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松尾・鈴岡小笠原氏略歴

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年1月13日更新

小笠原氏とは

小笠原氏は甲斐源氏(かいげんじ ※1)の庶流(しょりゅう・分流)といわれており、武家の有職故実(ゆうそくこじつ ※2)を伝える名門で、信濃と京の他、全国各地に所領や一族がいます。

もともと鎌倉幕府の配下でしたが、小笠原貞宗(さだむね)らが足利尊氏と共に朝廷側に属し、建武政権(けんむしんせい ※3)の成立に貢献しました。室町時代を通じて信濃守護職(しゅごしき ※4)を務めていましたが、相続争いから分裂し、没落した時期もありました。

しかし、その動向は飯田市内はもとろんのこと、長野県内だけでなく、全国的にも影響があり、日本史の中でも注目されるものです。ここでは、少し長くなってしまいますが、長野県史跡「松尾城跡」「鈴岡城跡」や、飯田市内外の文化財に関連する事柄ですので、伊那谷に関連した小笠原氏の歴史についてまとめてみました。

※1 甲斐源氏:源氏は皇室を離れ姓を与えられた天皇の子孫で、そのうち現在の山梨県を発祥とする一族をいい、武田信玄などもその末裔です。

※2 有職故実:朝廷や武家の儀礼や礼法などの典型的な方式とそれを研究する学問をいいます。

※3 建武新政:武家政権である鎌倉幕府滅亡(1333年)後に、後醍醐天皇が行った新しい政治をいいます。翌年に元号が建武に改められました。

※4 守護:国(現在の都道府県に近い)ごとに置かれた、軍事指揮官と行政長官を兼ねた役職で、地頭を管理しました。現在でいうと、県知事と県警本部長を兼ねた役職です。

小笠原氏の信濃土着(どちゃく ※5)

小笠原氏が鎌倉時代に松尾館で生まれたと記載する系図類もありますが、鎌倉時代の信濃国守護、伊賀良庄地頭(※6・7)は北条氏で、小笠原氏は阿波国(徳島県)守護でした。小笠原氏の信濃土着は、貞宗が信濃守護に任命された建武2年(1335)以降といわれています。

信濃守護職と伊賀良庄地頭職は小笠原氏が最も大切とする役職で、康永3(興国5)年(1344)に、貞宗が長男の政長(まさなが)に譲ってからは、小笠原氏が代々受け継ぐものとなりました。もっとも、小笠原氏当主は京に屋敷を構えており、任地には守護代、地頭代を置くことが慣例であったようです。

応永7年(1400)、小笠原氏は長秀(ながひで)が大塔合戦(おおとうがっせん ※8)で敗北したために没落しましたが、結城合戦(1440 ※9)では政康(まさやす)が武功をあげて名声を取り戻しました。

※5 土着:その土地に住みつくことをいいます。

※6 伊賀良庄:天竜川の西側、松川から阿智川にかけてのおよその地域をいいます。時代によって範囲はかわり、後に阿智川よりも南も含みました。

※7 地頭:荘園などを管理する役職で、行政と軍事警察の仕事を行ないました。

※8 大塔合戦:信濃守護小笠原長秀の高圧的な態度に、一族と伊那谷の豪族以外はほとんど従わず、反発する北信濃の豪族らと戦になりました。長秀は何とか脱出し、逃げ遅れて大塔(長野市)の古い城に籠(こも)った守護方は全滅しました。

※9 結城合戦:関東が室町幕府の支配下に入ることに反発した結城氏らがおこした反乱で、小笠原氏らは幕府方として現在の茨城県へ出兵し、これを鎮圧しました。見張り番の名簿が残っており、名簿から当時の伊那谷の武将を知ることができます。

小笠原氏の権力争い

三家に分裂

これより前、長基(ながもと)は、何らかの事由で長男の長将(ながまさ)ではなく長秀に惣領識(そうりょうしき ※10)を譲りましたが、長秀は大塔合戦で失敗し、弟の政康が再興しました。

嘉吉2年(1442)に政康は亡くなると、総領識を子宗康(むねやす)に継がせました。長基の嫡流の持長(もちなが)はこれに反発し、天安2年(1445)に幕府へ訴えますが、これが認められなかったために翌年、宗康を殺してしまいます。

同じ年、幕府は宗康弟の光康の信濃守護職と領地の所有を認めていますが、その後、管領が細川氏から畠山氏に移ると、信濃守護職は宝徳3年(1451)頃に持長に移りますが、管領が細川氏に戻ると、享徳2年(1453)頃に再び光康に戻っています。

さて、持長は信濃守護所、井川館(松本市)におり、子の清宗は林城(松本市)に移ったとされます。この系統を府中(深志)小笠原氏と呼んでいます。

なお「松本」の地名の由来は、かつて武田信玄に信濃を追いやられていた府中の小笠原長時(ながとき)の子孫小笠原貞慶(さだよし)が、天正10年(1582)に深志へ復帰した際につけられたといわれています。貞慶が信濃小笠原氏の正統な当主であり、「松尾の本家」筋にあたるからとも、「待つこと久しくして本懐(ほんかい 本来の願い)を遂(と)ぐ」と述べたからともいわれています。

政康は、第二子の光康(みつやす)を伊那郡松尾に住まわせ伊賀良庄の管理にあたらせたので、光康の系統を松尾小笠原氏と呼んでいます。

第一子の宗康は井川館に居たが戦死し、幼少であった政秀(まさひで)は伊那に逃れて叔父光康を頼りました。その後、鈴岡に居城したといい、この系統を鈴岡小笠原氏と呼んでいます。

小笠原氏系図 (PDFファイル/6.43MB)

※10 総領職:武士がその一族を取りまとめ、治める土地の収入を得る権限をいいます。

戦国時代の幕開け 府中vs松尾vs鈴岡

応仁元年(1467)、鈴岡の政秀は父の遺恨を晴らすべく府中へ攻入り、長朝を更級郡に追い払いました。政秀は信濃守護となりましたが、その命令に従う者は少なかったようです。

長享2年(1488)に再び井川館を襲いましたが、やはり筑摩郡国人(こくじん ※11)の支持を得られませんでした。そこで政秀は、長朝を鈴岡小笠原家の養子することで仲直りして、府中を長朝に渡して鈴岡へ戻りました。延徳2年(1490)以降のこととみられています。

一方、政秀が勢いを増すと共に、かつて匿(かくま)ってくれた光康と対立します。文明10年(1478)、同12年と、諏訪大祝氏と共に松尾小笠原家を攻めています。この時、家長(いえなが)が戦死したとされます(異説もあります)。

明応2年(1493)1月4日、政秀父子は正月のあいさつに出向いたところ、松尾城にて定基(さだもと)に暗殺されました。政秀の室(妻)や遺臣らは、親戚の下条氏(下條村)を頼って逃れ、続いて府中の長朝(ながとも)を頼りました。長朝は援軍を送り、下条氏と共に定基を攻めましたが、当主を失った鈴岡小笠原は没落(ぼつらく)し、伊賀良庄は松尾の定基のものとなりました。

しかし、天文3年(1534)、府中の長棟(ながむね)によって松尾小笠原氏は甲斐へ追いやられたといわれ、鈴岡城に入った伊賀良庄は信定(のぶさだ)が支配しました。

信濃守護であった小笠原氏ですが、分裂によって周辺の国人と同じくらいに小さくなってしまいました。

※11 国人:地方豪族のことで、国衆ともいわれます。農民とのつながりが強く、守護や戦国大名と対立したり、家臣となったりしました。

※12 大祝氏:御柱(おんばしら)祭で知られる諏訪大社の神官の一族で、武家としての性格も持っています。古くから信濃国内の一大勢力でしたが、諏訪上社と下社に分かれており、小笠原氏同様一族内での争いがありました。

※13 下条氏:下伊那郡下條村の吉岡城を本拠地とした武将です。鈴岡小笠原とは親戚関係にあり、松尾小笠原とは度々争っています。

武田氏の伊那侵攻(1554) 府中・鈴岡vs松尾・武田氏

天文14年(1545)、府中の長時(ながとき)は福与城(上伊那郡箕輪町)を巡り武田晴信(以下、信玄)と対峙しました。これに鈴岡の信定が援軍に出ており、信定配下の田科惣蔵(だしなそうぞう ※14)が交戦を進言しましたが長時に却下されたため、信定は伊那衆と共に下伊那に引き揚げたといわれています。福与城は武田氏に奪われ、天文17年(1548)には長時自身が武田に敗れて、越後(新潟県)を経て鈴岡に逃れました。

武田氏は天文23年(1554)に下伊那へ侵攻します。下伊那の大半の武将は下りますが、鈴岡の信定と兄長時、竜東の知久氏は抵抗しました。

鈴岡城は、先に甲斐に逃れた松尾小笠原家の信貴(のぶたか)らに攻められ、8月に落城しました。信定らは下条を経て各地へ散り、信定も京で戦死したため、鈴岡の系統の小笠原氏は途絶えました。

※14 田科惣蔵:駄科にいた武将と考えられています。

武田氏の伊那谷支配

武田家臣の小笠原氏

松尾小笠原氏は武田家の有力な武将となり、武田家の有力な武将である山県昌景(やまがたまさかげ)と軍事行動を共にしました。小笠原信貴・信嶺(のぶみね)の「信」は、武田信玄から一字もらったもの(※15)と指摘されており、信嶺の妻は信玄の姪です。

元亀3年(1572)、信玄は伊那谷を南下して遠江(静岡県西部)三河(愛知県東部)に侵攻します。この作戦で武田軍は徳川方の城を多く落としますが、信玄の病気によって作戦は中止されました。信玄は翌年、駒場(阿智村)で病死したといわれています。

信嶺は長篠城(ながしのじょう 愛知県新城市)の守備を命じられ、井伊谷(いいだに 静岡県浜松市)を与えられました。

※15:諱(いみな:本名のこと)の一字を家臣などに与えることを偏諱授与(へんきじゅよ)といい、親しい人にしか与えません。団結力を高める目的がありました。

武田家の信濃防衛 武田vs徳川・織田

武田信玄の跡を継いだのは、勝頼(かつより)でした。

勝頼は、信玄の死から3年の後、勝頼は遠州三河へ侵攻し、父、信玄を超す勢いで徳川方を下していきます。小笠原信嶺も山県昌景とともに、足助城(愛知県豊田市)、作手城・野田城(愛知県新城市)、二連木城(愛知県豊橋市)を攻略し、吉田城(豊橋市)を攻めます。

しかし、天正3年(1572)5月21日、長篠の戦い(愛知県新城市)で織田・徳川連合軍に負けてしまい、武田家は多くの武将を失いました。

さらに、武田氏に従って美濃(岐阜県東部)に出兵していた座光寺氏なども織田軍に取り囲まれ、後に滅ぼされています。下伊那では、武田を見限り織田方に付こうとする武将があらわれました。飯田城主坂西(ばんざい)氏もその謀反をおこしたと考えられ、7月、小笠原信嶺に成敗されています。

武田家は信長が伊那谷から信濃に攻め入ることを警戒し、8月に防衛策を指示しています。

それによると、小笠原信嶺は清内路(せいないじ)街道(現 国道256号)の、下条信氏(のぶうじ)は三州街道(現 国道153号)と遠州街道(現 国道151号)の国境守備隊を命じられ、彼ら自身は山本(飯田市山本)に在陣を命じられています。

そして、人質や誓詞をとるなど、彼らが裏切らないようにしました。万一、国境が破られたら、下級の兵士は山に籠って敵の補給路を遮断(しゃだん)するよう指示されています。久米ヶ城や西平城、阿智村の駒場城など、山本周辺に集まっている大規模な山城は、こうした国境の防衛に関連した遺跡の可能性があります。

激動の天正10年(1582)

武田討伐 武田vs織田・徳川

2月3日、信長は木曽義昌(よしまさ)が織田方に付いたのを機会に、武田氏を討つ作戦を開始します。

これより少し前の1月末、知久氏によって小笠原彦三郎外4・5人が討取られ、鈴岡城、松尾城は落城しています。詳しい理由は不明ですが、武田に残るべきか織田に付くべきか、下伊那でも意見が割れており、こうした抗争と考えられています。

信嶺はすでに老母を武田の人質にとられていましたが、織田方に弟長巨(ながなお)を人質として送り、従いました。2月14日、信嶺は織田軍先陣を清内路街道から伊那谷に招き入れ、続いて高遠城(伊那市高遠)を攻める織田軍の先陣を務めました。

伊那谷の武将の多くは自ら城を焼いて織田に従ったとみられ、3月に武田家は滅亡しました。

なお、信長は先陣の河尻秀隆に対し、松尾・駒場など2・3ヶ所で中継の城を整備して用心するよう、厳しく命令しています。しかし、織田軍先陣の進軍速度は速く、松尾城などの遺構にどの程度織田軍が関わっているかはわかりません。

武田家滅亡後に伊那谷を支配したのは、信長の家臣毛利秀頼(ひでより)でした。信長は信嶺の活躍を褒めていましたが、毛利秀頼は武田家臣であった信嶺を滅ぼそうとしたともいわれています。

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん ※16) 徳川vs北条

6月2日、本能寺の変で信長が急死すると、旧武田領を支配していた信長家臣は一斉に逃げ出しました。逃げ遅れた甲斐の河尻秀隆は、元武田家臣らによって殺されました。

この権力の空白地帯に入り込んで争奪戦を行ったのが、戦国大名の徳川家康と上杉景勝、北条氏直でした。

下伊那の大半は下条氏が取りまとめて徳川氏に従い、小笠原氏も家康に従いました。小笠原氏らは徳川軍として諏訪地方へ従軍しましたが、北条軍が佐久から南下して諏訪へ、諏訪から南下してきました。8月には北条軍が飯田近辺にあらわれ、徳川勢は飯田城に籠る事態となりました。松尾城、鈴岡城なども緊張が高まっていたことでしょう。

10月末に徳川氏と北条氏が講和したために北条氏は引き上げ、伊那谷は徳川領となりました。家康は、三河出身の菅沼定利(さだとし)と配置して下伊那を支配しました。翌年から菅沼氏は知久平城を整備します。

この戦いで大きく領土を増やした徳川家康は、信長の跡を継いで天下を狙う秀吉と対立することになり、信濃の国衆もこの戦いに巻き込まれていきます。

※16 天正壬午の乱:天正は日本の元号(西暦1573-1593)、壬午とは干支(えと)の壬(みずのえ)・午(うま)の年をいい、天正10年のことです。伊那谷が最も戦争で混乱した内乱です。

因縁の対決  小笠原vs下条

さて、北条氏が去ると、国衆同士の間で争いがおこりました。

天正11年(1583)6月、小笠原氏は下条領侵攻を計画しました。小笠原勢1,000人は二重峠(※17)に、下条勢5・600人は下瀬峠に出陣しまし、激しく戦いましたが、決着はつかなかったといいます。9月に再び対決し、下条氏は川路の大明神原に出陣し、開善寺のある上川路まで攻め入ってきました。しかし、小笠原氏は押し返し、下条氏は高松峠(飯田市伊豆木)を経て撤退しました。この対立は、開善寺と文永寺の僧侶の仲介によって収まりましたが、小笠原氏は翌年正月に下条頼安(よりやす)を松尾城で暗殺してしまいます。下条氏は没落し、知久氏や松岡氏など小笠原氏以外の武将も、豊臣方に与した疑いや失態を責められて、お家取り潰しとなりました。小笠原氏は、下伊那での地位を取り戻しました。

なお、小笠原氏には時を変えて似たような戦歴があり、その歴史に混乱が少なくありません。

※17 二重峠:場所不明、飯田市下瀬にある二井峠でしょうか。

戦国時代の終わり

天正18年(1590)、天下を統一した豊臣秀吉は、徳川家康の領地を東海から関東へ移させました。家康に従う小笠原氏も武蔵本庄(埼玉県本庄市)へ移りました。豊臣家臣の毛利秀頼が再び飯田城に入り、下伊那を支配しました。

下伊那では、飯田城が唯一の城となり、ほかの城は不要となったために取り壊されたでしょう。

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、徳川家とその家臣は、かつて豊臣方に明け渡した旧領地に復帰しました。小笠原信嶺は、徳川氏家来の酒井忠次(ただつぐ)から信之(のぶゆき)を養子に迎えていましたが、信之は伊那郡復帰を望みませんでした。信之は子孫が各地を転々とした後、越前勝山藩(福井県)の藩主となりました。

一方、信嶺の弟長巨は故郷の伊那郡に復帰し、伊豆木に陣屋を構えました。

飯田城には、府中小笠原氏の秀政(ひでまさ)がしばらく在城し、後に松本城へ移りました。

こうして、分裂をしながらも小笠原氏は戦国時代を生き抜き、全国各地に広がったのでした。

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