遠山川の埋没林と埋没樹
遠山川の埋没林と埋没樹(とおやまがわのまいぼつりんとまいぼつじゅ) 2区域及び2点
区 分:長野県天然記念物(令和元年10月24日指定)
所在地:飯田市南信濃小道木・大島 ほか
管理者:長野県・飯田市
概 要:
埋没林とは、大規模な土石流や火山などで森林が地中や水中に埋まった状態をいい、本件は遠山川中流域に残る埋もれ木です。
奈良時代に発生した土砂崩れにより遠山川が堰き止められ、天然ダムが造られました。この時、土石とともに崩れ落ちてダムの堤体(ていたい ※1)に紛れ込んだ倒木が埋没樹となり、ダム湖沿いの原生林が水没・埋没したものが埋没林となりました。
この土砂崩れは、遠山川の支流 池口川の左岸(さがん ※2)にある日陰山(ひかげやま:1441m)が大崩落したことによるものです。
※1 堤体:ダムの構造物本体をいいます。
※2 左岸:川の上流から下流をみたときに、右側を右岸、左側を左岸といいます。
解 説:
どこで埋没林は見ることができる?
文化財指定された埋没林と埋没樹は、以下の2区域と2つの標本です。
(1)小道木埋没林包蔵地 (飯田市南信濃木沢小道木 遠山川河川区域)(外部リンク)
国道152号(旧道)の小道木橋南側の川原です。国道から徒歩で川原に下りられます。
小道木(南信濃木沢地区)の一群はヒノキが林のように立っている状況から、天然ダム湖に沈んだ埋没林とみられます。
(2)大島埋没樹包蔵地 (飯田市南信濃和田大島 遠山川河川区域)(外部リンク)
南信濃和田地区の池口川との出合い(合流点)上流から、西島橋(歩道・吊り橋)の間です。歩道等はありません。不慣れな方は西島橋等、遠方からの見学になります。
大島の一群は樹木が巨石に挟まれ、横倒しになった状況から、日陰山崩落時の土砂に含まれた埋没樹とみられます。
(3)標本樹No1 南信濃自治振興センター (飯田市南信濃和田2596-3)(外部リンク)
畑上(南信濃木沢地区)から出土したヒノキで、年輪年代測定の資料として用いられた埋もれ木で、センター内に出土状況が復元展示されています。
(4)標本樹No2 梨元ていしゃ場 (飯田市南信濃木沢489-3)(外部リンク)
小道木から出土した、幹回り3.4mの巨大なヒノキです。古代の遠山谷の森林資源の豊かさを実感できます。
災害はいつ・なぜ起こった?
出土したいくつかのヒノキを年輪年代法(※1)で分析したところ、西暦714年に枯死(こし)したことが分かりました。
平安時代に書かれた『続日本紀』(※2)には和銅8年5月25・26日(新暦715年7月4・5日※3)に遠江国と駿河国(共に静岡県)で大きな地震があり、麁玉河(あらたまがわ:天竜川の昔の名前)を塞(ふさ)ぎ、数十日後に決壊(けっかい)、氾濫(はんらん)して、民家170余区が水没したことが記されています。
この時に塞がったのは天竜川(麁玉河)ではなく、その支流遠山川と考え、地震によって日陰山が崩れたと考える研究者もいます(※4)。また、現在の梅雨の時期にあたることから、大雨が土砂崩れに関連したことも考えられます(※5)。
続日本紀と同じ内容が『扶桑略記』(※6)には和銅7年(714)のこととして記されています。年輪年代法の測定結果は、扶桑略記の年代と一致しますが、扶桑略記よりも続日本紀の方が当時に近い時代に書かれた書物です。
いずれにしても、奈良時代の初めの頃、遠山谷で大規模な山崩れが発生し、それが遠山川を堰き止めたことは間違いなく、文献に記された古代の遠江地震(※7)との関連性をみることができます。
※1 年輪年代法:年輪は一年に一重づつ形成されますが、その幅はその年の気候により異なります。全国の伐採年代の明らかな樹木の年輪幅の変化を調べてデータ化し、出土樹木の年代と照合することで、ヒノキの場合は約3000年前まで遡ることができます。
※2 続日本紀(しょくにほんぎ):平安時代初期に編纂され、延暦16年(797)に完成した歴史書です。
※3 月の満ち欠けで時を決める旧暦は、太陽の周期で時を決める現在の暦とは1~1.5ヶ月のずれがあります。
※4 参考事例:昭和59年(1984)、長野県西部地震で木曽の御嶽山が崩れ、木曽川支流大滝川が堰き止められました。現在も御岳自然湖となっており、枯死した立木が埋もれています。
※5 参考事例:昭和36年(1961)、下伊那郡大鹿村では、梅雨の末期の大雨で大西山が大きく崩れ、小渋川を堰き止めました。ダムはその20分後に決壊しました。
※6 扶桑略記(ふそうりゃくき):寛治8年(1094)に編纂されたとされる歴史書です。
※7 天竜川沿いでこのような崩壊地が確認されていないことから、遠江地震ではなく遠山谷が震源地であり、翌日発生した三河地震と考え合わせて、中央構造線が動いた可能性を指摘する研究者もいます。
遠山谷の地形が大きく変わった
日陰山から崩落した土砂は、池口川を堰き止め、ダム湖をつくりました。さらに一部が遠山川へ流れ込み、遠山川本流も堰き止めました。埋没林により天然ダムが生まれたことが分かり、それにより遠山谷の地形の成り立ちの一部が明らかになりました。
土石流扇状地の形成 ~大島・漆平島の誕生~
大島の集落は、堆積する土砂に巨礫が多く、土地の傾斜が急であることから、日陰山から崩落した土砂が堆積してできた地形と考えられています。
河岸段丘の形成 ~木沢地区の各耕地の誕生~
大島から上流、木沢地区上島までは湖になりました。この後、ダム湖には上流から流れてきた土砂が溜まりました。その後、下流側から土砂が浸食され、再び新しい谷になりましたが、削り残された土砂が河岸段丘となりました。畑上・小道木・川合・木沢・上島など木沢地区の各集落は、こうしてできた地形と考えられています。
池口川の流路変更
現在の和田地区の裏手にある森盛山(もりへいざん:723m)の南側に小池沢という小さな川が流れています。この川はほとんど水がないにも関わらず深い谷を刻み込んでいます。実は、日陰山崩落以前の池口川は小池沢を流れており、土砂の堆積により流れが変わり、現在の川筋となったと考えられています。
遠山谷の森林資源の豊かさを証明
埋没林からは、古代の遠山谷の森林植生が復元できました。それによれば、樹齢が500年を超すヒノキの巨木が立ち並び、これにクリやツガ、ケヤキなどが茂る原始林であったことが分かりました。特に建築部材として利用が多いヒノキの割合は半数を超えています。
このように遠山谷は森林資源に恵まれた場所でした。遠山谷は古代末期には江儀遠山庄(えぎとおやまのしょう)といわれており、鎌倉時代には鶴岡八幡宮の信濃唯一の荘園(※1)となりました。江戸時代には幕府の納める天領となり、遠山から刈り出された木が江戸の町づくりを支え、近代には大企業がその森林資源の獲得に走りました。
※1 荘園:日本では奈良時代末期以降、貴族や大社寺が所有した私有地をいいます。遠山谷が鶴岡八幡宮の荘園であったことは、遠山霜月祭の起源に深くかかわっていると考えられます。
見学・注意事項
○埋没林・埋没樹の包蔵地は、遊歩道等が整備されていません。転倒・滑落・落石・野生動物等にご注意下さい。
○雨が降ったり増水時は近づかないで下さい。
○許可なく埋もれ木を掘り起こしたり、持ちださないで下さい。また展示木を削り取らないで下さい。
アクセス
○飯田市街地から梨元ていしゃ場・小道木包蔵地まで車で1時間
○飯田市街地から南信濃自治振興センターまで車で1時間10分
○信南交通 広域バス 遠山郷線 バス停
「本谷口」(梨元ていしゃ場) 「小道木」「畑上」(小道木埋没林包蔵地) 「大島」(大島埋没樹包蔵地) 「和田」(南信濃自治振興センター)