飯田藩主堀家の墓所
飯田藩主堀家の墓所(いいだはんしゅほりけのぼしょ) 1区域
区 分:飯田市史跡(昭和46年3月15日 飯田市指定)
所在地:飯田市諏訪町4166-9
所有者:長久寺
時 代:江戸~明治時代
概 要:
江戸時代飯田藩を治めた堀家の墓所で、飯田城下町北端にある長久寺の墓地の奥、城下町を見下ろす高台にあります。
薬医門(やくいんもん ※1)と漆喰(しっくい)塗りの白壁の築地塀に囲まれており、参道と墓所内は石畳が整備されています。6代親藏(ちかただ)、9代親民(ちかたみ)、11代親義(ちかのり)の墓碑を中心とし、堀家の室や夭折(ようせつ ※2)した若君らが埋葬されています。年代が最も古いものは、貞享2年(1685)に死去した清岳院(2代親貞子)の墓碑です。墓所内にある花崗岩の自然石は、堀家初代親昌(ちかひさ)、2代親貞(ちかさだ)、4代親賢(ちかかた)を荼毘(だび ※3)にした場所であることを示しています。
なお、飯田藩主堀家の他の8代の墓は、東京都渋谷区東江寺にありましたが、現在では明治期以降に建てられた墓碑が残っているだけです。
※1 薬医門:二本の主柱(鏡柱)と梁(冠木:かぶき)に、控柱(ひかえばしら)と横木を添えて強度を高めた門です。
※2 夭折:若くして亡くなること。
※3 荼毘:火葬のこと。
解 説:
堀家の概略
堀家は安土桃山時代、織田信長・豊臣秀吉に側近として仕えた、美濃国出身の堀久太郎秀政(ひでまさ)を始祖としています。
秀政の没後、次男親良(ちかよし)は、豊臣秀吉から豊臣姓を与えられ羽柴秀家を名乗りますが、豊臣氏滅亡後は羽柴氏を辞めて堀良政を名乗り、堀家の家祖となりました。越前国(福井県)から蔵王堂藩(新潟県長岡市)、真岡藩(栃木県真岡市)、烏山藩(栃木県那須烏山市)と各地の藩主を勤めました。烏山藩の頃から親良を名乗り、寛永14年(1637)に没しました。
親良の後を継いだ長男親昌(ちかひさ)は、烏山藩政の基礎を固めます。寛文12年(1672)、飯田藩二万石へ国替えとなり、飯田藩主堀家の初代となりました。疲弊した飯田領の再建策を進めましたが、寛文13年(1673)に没しました。
以降、飯田藩主として堀家は12代まで続き、幕末を迎えています。中でも10代親寚(ちかしげ)は、江戸幕府の老中格などを勤め、天保の改革に加わっています。続く11代親義も将軍慶喜の奏者番(※)を勤めるなど、江戸時代の後期から幕末にかけて、日本を動かす幕府の要職を務めるなど、堀家は小藩ながら活躍しました。
※ 奏者番:大名や旗本と将軍の連絡役などを行う要職です。
堀家系譜
秀正(ひでまさ 始祖)―親良(ちかよし 家祖)―親昌(ちかひさ 飯田藩主初代)―親貞(ちかさだ 2代)―親常(ちかつね 3代)―親賢(ちかかた 4代)―親庸(ちかのぶ 5代)―親藏(ちかただ 6代)―親長(ちかなが 7代)―親忠(ちかただ 8代)―親民(ちかたみ 9代)―親寚(ちかしげ 10代)―親義(ちかのり 11代)―親広(ちかひろ 12代)―
墓所区域内の石造物内訳
・笠塔婆(※) 3基(堀家当主墓碑 6代親蔵・9代親民・11代親義) 位置は下図中 No.1~3
・自然石記念碑 3基(堀家当主荼毘の跡 初代親昌・2代親貞・4代親賢) 位置は下図中 No.4~6
・記念碑 1基(10代親寚 落髪埋納の地) 位置は下図中 No.7
・歌碑(?) 1基 (位置は下図中No.8)
・堀家室・童子等の墓碑等 16基 (位置は下図中 No.9~24)
・石灯籠 3対 (位置は下図中 No.26~28)
・菩薩像 1躯 (位置は下図中 No.25)
※ 笠塔婆(かさとうば):塔婆とは墓の意味で、故人を供養する石塔に、廂(ひさし)を持った笠のような石を載せたものです。
主な石造物
笠塔婆 6代親藏(ちかただ)墓碑
位置:門正面(図中 No.1)
規模:高さ約2.6m、幅0.5m
銘文:正面「禅林院殿前和州太守大道休也大居士」
裏側「此我 先考禪林公従五位下□大和守諱親藏之墓也 公之兄 寛祐□□薨無嗣 公襲封焉延享丙寅二月十三日以疾薨于飯田□諸城北神護山長久寺嗚呼哀哉高祖大玄公以来皆□于東都渋谷祥雲寺獨 公不者公之所遺命歟抑有司之所謀歟時親長幼而在東都不得與知其故及長問諸有司莫有能識者是為恨也夫國無先君之墓則民不知所畏不知所畏則不敬□(甘の下に大)上民不敬□(甘の下に大)上則國家危而社稷傾由是観之葬 先考于茲也可謂國家」
右側「之福而社稷衣固矣安永己亥四月親長以多疾請于 官老於東都今年四月來謁于 尊碑因書碑陰以示後世 嗚呼哀哉寛政乙卯秋七月
信州飯田城主 右兵衛尉堀親長」
左側「正徳五年乙未十二月十八日生 延享三年丙寅二月十有三日卒」
堀親藏略歴:
正徳5年(1715)誕生、延享3年(1746)没。在位は享保13年(1728)~延享3年(1746)。
兄親庸(ちかのぶ)が早世したため家督を相続しました。江戸城門番を勤め、祖父親賢(ちかかた)が石見守へ格下げされる前の役職である、大和守に任命されました。学問に対する素養も高かったのですが、30歳で没しました。
笠塔婆 11代親義(ちかのり)墓碑
位置:向かって右側(図中 No.2)
規模:高さ2.4m、幅0.5m
銘文:正面「龍雲院殿正五位研山道義大居士」
裏面「公諱親義藤原姓堀氏少名鐵三郎従四位侍従大和守親寚公第二子也世為信州飯田城主文政十二年十二月叙従五位仕若狭守後□曰左近将監曰兵庫領曰石見守曰大和守曰左衛門尉蓋一任官之後以官名為通稱當時風習然也弘化二年九月襲封嘉永六年三月為奏者文久二年九月幕府□奏者職三年六月任寺社奉行十月辤之元治元年七月再為奏者九月任講武所奉行慶應二年六月為京都見廻役三年十二月為般舟院警衛明治元年三月告老養子親廣嗣後 朝廷廃藩主皆住東京公築居於舊封内松尾村請 朝居之十三年五月進叙正五位九月二十九日病卒距文化十一年正月二十八日之生得壽六十七葬上飯田村長久寺先□次配水野氏無子養子親廣有故離別明治十一年九月養細川興貫次子親篤君為嗣公平生行實詳載于家譜可考也
明治十四年辛巳六月 市河三乿 敬書」
堀親義略歴:
文化11年(1814)誕生、明治13年(1878)没。在位は弘化2年(1845)~慶応4年(1868)。
父親寚(ちかしげ)の隠居により家督を相続しました。嘉永6年(1853)に12代徳川将軍家慶の奏者番に登用され、続いて13代家定・14代家茂・15代慶喜と歴代将軍の奏者番を勤めました。京都見廻役頭(※)として朝廷に仕えましたが、明治新政府が樹立されると藩主の地位を失い、市内の松尾久井に移り住みました。明治13年(1880)に67歳で没すると、葬儀では久井から長久寺まで人垣が連なったと伝えられており、飯田城内には、親義を顕彰する観耕亭碑(飯田市史跡)が建てられています。
※ 京都見廻役:新撰組と同じく京都の反幕府勢力を取り締まる幕末の組織です。新撰組が町人街・歓楽街を担当したのに対し、見廻役は御所や二条城周辺などの官庁周辺を担当しました。
笠塔婆 9代親民(ちかたみ)墓碑
位置:向かって右側(図中 No.3)
規模:高さ2.55m、幅0.51m
銘文:正面「前岳院殿前和州太守玉眞常光大居士」
堀親民(ちかたみ)略歴:
安永6年(1777)誕生、寛政8年(1796)没。在位は天明4年(1784)~寛政8年(1796)。
兄親忠(ちかただ)が急逝したため7歳にして家督を相続しました。父親長(ちかなが)が後見人となって政治を行いましたが、若くして没しました。
自然石 初代 親昌(ちかひさ)荼毘の跡
位置:向かって左側(図中 No.6)
規模等:高さ136cm、幅110cm. 自然石
銘文:「此我六世祖太玄公兼美作守諱親昌荼毘所也寛文十二年壬子閏六月朔日自烏山従于飯田同年八月十四日始就封明年癸丑七月十六日薨于飯田荼毘於神護山長久寺兆而樹之以識其地而□葬於東都者以 先塋在祥雲寺故也禮也吾聞樹有凋枯之變地有陵谷之變安知千載之後不或失 公荼毘之所其唯石乎庶幾可以不朽矣因立碑於神護山兆樹之下以重識
寛政五年癸丑秋七月十三日
曾孫 飯田城主 右兵衛尉堀親長 謹撰
兼大和守堀親民 謹書」
堀親昌略歴:
慶長11年(1606)誕生、寛文13年(1673)没、在位は寛文12~13年(1672~73)。
寛永14年(1637)、烏山藩2万石を相続しました。寛文12年(1672)に飯田藩へ国替えとなると、疲弊した領民に銭と籾米を与えたため、評判となりました。飯田藩の再建策を進めますが、翌年に没しました。
碑文には、飯田で亡くなり長久寺の「兆樹」の下で荼毘に付され、現在の東京都渋谷区の祥雲寺に埋葬されたこと、年月を経て兆樹が枯れて地形も変わってしまったため、その場所の重要性を示すために石碑が立てられたことが記されています。
自然石 2代親貞(ちかさだ)荼毘の跡
位置:向かって左側(図中 No.5)
規模等:高さ132cm、幅93cm 自然石
銘文:「此我五世祖隆松公兼周防守諱親貞荼毘所也貞享二年乙丑五月 公為越州高田扜城十一月八日薨干高田帰葬東都途出飯田乃荼毘於神護山長久寺兆樹之以識其地而葬骸骨於東都渋谷祥雲寺曾孫親長既為 太玄公不朽也又為 隆松公立碑於神護山兆樹之下以重識焉
寛政五年癸丑秋七月十三日
曾孫 飯田城主 右兵衛尉堀親長 謹撰
兼大和守堀親民 謹書」
堀親貞略歴:
寛永17年(1640)誕生、貞享2年(1685)没、在位は寛文13年(1673)~貞享2年(1685)。
母は公家の三条西家の娘であり、当時の大名の中でも優れた文化人であったといわれています。嫡子を持つことなく病死したため、堀家は改易の危機となりました。
碑文には、高田(新潟県上越市)で亡くなり、遺体を江戸へ移す途中、飯田長久寺の兆樹の下で荼毘に付し、遺骨は祥雲寺に納められたこと、親昌と同じくその地の重要性を示すために石碑が立てられたことが記されています。
自然石 4代 親賢(ちかかた)荼毘の跡
位置:向かって左側(図中 No.4)
規模等:高さ162cm、幅115cm 自然石
銘文:「此我皇曽祖東明公兼石見守諱親賢荼毘所也正徳五年乙未八月 公為大坂扜城十一月二十八日薨于大坂帰葬東都途出飯田乃荼毘於神護山兆而樹之以識其地而葬骸骨於東都渋谷祥雲寺遵 其祖太玄公隆松公之故也彼一樹也比一樹也千載之後唯難識別是懼况凋枯陵谷得□(乚の中にメ)不虞之變乎因立碑於兆樹之下以重識焉
寛政五年癸丑秋七月十三日
曾孫 飯田城主 右兵衛尉堀親長 謹撰
兼大和守堀親民 謹書」
堀親賢略歴:
貞享元年(1684)誕生、正徳5年(1715)没。在位は元禄10年(1697)~正徳5年(1715)。
上総一宮(千葉県長生郡一宮町)の旗本だった家祖親良(ちかよし)の血を引く堀家分家の出身です。幕府からは、美濃岩村城の修理や大坂城加番などを勤め、藩では財政難から飯田町から毎年千両「御定借千両」を借りて財政を賄うなどしました。正徳5年(1715)に伊那谷の未曾有の大水害 未満水(ひつじまんすい)が飯田領を襲い、大坂城加番中に被災報告を受け、その年に32歳で没しました。
碑文には、やはり大阪から江戸へ回葬する途中、飯田長久寺で荼毘に付し、祥雲寺に埋葬されたこと、荼毘の地の重要性を示すために石碑が立てられたことが記されています。
10代 親寚(ちかしげ)落髪の埋納地
位置:向かって左奥(図中 No.7)
規模:高さ140cm、幅32cm
銘文:正面「前和州太守従四位下侍従廸翁公大居士□(“陜”のつくりの下に“土”)周羅之地」
左側「弘化三丙午秋 八月廾五日」
堀親寚略歴:
天明6年(1786)誕生、嘉永元年(1848)没。在位は寛政8年(1796)~弘化2年(1845)。
飯田藩の領国政策が評価されて、幕政に登用されました。文化11年(1814)に幕府の奏者番になり、以後、寺社奉行・若年寄を勤め、御側御用人・老中格・老中勝手掛になりました。江戸幕府の要職を31年余りも勤め、幕府の三大改革の一つ、天保の改革を進めました。しかし、改革が失敗に終わったため失脚し、逼塞(ひっそく ※)を命じられ、領地1万石を没収されてしまいました。弘化3年(1846)2月4日に逼塞を許され、同月19日、髪を剃って隠居し、廸翁(てきおう)を名乗りました。8月25日、落髪を石棺に納めて長久寺の墓地へ埋めました。
※ 逼塞:江戸時代の刑罰の謹慎の一種で、門を閉ざして昼間は出入りを禁じられました。
長久禅寺:
享禄3年(1530)、隣接する大宮諏訪神社を鎮守として隣に建てられたといわれる臨済宗寺院で、堀氏の他にも、毛利氏・脇坂氏の飯田城主の菩提寺とされています。
山門は明治6年(1873)に普門院(ふもんいん ※)を取り壊したときに移築されたもので、門そのものは寛政7年(1795)に再建されたものです。
※ 普門院:飯田市二本松周辺、天満天神社の付近にあった寺院です。
山門を潜ると現れる羅漢門(らかんもん ※)は、享保2年(1717)に堀親庸(ちかのぶ 5代)によって建てられたものです。
※ 羅漢門:羅漢と呼ばれる仏教の聖者の像を納めていることから呼ばれます。
堀家墓所付近より。中央の森が飯田城本丸跡(現 長姫神社社叢)。
本堂の裏側が墓地となっており、段丘を一段上がった奥が堀家の墓所となります。
毛利秀頼(もうりひでより ※1)の墓といわれる古い宝篋印塔(ほうきょういんとう ※2)。参道の手洗石の隣にあります。
※1 毛利秀頼:織田信長の、後に豊臣秀吉の家臣で、中国地方の毛利氏とは別の家系です。天正10年(1582)に一時的に、天正18年(1590)からは文禄2年(1593)に亡くなるまで飯田城主として伊那郡10万石を治めました。
※2 宝篋印塔:墓碑や供養碑に使われる仏塔の一種です。
堀家の前の飯田城主脇坂安元(1584~1653 ※)の墓は、堀家の墓所の北隣、右奥にあります。この墓所は、脇坂安元の300年忌である昭和28年(1953)、長久寺墓所内各所にあった墓碑を集めて復元整備されたものです。
※ 脇坂安元:安土桃山時代から江戸時代初めにかけての武将で、今日の飯田城下町を整備した武将として知られています。元和3年(1617)、伊予大洲(愛媛県大洲市等)から飯田藩55,000石へ移り、子の安政と共に55年にわたって飯田城・城下町の町割・街道等を整備したといわれています。
見学にあたり:
寺院関係者・墓参者への配慮と、故人への礼節をもってお願いします。
交通・アクセス:
○JR飯田線「桜町」駅 徒歩7分
関連文化財・参考文献等:
観耕亭碑(飯田市史跡)
「長久寺堀家墓所を尋ねて」 長井辰雄 『伊那』2003.11月号
「近世における堀家墓所の成立と飯田藩政」 千葉拓真 2016 『飯田市歴史研究所 年報』14号
『信州飯田領主 堀侯 -日本を動かした郷土の外様大名-』 飯田市美術博物館 2010
『飯田城ガイドブック ―飯田城とその城下町をさぐろう―』 飯田市美術博物館 2005