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松尾城跡

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年2月29日更新

松尾城跡(まつおじょうあと) 1区域

戦国時代の城跡で、信濃守護職(しなのしゅごしき ※1)を巡って一族で争った小笠原氏の城の一つです。

区 分:長野県史跡(昭和47年10月16日 県指定)

所在地:飯田市松尾代田1007番1 他

所有者:飯田市 他

時 代:戦国時代

概 要:

小笠原氏は、信濃守護職と重要な領地である伊賀良庄(いがらのしょう ※2)を巡って相続争いを繰り返しました。その結果、国府(こくふ ※3)のあった府中(松本市)と、松尾、鈴岡の3家に分裂してしまいました。こうした小笠原氏の動向は、信濃国内に大きな影響があり、全国的な歴史の流れを左右することもありました。

松尾城の始まりは南北朝時代ともいわれますが、詳しいことは分かっていません。地区内には鎌倉時代創建といわれる鳩ヶ嶺八幡宮の前方に広がる低地に松尾館(※4)があったともいわれ、一族内での争いが激しくなった15世紀後半に築かれたとも考えられます。

明応2年(1493)に鈴岡小笠原政秀父子が城内で暗殺され、天正10年(1582)には知久氏らと争い落城し、天正12年(1584)に下条頼安(※5)が城内で暗殺されるなど、戦国時代の世相を表した城です。

天正10年(1582)、武田氏の討伐をすすめる織田信長が、先を急ぐ先方部隊に対して、松尾他2・3ヶ所で城を築いて、敵に用心せよ、と命じています。

天正10年以降の状況は不明ですが、少なくとも小笠原氏がこの地を去った天正18年(1590)には廃城(はいじょう)となったと考えられます。

城は、段丘の突端に築かれた丘城(おかじろ ※6)で、段丘崖と天竜川支流の谷によって三方が守られています。4条の大きな空堀(ア・イ・ウ・オ)によって区切られた、3つの大きな郭(くるわ ※7)が中心となっています。およそ東西450m、南北300mの範囲に遺構が分布しており、さらに北側にも城域が広がっていたかもしれません。

※1 守護:国(現在の都道府県に近い)ごとに置かれた、軍事指揮官と行政長官を兼ねた役職で、地頭を管理しました。現在でいうと、県知事と県警本部長を兼ねた役職です。

※2 伊賀良庄:飯田市の天竜川の西側(右岸)の、松川から阿智川にかけてのおよその地域といわれます。時代によって範囲が変化したようです。

※3 国府:奈良・平安時代に、その国を治める役所が置かれた都市をいいます。

※4 松尾館:「松尾」地区には「城」という区があり、地図上では「松尾城」と記されていますが、県史跡の「松尾城跡」とは異なる場所です。ここに古い時代の館があったといわれています。

※5 下条頼安:下伊那郡下條村吉岡城を本拠地とする下条氏の当主です。

※6 丘城:山や平地など、城をその立地で分類したとき、段丘や小高い丘に築かれた城をいいます。丘の傾斜を防御に利用し、丘の平たん部に郭や堀などが築かれます。段丘が発達した伊那谷で多くみられる城です。

※7 :堀や土塁、切岸(人工的な急斜面)、柵などに囲まれた平らな空間をいいます。

松尾城

※ 土塁:堤防状に土を盛った防御施設をいいます。

ここに注目!

堀底に立って、郭を見上げてみましょう。城攻めがいかに厳しいか実感できます。実際には、武器を構えた守備隊がずらりと並んでいたのです。

堀オ(大洞)

旧

城の背後の尾根を断ち切る巨大な堀で、大洞との地名が残っています。すべてを人の手で掘ったとは考えられず、自然の谷地形を利用したものと考えられますが、その規模は圧巻です。

堀オの東側には、小規模ながら2条の堀(カ・キ)で尾根を切っており、腰郭状の地形が何段か続きます。この辺りの段丘崖は、山城の遺構が良く残っています。

L字形の堀ア

堀

主郭1を台地から切り離している堀で、主郭を取り囲むようにL字形になっており、鈴岡城跡にも似た形状の堀があります。写真左手が主郭1、右手が郭2ですが、電柱等と比べると、その規模の大きさがわかるでしょう。

段差のある郭

くるわ3

郭2、3は広大な郭で、郭内に段差や傾斜があります。後世の改変も考えられますが、もともといくつかの郭に細かく分けられていたと考えられます。最上段の郭はゆるやかな丘となっており、完全に平にしていないことも特徴の一つです。

当時の通路は不明ですが、現在の道路と同じであったとすると、常に丘の上の守備兵から狙われる位置に通路があったことになります。

多く残る古地名

龍門寺

郭3には、「寺畑」「龍門寺屋敷」「御霊屋」の地名があります。現在は松尾地区内の別の場所へ移転していますが、かつてここに龍門寺があったとされています。龍門寺は天文元年(1532)に松尾小笠原家当主、信貴(のぶたか)が創建した、小笠原氏の菩提寺といわれています。

郭2には「クラヤシキ」「勝手」、郭4には「本城」「ハサマ」、郭1東側の尾根には「長ごろう山」、一段低い段丘には「サカヤシキ」の地名などが残っています。

平坦地5には「元本城」「北古城」などの屋号があり、北の沢川を堀に見立てれば城といえなくもないですが、段丘の崖下にあるため防御上極めて不利な地形といえます。

発掘調査から

主郭1の公園建設に先立つ発掘調査によって、建物跡や焼けた穴などと共に、15世紀後半から16世紀にかけての陶磁器が出土しています。三河地方の内耳土器(ないじどき ※8)があることも注目されます。

また、北の沢川を挟んで対岸にある「南の原」の台地では、緑釉天目(りょくゆうてんもく ※9)の優品や、石臼などが出土しており、小笠原家の有力な家臣団の屋敷があったと考えられています。詳しくは、飯田市上郷考古博物館のウェブサイト(外部リンク)に掲載されています。

※8 内耳土器:器の内側に小さな取っ手がついた素焼きの土器で、鍋と考えられています。

※9 緑釉天目茶碗:釉とは焼き物にかける「うわぐすり」のことで、天目とは、浅いすり鉢状の形をした抹茶用の茶碗のことです。

城跡からの眺め

看板

主郭1からは、伊那谷の風景や、かつて争った鈴岡城跡を見ることができます。鈴岡城跡との間には、標高差70mの毛賀沢川の谷がありますが、現在は遊歩道と橋で繋がっており、徒歩での行き来ができます。

公園

公園

城跡の大半は芝生と緑が心地よい公園として整備されています。

交通・アクセス

○駐車場有

○JR飯田線「毛賀」 徒歩30分

○信南交通 市民バス市民循環線「名古熊東」 徒歩20分

 見 学

公園内は整備されていますが、一部坂道もあります。詳しく遺構(地形)を観察したい方は、里山散策や農作業に適した服装でお出かけ下さい。

また、私有地への立入りにはご配慮をお願いします。

山中の遺構見学には、草木の葉が落ちて地形の観察がしやすい、晩秋から早春が適しています。

書籍案内 ~もっと知りたい方へ~

『長野県の山城ベスト50を歩く』 河西克造・三島正之・中井均

『天正壬午の乱』 平山優

いずれの資料も飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます。