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知久平城跡

ページID:0095605 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月16日更新

知久平城跡(ちくだいらじょうあと) 1区域

区 分:飯田市史跡(平成8年10月29日 市指定)

所在地:飯田市下久堅知久平714-2 他

所有者:個人

時 代:鎌倉時代~戦国時代末期(13世紀~天正15年〈1587〉)

概 要:

中世の飯田下伊那を代表する豪族 知久氏が神ノ峯に移る前の居城といわれています。現在確認できる城の遺構は、戦国時代末期の天正11年(1583)以降の徳川家康家臣菅沼定利による整備が反映されています。特に天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの際に、下伊那における徳川方の軍事拠点として整備されたと考えられます。菅沼定利は天正14年(1586)末から翌年始めにかけて飯田城へ拠点を移しており、これによりわずか数年で廃城になりました。

知久平城は旧族の居城というだけでなく、小牧・長久手の戦いという日本国の歴史上の重大事件に関連する遺跡で、短期間とはいえ下伊那の軍事拠点となった城であり、歴史的価値の高い遺跡といえます。天正10年代前半の徳川家臣の縄張り(※1)が反映されている点も重要です。

現在は堀の痕跡などをとどめており、城域の一部が飯田市史跡に指定されています。

  • ※1 縄張り:城全体の設計や構造のことで、堀や郭(くるわ)などの配置・大きさ・形状などに築城者の考えが反映されています。

解 説:

遺構

段丘の突端に築かれた平山城(丘城 ※2)です。現状は堀の多くが埋没していますが、昭和14年に郷土史家市村咸人(※3)氏により詳細が作図と共に報告されています。

知久平城 『史蹟名勝天然記念物調査報告書』 第二十輯より

それによれば、段丘の突端に本丸(主郭 ※4)を置き、台地続きの南・東側に堀と郭を重ねており、東側で台地を横断する外堀を設けて城域を区画しています。

注目すべきは半月形をした二の丸(南)で、戦国大名武田氏や徳川氏が関与した城郭に多くみられる“丸馬出”(まるうまだし)と呼ばれる遺構と形状が類似しています(※5)。またこの堀は段丘崖に沿った横堀となって主郭の西側の備えとなり、麓まで続いています。

出丸(後述)を除いた主要部分は、南北約470m、東西約150m、面積約80,000平方mを測り、三の丸を除いた近世以前の飯田城の城域約57,000平方mをはるかに凌ぐ広大な規模の城跡です。

市村氏の報告を基に主な施設の概要を紹介します。なお遺構の規模は現地での実測値ではなく、地形図上での計測値と市村氏の報告した数値を掲載しています。

  • ※2 丘城:城の立地の分類のうち、低い山や上が平らな山に築かれた城を平山城(ひらやまじろ)といい、平山城の中でも段丘上に築かれた城を丘城(きゅうじょう・おかじろ)と呼ぶことがあります。
  • ※3 市村咸人:飯田市出身の郷土史家・教育者で、歴史・考古・建築・仏教美術等多くの分野で高い水準の研究を行うと同時に、多くの写真や図面等を残しており、貴重な資料になっています。明治11年(1878)生、昭和38年(1963年)没。参考:いいだの人(飯田市立図書館)(外部リンク)
  • ※4 主郭:城で堀や塀などで囲まれた空間を郭(曲輪)といいます。その城の中心となる郭を主郭(しゅかく)といい、江戸時代に本丸と呼ばれる部分の場所のことです。当時の呼称は不明ですので、ここでは郭等の名称に市村氏報告の名称を用いています。
  • ※5 下伊那では、松川町の大島城(台城)に三日月堀と丸馬出が良く残されており、武田氏を代表する城として全国的に有名です。飯田城にも弧状の“欅堀”(けやきぼり)に囲まれた“出丸”と呼ばれる遺構があります。両城とも武田氏が下伊那支配の拠点とし、その後に徳川氏の関与が考えられる城です。一方、大島城・飯田城とも弧状の堀は城郭の外郭部分に築かれていますが、知久平城跡では中心部に近い位置に配置されている点で異なります。
本丸

段丘の北端に位置し、L字形の堀によって区画された南北約110m、東西80mの郭です。古くは郭の縁を土塁(※6)が囲っていたとのことで所々に痕跡を留めていますが、幅広で分厚い土塁です。郭の南隅には“櫓台址”(※7)と推測される約23×18m、高さ3mの土台がありました。これはちょうど、二の丸の虎口(こぐち:出入口)の真横にあたる位置です。

