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下栗掛踊り

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年5月1日更新

下栗掛踊り(しもぐりかけおどり)

区 分:飯田市民俗文化財(平成10年11月27日 指定 ※上村指定

     記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(下伊那のかけ踊 平成11年12月3日 国選択)

所在地:飯田市上村下栗

概 要:

あくまばらい

お盆の8月15日午後、十五社大明神(じゅうごしゃだいみょうじん ※1)の社殿とその周辺で行われる踊りです。

下伊那の掛け踊りは祖霊(それい ※2)を供養する盆踊りの一種ですが、下栗の掛け踊りは雨乞いの踊りといわれています。

太鼓、笛、鉦(かね)の囃子(はやし)で歌にあわせて踊り、紙垂(しで)の垂れた笠をかぶる役が太鼓打ちではなく子女郎(こじょろう)と呼ばれる小中学生の女子である点に特徴があります。かつてはシデ踊りともいわれており、村内の数ヵ所を巡っていましたが、現在は省略されて、神社周辺で舞われています。

※1 拾五社大明神:下栗本村集落の中心となる神社で、拾五社大明神、両八幡、八社の神が祀られています。元々は正八幡社だったのが、明治時代に社名が変わったといわれており、名前の由来は拾五社大明神を祀っているからとも、神社内に祀られている神の総数に由来するとも、地区内にある15柱の祭神が集まっているからともいわれています。

※2 祖霊:祖先の霊をいい、ホトケサマ、ご先祖さまなどともいわれます。死者は生前の行ないによって極楽や地獄の世界へ生まれ変わると説かれる仏教観に対し、祖霊は子孫のそばにあって守り繁栄をもたらす神様として崇(あが)められています。

役・装束など

太鼓打ち(二人)、太鼓持ち(二人)、棒振り(二人)は、紺色の股引の上に浴衣を着てシッパサミ(尻挟み)し、襷(タスキ)をかけ、鉢巻きをし、ワラ草履(ぞうり)を履(は)きます。襷と鉢巻きは紅白で統一されています。

しで

子女郎は真っ赤な着物に長いシデを垂らした菅笠(すげがさ ※1)をかぶり、白足袋にワラ草履です。

鉦叩き(一人)は禰宜(ねぎ ※2)が勤め、烏帽子(えぼし ※3)に水干(すいかん ※4)を羽織る霜月祭と同じ装束で、笛吹きは数名です。

※1 菅笠:菅(スゲ・スガ)と呼ばれる植物の葉で編んだ笠です。

※2 禰宜:神社で神様に仕える神職の一つで、祭祀の知識や経験が豊富な者が務めます。遠山谷では集落の神社ごとに禰宜が存在し、「禰宜様」と敬われています。下栗では中心となる禰宜を宮元(みやもと)と呼んでいます。

※3 烏帽子:平安時代から近代にかけて、和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子のことです。

※4 水干:平安時代の装束で、元々は庶民の平常着でしたが時代が下がるにつれて武家や公家の日常着となり、やがて礼装にもなりました。

起 源

江戸時代から続いている行事ですが、起源についてははっきりしていません。

伝承では、天正(1573~1592)の頃、遠山土佐守(とおやまとさのかみ ※1)の圧政と疫病、日照りの中で、住民が氏神へ祈ったのが始まりとするもの、下栗地区大野に逃れた平家一族が伝えた踊りであるとするものがあります。

※1 遠山土佐守(外部リンク):遠山谷を支配した遠山氏の二代目景直(かげなお)で、武田氏滅亡後に徳川家康に仕えました。遠山氏の家紋である丸に二つ引きは、家康謁見時の出来事に由来するという逸話があります。

次第

神事

午後1時、神社に集まり、社殿を清め、しめ縄、御幣、金幣、紙旗などの道具の準備を始めます。

午後2時頃、社殿で式礼の祭が始められ、宮元禰宜が音頭をとり、祝詞や祓い、神楽歌、般若心経などを唱えられます。

なお、下栗では、神事の際に、水干に烏帽子をかぶる一方、手には数珠(じゅず)を持ち、般若心経を唱えるなど、神仏習合(しんぶつしゅうごう ※1)の形をよく残しています。

※1 神仏習合:神道と仏教が融合した状態で、神社で読経があったり仏像が安置されるなどしました。神は仏の仮の姿で、人々を救うために神の姿で人々の前に現れるとする本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が唱えられたりしました。

境内

式礼の祭が終わると、午後3時頃から拾五社大明神の舞殿(※1)でまず演舞されます。初めは本殿を向いて踊り、続いて東を向いて踊ります。

※1 舞殿:霜月祭が行われる遠山各地の神社においては、本殿と拝殿の前にあって竃が設置されている社殿をいいます。

境内

次に、社殿を出て、境内の庭で東を向いて踊ります。

集会所

最後に、神社下の下栗総合交流会館前の広場に下りて踊ります。

ここでの踊りは、元々、がらん様・阿弥陀様・大野地区の各所へ出かけて踊ったものを省略して踊るもので、本来はその分も繰り返して踊らなければならないといいますが、現在は便宜的に2・3回繰り返します。

踊りが終わると、神社下にある子安三社大明神の石碑へ禰宜らが三人行って、金幣と旗を納めてお神酒を供えてきます。

午後3時半頃に踊りが終わると、着替えてから神社で直会(なおらい ※1)をします。

また、この日の夜に、交流会館前の広場にて盆踊りを行います。

※1 直会:神事の最後に、神事に参加したもの一同で、神に捧げた酒や食物を食べる行事です。人神共食といい、神と同じものをいただくことで、神と人間の結びつきが強くなり、加護が得られるとされます。

二種類あった掛け踊り

下伊那の掛け踊りは、新盆(しんぼん ※1)の新仏を慰めるものと、村の神仏を踊り歩くものと二種類あると考えられており、これに地域の願が掛けられました。

下栗の掛け踊りは現在8月15日に行われていますが、かつては7月15日・16日のお盆と、日照りが続いて作物が焼けてしまうときに雨乞いで行われました。

雨乞いの掛け踊りでは、地区内各所の祠堂で踊りながら大野集落の子安神社(こやす ※2)まで行きこれを踊り、雨乞いの場合それでも降らない場合は「逆さ踊り」と称して下栗まで踊って戻ったりしたといいます。

下栗では昭和12年頃を最後にお盆の掛け踊りはしばらく中断し、終戦後の昭和22年に日照りが続いたため雨乞いの掛け踊りが行われました。

お盆の掛け踊りは昭和47年に復活しました。この時に昭和22年の雨乞いの印象が強く残っていたため、下栗の掛け踊りは雨乞い行事といわれるようになったともいわれています。

※1 新盆:仏教では四九日の忌明け後に初めて迎えるお盆を新盆といいます。

※2 子安神社:子授かり、安産にご利益がある神様で、拾五社からは約6kmの距離にあり、下栗でも一番山奥の大野集落にあります。

雨

平成24年の掛け踊りでは、踊り終わって20分程で雨が降り始めました。

交通アクセス

○中央自動車道飯田ICより車で1時間30分

○落石によるパンクやガス欠にご注意下さい。

○狭い道は、譲り合いして下さい。

関連サイト・書籍案内

『「下伊那のかけ踊」調査報告書 平成二十一年度文化庁「変容の危機にある無形の民俗文化財の記録作成の推進事業」』 文化庁 2010

『遠山谷北部の民俗』 飯田市美術博物館 2009

飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます。