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旧飯田藩馬場調練場の門(通称脇坂門)

ページID:0045782 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月18日更新

旧飯田藩馬場調練場の門(通称脇坂門)(きゅういいだはんばばちょうれんじょうのもん・つうしょうわきざかもん) 1棟

区 分:飯田市有形文化財(平成22年11月22日 市指定)

所在地:飯田市馬場町3丁目411-1

所有者:飯田市

時 代:江戸時代 寛政期(1789~1800)頃

構 造:切妻造(きりつまづくり ※1)、平入り(ひらいり ※2)、鉄板葺(元 こけら葺※3)

規 模:正面(桁行 ※4)3間(けん ※5)(5.35m)、奥行(梁間 ※4)3間(5.51m)

  • ※1 切妻造:本を伏せたような三角形の屋根を切妻といいます。
  • ※2 平入り:桁行(けたゆき ※4)に出入口がある建物をいいます。
  • ※3 こけら葺:2~3mmの薄い木の板を重ねた屋根です。水に強いサワラ・ヒノキなどが用いられています。
  • ※4 桁行・梁間:本を伏せたような三角形の屋根(切妻)の場合、背表紙にあたる屋根の平な尾根(棟)と同じ方向が桁行、三角形にみえる方向が梁間です。
  • ※5 間:建物の柱と柱のあいだのことをいい、建物の規模をいう時に用いられます。1間は約1.82mが現在一般的ですが、建物や場所によっても異なります。
外観

概 要

飯田城主が脇坂氏の時代(1617~1672)に、家老の脇坂玄蕃(わきざかげんば)の屋敷が近くにあったことから、いつの頃か「脇坂門」 と呼ばれるようになったといわれています。

もとは飯田市美術博物館の正面(追手町)にありました。もともと追手町にあり、城米蔵(宝蔵)入口であったとする説もありますが、「明治2年2月、調練所修理の折、旧御城内二ノ丸地籍の下屋敷門として移築した」との記録(※6)が確実性が高いようです。

平成26年3月に本来の位置に近い、現在の場所へ移築されました。

  • ※6 雑誌『伊那』1969年10月号
かしらぬき

門部分は、中央1間半を内開きの二枚扉、残りの1間半を左右に均等に分け、向って右側(写真は裏からですので左側)に潜門(くぐりもん ※7)を設けています。

上部構造は他の建物の部材が転用されていたり、部材が切り縮められているために、往時は長屋門(ながやもん ※8)や赤門と同じく入母屋造(いりもやづくり ※9)であった可能性がありますが、はっきりしません。

建築年代もはっきりしませんが、部材の風食の状況などから、寛政年間頃と推察されます。

  • ※7 潜門:正門に対して脇や裏の出入口などとして設けられる、もぐって出入りするような小さな門をいいます。
  • ※8 長屋門:門の両脇に長屋をつけたもので、長屋は家来や使用人の居住、物置に使われました。
  • ※9 入母屋造:本を伏せたような三角形の屋根(切妻 きりづま)の妻側(三角形の部分)の下部に屋根を足した構造をいいます。妻側は、上部は三角形の壁となっており、下部は台形の屋根となります。
きりつま

飯田城の数少ない建築遺構

飯田城は明治維新の後に徹底的に破壊されてしまったため、残されている遺構は多くありません。

二の丸の御門(旧飯田城の八間門)、桜丸の御門(赤門経蔵寺山門)、桜丸西門(雲彩寺山門)、馬場調練場の門(脇坂門)が残されているだけで、いずれも文化財に指定されています。

飯田城の歴史

飯田城は、室町時代に当地の豪族坂西(ばんざい)氏が築城したのが始まりといわれ、武田氏や徳川氏、豊臣氏ら戦国大名によって、伊那谷支配の拠点として整備されました。特に、現在の飯田城の形を造ったのは、豊臣家臣の毛利秀頼・京極高知らによる整備といわれています。

くわしくは、飯田城の歴史をご覧ください

見 学

○駐車場あり。周辺は道路が狭い城下町ですので、ご注意ください。

交通・アクセス

○JR飯田線「飯田」・「桜町」駅 徒歩16分

○信南交通 市内循環線「さんとぴあ飯田」徒歩5分 「江戸町」徒歩7分

 書籍等案内 ~もっと知りたい方へ~

『飯田城ガイドブック -飯田城と城下町を探ろう-』 飯田市美術博物館 2005

『伊那』1969年10月号

『飯田市歴史研究所年報』4号 飯田市歴史研究所 2006

飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます


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