ほり 南側の堀跡

どるい 北東側の土塁の痕跡

やぐらだい 南隅にある櫓台址

なお、江戸時代寛政年間の絵図(※8 下図)には、郭を四周する土塁、二の丸(南)と繋がる土橋と左に折れる内桝形(※9)、二の丸(東)と接続する土橋と平虎口(※9)、その北側に櫓台が画かれています。

絵図 出典:『初公開 長野県の城絵図展』展示資料報告書(「しろはく 古地図と城の博物館 富原文庫」所蔵)。転載等を禁止します。

  • ※6 土塁:土を盛って造られた堤防状の防御施設です。
  • ※7 櫓台:矢や鉄砲などを射かける高い建物を櫓(矢倉)といい、その土台となる高まりをいいます。
  • ※8 伊豆木小笠原家の家臣、加藤正治が寛政7~11年(1795~99)にかけて、伊那郡各地の城跡を現地調査し、絵図を残しています。江戸時代の絵図の多くは写しが多い中、現地調査し、年代・作者が明らかで、信頼性の高い資料です。「しろはく 古地図と城の博物館 富原文庫」所蔵、引用文献参照。
  • ※9 内桝形:城の出入口を虎口(こぐち)といい、多くは土塁や堀の切れ目となっています。正面を向いただけの虎口を平虎口(ひらこぐち)といい、土塁などで四角く虎口を囲い込み、簡単に突破されないよう土塁などで虎口を四角く囲った虎口を桝形(ますがた)虎口といいます。桝形が郭の内側にあれば内桝形、外側にあれば外桝形と呼ばれます。
二の丸(南)

三日月形の堀に囲まれた東西約60m、南北約40mの郭で、堀は東端で切れて虎口となっています。

丸馬出 右側窪地が本丸側の堀、左側の標柱上の窪地が弧状の堀

三日月堀 弧状の堀

二の丸(東)

本丸・南の二の丸の東側にあり、L字形の堀に囲まれた南北約130m、東西約70m長方形の郭です。半月形の郭の隣で堀が切れて土橋となっています。実質的には第3の郭です。

二の丸 郭内の様子

堀 鉤状の堀

三の丸

半月形の二の丸の南側に位置し、L字形の堀によって区切られた南北約60m、東西約70mの郭です。堀の内側には土塁が築かれていました。

どるい 三の丸南側の堀(手前の水田)と土塁(果樹園)

惣曲輪(そうぐるわ)

二の丸・三の丸の外側にも堀と郭があります。昭和10年代にはすでに多くの堀が埋め立てられていましたが、当時の聞き取りと痕跡から堀が復元されています。一方、寛政年間の絵図(※8)では、三の丸も含め、惣曲輪は描かれていません。

たに 南側段丘崖にある堀状の巨大な谷地形

出 丸

本丸からさらに北側、段丘から岬状に伸びた一段低い地形で、10数mの円形の平場があります。古城(ふるじょう)の地名が残ります。

出丸 下段の三石より 右側の社叢が出丸、左手の擁壁が本丸

地名等

関連する地名では“馬出”(うまだし:城の防御施設の古い呼称)、“大膳町”(菅沼定利の官途〈かんと ※10〉名は“小大膳亮”〈こだいぜんのすけ〉)、“寿永畑”(朝日寿永〈あさひじゅえい:菅沼定利家臣〉)、“古城”が残っています。地名からも知久氏の築城と菅沼定利の支配を伺いしることができます。

一方、一段低い上三石には“殿様の井戸”と呼ばれる井戸が残されています。

井戸 殿様の井戸

  • ※10 官途:公の役職と位を表すもので、元々は朝廷から任官されるものでしたが、戦国時代は武家が勝手に名乗ったり、家臣に与えたりすることもありました。武将は本名ではなく、官途名、あるいは苗字+官途名などで呼ばれます。

立地

知久平城は天竜川左岸の段丘上に築かれています。現在の天竜川との比高差は60m近くになりますが、間に小規模な段丘があって段丘崖の傾斜はそれほど厳しくはありません。

今日のような鉄橋がなかった時代、天竜川は舟等によって渡っており、知久平城の麓にはその渡場(※11)がありました。飯田と遠州(静岡県西部)を繋ぐ江戸時代の秋葉街道は、この渡場で天竜川を越えて知久平城内を通り、小川路峠(※12)で遠山谷と繋がっていました。知久平の地は、秋葉街道や天竜川の通船と深い関連がある場所ともいえます。

秋葉街道 二の丸を切り通して通過する秋葉街道旧道

  • ※11 渡場:川を渡る場所で、渡し舟の発着場です。
  • ※12 小川路峠:飯田と遠山谷を隔てる伊那山脈にある標高約1670mの峠です。秋葉街道は現在国道256号ですが、小川路峠の前後は車道ではなく登山道になりますので、車両の通行はできません。

歴史

詳しい年代は不明なものの、知久氏が下伊那に移り住んだのは鎌倉時代です。当初から神ノ峰に在城したとする年代記もありますが、信頼できる古文書には、神ノ峰の周辺とは別に知久本郷という地名が記録されています。このことから、古くは神ノ峰以外に本拠地があり、それは知久氏の領域の中央にあたり知久の名を冠した知久平の地と考えられています。

当初の知久氏居館は知久平城の本丸の場所とも、一段低いお殿様の井戸がある一帯ともいわれますが定かでありません。知久氏が神ノ峰に移った時期は、戦争が頻発した15世紀後半以降と考えられ、少なくとも天文2年(1533)には神ノ峰に移っていることが当時の日記から確実です。一方、神ノ峰に移った後も知久氏の拠点の一つとして何らかの施設は残されたと考えられ、伝承によれば知久頼元(よりもと)の弟善右衛門の城であったとされます。

天文23年(1554)、武田晴信(信玄)が下伊那に侵攻し、「文永寺そのほか知久郷ことごとく放火」されました。武田氏支配の末期にあたる天正9年(1581)には、下条氏(※13)が知久平に代官平澤氏を派遣していることから、武田氏時代にも下条氏によって整備されたことも考えられます。

天正10年(1582)、徳川家康と北条氏直は武田氏旧領を巡り争い(天正壬午の乱 ※14)、下伊那も戦場になりました。この年に再興して徳川方に属した知久氏ですが、配下の豪族が謀反を起こすなど統治は不安定で、高い緊張下に置かれた年でした。このような情勢から知久平城も強化されたかもしれません。菅沼氏以前の知久平城の来歴は不明な点が多くあります。

同年11月に天正壬午の乱は収束しますが、情勢は依然不安定であり、翌年或いは翌々年に徳川家康の家臣が下伊那の軍事支配のために派遣され、知久平に入城します。天正12年(1584)、羽柴(豊臣)秀吉と徳川家康が対立した小牧・長久手の戦いでは、秀吉に味方した木曽義昌を討つため、菅沼定利らは妻籠城(木曽郡南木曽町)を攻めます。この時に木曽へ出陣を命じられなかった衆が城普請を命じられており、「其の地」が知久平城と考えられています。

やがて菅沼定利が飯田城へ移ったため知久平城は廃城になり、その時期は天正14年(1586)末から翌年初めにかけてといわれています。いずれにしても、鎌倉時代以来およそ300年間の長い歴史のある城跡です。

諏訪社 城内の諏訪神社 天正14年(1586)に菅沼定利から領地を寄付されている。

  • ※13 下条氏:現在の下伊那郡下條村を本拠地とし、室町時代に下伊那南部(阿智村伊南)を治めた一族です。武田氏が伊那谷を支配するとその有力な家臣となり、武田氏滅亡後は徳川家臣となり下伊那の大半を支配しましたが、天正14年(1586)頃に失脚します。
  • ※14 天正壬午の乱:天正10年(1582)に甲斐・信濃を中心に起こった大規模な抗争をいいます。武田氏及び織田信長父子の滅亡により領主不在となった武田氏旧領には、周辺から徳川家康・北条氏直・上杉景勝が乱入し、在地勢力を巻き込みながら5ヶ月にわたり対陣しました。11月に和解し、甲斐・信濃は徳川家康の領土となりました。
知久氏

知久氏は、中世に下伊那の竜東(天竜川左岸)一帯を支配した豪族です。知久沢(上伊那郡箕輪町)の出身で、諏訪氏の一族といわれています。鎌倉時代には下伊那へ移っており、その時期は承久の乱(1221年)以後といわれています。弘安6年(1283)、知久敦幸が文永寺(飯田市下久堅南原)に五輪塔(重要文化財)を造らせています。

南北朝時代から室町時代の伊那谷や信濃国の動向にも知久氏は関与しており、戦国時代には竜東一帯に加え、現在の上郷・座光寺地区の一部まで支配地を拡大しています。また、文永寺や開善寺(飯田市上川路)、都の大寺に高僧を輩出した名族でもあります。

戦国時代は神ノ峯に居城を移しましたが、天文23年(1554)に武田晴信(信玄)に攻められ、城主知久頼元(よりもと)らは処刑されて一族は没落しました。知久氏残党は京へ逃げ延び、或いは“知久衆”として武田に従い、再興の機会を待つことになります。

天正10年(1582)、武田氏が滅ぶと知久頼氏(よりうじ)が徳川家康に仕え、知久氏は復興します。しかし、天正12年(1584)に頼氏が浜松で謎の自害をします。知久氏は再び没落しますが、頼氏の子、則直(のりなお)が関ヶ原の戦い(慶長5年〈1600〉)に徳川方として参戦し、旗本(※15)として知久氏を再興して、阿島(下伊那郡喬木村)に陣屋(※16)を構えました。

  • ※15 旗本:江戸時代、将軍直属の家臣のうち、石高(こくだか:土地の生産性を米の生産量に換算し、石という単位で表したもの)が1万石未満で、将軍と同じ儀式に参列できる身分(御目見:おめみえ)をいいます。
  • ※16 陣屋:江戸時代、城を持たない大名や旗本の館や役所をいいます。
菅沼定利(すがぬまさだとし)

愛知県設楽郡出身の徳川家康家臣です。設楽郡には山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれる有力な土着の三大勢力があり、菅沼定利はその一つ、田峯(だみね)菅沼氏の出身です。戦国時代後半の設楽郡は武田領と徳川領の境目になったため、山家三方衆はいずれに属するかで混乱しました(※17)。田峯菅沼氏当主 菅沼刑部丞(ぎょうぶのじょう 貞吉か)が武田氏に属したのに対し、定利は一貫して徳川氏に属しました。天正10年(1582)の武田氏滅亡により刑部丞が殺害されると、定利が菅沼氏を継ぎました。定利は混乱する伊那郡の軍事支配のため、翌年、或いは翌々年に伊那郡へ派遣され、知久平に城を構築しました。

天正14年(1586)から翌年にかけて、下条氏の失態を咎めて処分し、飯田城へ移り下伊那を支配しました。天正18年(1590)、徳川家康の関東移封(いほう:国替え)に伴い上州吉井藩(群馬県高崎市)へ移り、初代藩主となりました。慶長7年(1602)死去、官途は小大膳亮。

  • ※17 近年の研究成果として、単なる領土争いではなく、鉄砲の玉となる鉛など設楽郡で産出する鉱物資源を巡る戦国大名間の争いが指摘されています(『歴史探偵「長篠の戦い」』 NHK総合 2021年5月19日放送)。

知久平城にまつわる伝説 (下久堅村誌より要約)

知久平用水

菅沼定利が知久平城を築いたとき、北側を流れる塩沢川から水を引いて堀の用水に使おうとしました。そして、塩沢川の水量を多くするために、玉川の支流の小川を切り開き、大虎岩から塩沢川に水をお年入れたということです。

菅沼定利の築城

菅沼定利は、今の小学校北側に“三味線堀”・“三か月堀”などを掘り、町は初めに南町、次に東町ができました。知久沢屋市兵衛、知久沢屋七右衛門が町人頭で、侍の屋敷は39軒、百姓の屋敷は18軒でした。自治振興センターの横の辺りが馬場であったといいます。

飯田城への引っ越し

虎岩の洞(虎岩集落センター周辺)に上がってみると、知久平城は手に取るように見通せます。これではダメだということで、飯田城へ移ったそうです。この時に飯田城下へ移った町人によりできたのが“知久町”といわれています。

見学・アクセス:

城跡の大半は私有地・学校敷地ですので、無断での立入り・通行の妨げになる駐車等はご遠慮ください。

  • 中央自動車道 飯田ICより車で15分、三遠南信自動車 飯田上久堅・喬木富田ICより車で8分
  • JR駄科駅より徒歩20分

関連文化財等:

引用・参考文献:

  • 「知久平城阯」市村咸人 1935 『史蹟名勝天然記念物調査報告書』第二十輯
  • 『初公開 長野県の城絵図展』展示資料報告書 しろはく古地図と城の博物館富原文庫代表富原道晴 2012 
  • 「知久平城」平澤清人 1965 『伊那』1965.12月号 伊那史学会
  • 『戦国・織豊期徳川大名の領国支配』 柴裕之 2014
  • 『飯田・上飯田の歴史 上』 飯田市教育委員会 2012
  • 『天正壬午の乱』 平山優 2011
  • 『下久堅村誌』 下久堅村誌刊行会 1973

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