ※22)をつけた形式であったと考えられます。

初期の城門には、門扉と同じく、和歌山城岡口門、熊本城不明門などにも切妻の例があります。

大棟(おおむね ※23)は雁振瓦(がんぶりがわら ※24)の下に熨斗瓦(のしがわら ※25)を4段積んでいます。獅子口(ししぐち ※26)には、鰭付鬼板(ひれつきおにいた ※27)の上に鳥衾(とりぶすま ※28)を置きます。降棟(くだりむね ※29)は丸瓦(まるがわら ※30)で、軒先は巴瓦(ともえがわら ※31)です。

破風(はふ ※32)は直破風(すぐはふ ※33)で、けらば瓦(※34)とし、南側にのみ雁股懸魚(かりまたげぎょ ※35)がついています。

※20 入母屋造:本を伏せたような三角形の屋根(切妻 きりづま)の妻側(三角形の部分)の下部に屋根を足した構造をいいます。妻側は、上部は三角形の壁となっており、下部は台形の屋根となります。

※21 隅木:入母屋造など、屋根が45度に交わるときに、つなぎとなる部材です。

※22 懸魚:切妻の部分にある装飾された板をいいます。

※23 大棟:屋根の面と面が合わさる部分、主に一番高い水平の部分を棟といい、一番高い部分を特別に大棟といいます。

※24 雁振瓦:棟の上に被せる、箱形や半円筒形の瓦です。

※25 熨斗瓦:雁振瓦の下に置く、円みをおびた瓦です。

※26 獅子口:屋根の棟の端をいい、鬼瓦が置かれる部分です。

※27 鬼板:鬼瓦のことです。

※28 鳥衾:棟の隅、鬼瓦の上などにおく、長く反って突き出た丸瓦(※29)で、雀瓦(すずめがわら)ともいいます。

※29 降棟:大棟(※22)から直角方向へ降りる棟をいいます。

※30 丸瓦:半円筒形の瓦です。

※31 巴瓦:カンマ記号(,)の形をした日本の伝統的な模様を巴といい、巴紋が施された瓦をいいます。

※32 破風:切妻側の三角形の部分やその意匠をいい、ここでは切妻に付ける幅広の斜め板材のことをいいます。

※33 直破風:反りのない、真直ぐな切妻の板材をいいます。

※34 けらば瓦:切妻側の屋根の端(けらば)に用いられる、端が折られている瓦をいい、袖瓦(そでがわら)ともいいます。

※35 雁股懸魚:雁(ガン)の群れがV字になって飛ぶ様から、下部が二又になっている懸魚を雁股懸魚といいます。

長屋部分

長屋は、向って左側が桁行4間、梁間3間、右側は桁行8間、梁間3間ですが、右側も戦前は桁行4間でした。桁行の柱間は、京間(きょうま ※36)の1間(6尺5寸・1970mm)で、梁間は江戸間(えどま ※36)の1間(6尺・1820mm)となっており、初期の飯田城には関西の寸法体系が用いられていた可能性があります。

天井には竿縁天井(※13)の痕跡があり、正面側は障子の窓であったとみられますが、転用された部材も用いられているようです。

長屋は城門よりも時代がやや下るとみられますが、飯田城内の建築を考える上で参考となる情報を含んでいます。

※36 京間・江戸間:京都を中心とした関西地方では1間を6尺5寸(1.97m)、江戸を中心とした関東地方では1間を6尺(1.82m)としており、安土桃山時代に京間が、江戸時代に江戸間が普及しました。

飯田城の数少ない建築遺構

飯田城は明治維新の後に徹底的に破壊されてしまったため、残されている遺構は多くありません。

二の丸の御門(旧飯田城の八間門)、桜丸の御門(赤門経蔵寺山門)、桜丸西門(雲彩寺山門)、馬場調練場の門(脇坂門)が残されているだけで、いずれも文化財に指定されています。

飯田城の歴史

飯田城は、室町時代に当地の豪族坂西(ばんざい)氏が築城したのが始まりといわれ、武田氏や徳川氏、豊臣氏ら戦国大名によって、伊那谷支配の拠点として整備されました。特に、現在の飯田城の形を造ったのは、豊臣家臣の毛利秀頼・京極高知らによる整備といわれています。

くわしくは、飯田城の歴史をご覧ください

見 学

所有者へ声をかけて下さい。駐車等は所有者や周辺の方へご配慮をお願いします。

交通・アクセス

○JR飯田線「伊那八幡」駅 徒歩6分

○信南交通 市民バス久堅線「松田屋前」 徒歩4分

 書籍等案内 ~もっと知りたい方へ~

『飯田城ガイドブック -飯田城と城下町を探ろう-』 飯田市美術博物館 2005

飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます