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旧小笠原家書院

ページID:0045492 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月19日更新
外観

旧小笠原家書院(きゅうおがさわらけしょいん) 1棟

江戸時代初めに造られた武家の書院(※1)で、住宅としては全国で2番目に重要文化財に指定されました。

区 分:重要文化財(昭和27年3月29日 国指定)

所在地:飯田市伊豆木3942

所有者:飯田市

時 代:江戸時代 寛永年間(1624~1643)

構 造:懸造(かけづくり ※2) 一重入母屋造(いりもやづくり ※3) 妻入(つまいり ※4) 正面庇付(しょうめんひさしつき) こけら葺(※5)

※1 書院:書斎(しょさい)として利用される他、居間・応接間として利用されました。

※2 懸造:京都の清水寺の舞台などで知られている、崖や傾斜地に張り出して造られた建物です。長い柱を貫(ぬき)と呼ばれる部材で固定し、床下を支えています。

※3 入母屋造:本を伏せたような三角形の屋根(切妻 きりづま)の妻側(三角形の部分)の下部に屋根を足した構造をいいます。妻側は、上部は三角形の壁となっており、下部は台形の屋根となります。一重とは、屋根が二階建てのように重なっていないことです。

※4 妻入:建物の妻側(※2)に出入り口がある建物をいいます。

※5 こけら葺:2~3mmの薄い木の板を重ねた屋根です。水に強いサワラ・ヒノキなどが用いられています。「こけら」には、よく似た漢字「柿」を代用として使う場合もあります。

景

規 模:桁行(けたゆき ※6)14.4m、梁間(はりま ※6)11.5m 

※6 桁行・梁間:本を伏せたような三角形の屋根の場合、背表紙にあたる屋根の平な尾根(棟)と同じ方向が桁行、三角形にみえる方向が梁間です。

概 要:

最後の松尾城主、小笠原信嶺(のぶみね)の弟、長巨(ながなお)は、慶長5年(1600)に旗本(はたもと ※7)として伊豆木を与えられ、間もなくこの屋敷を建てて住みました。

屋敷には、城門・物見櫓(ものみやぐら)の他、広間・台所など多くの建物がありましたが、明治5年(1872)にその多くが取り壊され、書院だけが残されました。その際、御表の玄関を引き移して書院の正面入口としました。

主屋(おもや ※8)は田字型に4室が並び、東南西の三面に入側(いりかわ ※9)が設けられています。

乱世を生き抜いた小笠原長巨らしく、内部の大菱欄間(おおびしらんま ※10)や格天井などに桃山風の豪壮(ごうそう)さを伝えており、近世初期の地方武家住宅を知る遺構として貴重です。

※7 旗本:江戸時代、将軍直属の家臣団のうち、石高(こくだか:土地の生産性を米の生産量に換算し、石という単位で表したもの)が1万石未満で、将軍と同じ儀式に参列できる身分(御目見 おめみえ)をいいます。

※8 主屋:母屋とも書き、建物の主要な柱に囲まれた部分をいいます。

※9 入側:いわゆる縁側のことで、建物の周りにめぐらした板敷の通路をいいます。

※10 欄間:天井と鴨井(かもい:障子やふすまなどをはめ込む天井側のレール)の間にある、通気・採光のための開口部をいい、透かし彫りや格子の板が装飾を兼ねてはめられています。

南一の間(書院間)

南側の奥の間で、2間(けん ※11)×2間半の11畳で、1間半の床の間と花頭窓(かとうまど ※12)の付書院(つけしょいん ※13)がつきます。天井は格天井(ごうてんじょう ※14)、入側境は腰高障子(こしだかしょうじ ※15)です。

※11 :建物の柱と柱の間のことをいい、建物の規模をいう時に用いられます。1間は約1.82mです。

※12 花頭窓:上部を花形、または火炎形にした特殊な窓をいい、火灯窓、華頭窓、架灯窓などとも書かれます。

※13 付書院:床の間の脇の、縁側に張り出した棚をいいます。

※14 格天井:木材などで方形などに区画された天井をいいます。

※15 腰高障子:下部に約60cmの板を張った障子をいいます。現在は外されています。

もや

南二の間(次の間)

南側の手前の間は、3間×2間半の15畳で、3間の床の間をつけ、書院間との境に大菱組(おおびしぐみ)の欄間を入れ、格天井としています。

北一の間(居間)

北側の奥の間で、2間半×2間半の11畳で、1間半の床がつき、棹縁天井(さおぶちてんじょう ※16)としています。

※16 棹縁天井:棹縁と呼ばれる細い横木を通し、その上に板を張った天井をいいます。

北二の間(茶間)

北側の手前の間は、3間×2間の12畳で、棹縁天井としています。

入 側

南側の中央に竹の節欄間(※17)をつけ、杉戸を立てています。杉戸は格式(かくしき)を高めており、旧小笠原家書院では、これより奥へは殿様しか入ることができなかったといわれます。外回りには一段高い位置に敷居(しきい ※18)を敷いて障子を立て、外側に雨戸(あまど ※19)を設置しています。

解説

※17 竹の節欄間:竹の節のような切れ目を入れた小柱の上下に横木を入れ、中に斜めの材を入れた欄間をいいます。

※18 敷居:戸や障子をはめるために、床側に敷かれた横木のレールのことです。

※19 雨戸:防風・防雨・遮光・防犯などの目的で開口部に設置された建具をいいます。

竹の節

玄 関

正面

間口3.75メートル、奥行3.44メートルの向唐破風造(むこうからはふづくり ※21)、こけら葺の建物で、虹梁(こうりょう ※22)上に小笠原家の家紋「三階菱(さんかいびし)」を入れた蟇股(かえるまた ※23)を置いています。

※21 向唐破風:破風とは、妻側(本を伏せたような三角形の屋根で、三角形にみえる方向)の建築の造形のことをいい、唐破風とは、中央が上に反り、両端が外側に反った形の屋根をいいます。軒(のき)の屋根そのものの形を変えた軒唐破風と、軒の屋根とは別に出窓のように設けられた向唐破風があります。

※22 虹梁:虹形に上に反った梁(はり)をいいます。

※23 蟇股:梁などの上に置かれる建築部材で、カエルが股を広げたような形をしています。

ここに注目!

全国でもここだけの書院

建物の良さはその中に入ってみないと実感できません。しかし、全国の重要文化財の書院はほとんどが寺院などの所有で、一般に公開されていません。重要文化財では数少ない屋内に入ることができる書院です。

また、江戸時代初期の武家住宅は二条城(京都市 重要文化財)と旧小笠原家書院しかなく、全国に5000家余りあったといわれる旗本のうち、屋敷が残されているのは旧小笠原家書院だけといわれています。

最高級の木材 節がない!継手(つぎて ※24)がない!

木材は同じように見えても一本ごとに性質が異なり、節やくるいが少なく、木目の詰まったものが建築部材に向いているといわれます。

書院の主屋には多くの檜が使われていますが、何と節が一つもありません(※25)。柱はもちろん、入側の床板も、長さ約1間(1間は約182cm)、幅1尺(1尺は約30.3cm)以上ある板ですが、節が一つもありません。

また、長押(なげし ※26)などの部材は、通し(とおし)といわれる継手がない一本の木材でできています。丈夫ですが材料の確保は難しくなります。

※24 継手:二つの部材を長軸方向に接続した接合部をいいます。

※25 後世の補修個所では節があるものもあります。

※26 長押:柱どおしを水平に繋げる部材で、外から釘などで留めます。

最高級の木材 絹柾(きぬまさ)!笹杢(ささもく)

年輪の間隔が1~2mmの糸のように細い柾目(まさめ ※27)を糸柾(いとまさ)といい、最高級の建築部材です。それよりも細いものは、絹柾と呼ばれるそうです。

書院の柱や長押の木目の緻密さをみて下さい。ものにもよりますが、最も木目が積んでいるものでは、1cmに約25層の年輪があるそうです。これほどの緻密な木目の檜は、現在ではほとんど手に入らないでしょう。

さらに、入側の床板のほとんどや、場所によっては柱に笹杢と呼ばれる笹の葉を重ねたような木目も現れています。笹杢は美しい木目の一つとして珍重されています。これだけ目の積んだ笹杢は、やはり現在では入手困難でしょう。

ぜひ、ご自身の手で400年前の木の肌を触ってみてください(爪を立てないようにお願いします)。

※27 柾目:木を製材した時に現われる年輪の模様で、木目が真っ直ぐ並行しているものをいい、年輪に対して直角かそれに近い角度で切った面です。

柱
ささもく
ささもく

洒落(しゃれ)た釘隠し(くぎかくし)

長押などを留めている大釘の頭を隠す飾りを釘隠しといいますが、永楽通宝(えいらくつうほう)を模した珍しいものです。永楽通宝は、昔の中国の銅銭で、慶長13年(1608)まで日本で流通していました。また織田信長の旗印としても知られています。

釘かくし

伊豆木陣屋(いずきじんや)

陣屋とは、江戸時代、城を持たない下級の大名や旗本などの館や役所などをいいます。城とは呼ばれませんが、実際にはセキュリティ対策として防御施設が設けられています。

えず
1 御門(ごもん)(飯田市伝馬町専照寺の山門として移築)  2 物見櫓(ものみやぐら)  3 御用所(ごようしょ)  4 書院  5 御居間(おいま)  6 御用部屋(ごようべや)  7 女中部屋(じょちゅうべや)  8 御料理処(おりょうりどころ)  9 御宝蔵(ごほうぞう)  10 茶室  11 御西(おにし)  12 御土蔵  13 御守殿(ごしゅでん) 14 米蔵  15 御厩屋(おうまや)  16 矢場(やば)  17 米蔵

伊豆木の陣屋は、書院の他にも御用所や御守殿などの建物がありましたが、玄関と書院を除いて取り払われてしましました。明治5年(1872)に描かれた絵図から、かつての陣屋の様子をかいま見ることができます。

月見櫓

書院の東側に、月見櫓櫓台(やぐらだい)の石垣などが残っており、この下に城門がありました。何回も曲がる通路と城門の正面に現われる石垣は、真っ直ぐ城に近づけない工夫で、城門を横から見下ろす櫓台など、城の虎口(こぐち ※28そのものです。

※28 虎口:城の出入り口をいい、門があった場所です。押し寄せる敵兵を退けるための工夫がされています。

いつ建てられたの? 

建築年代は江戸時代初め、寛永年間とされていますが、他にも説があります。

また、玄関はもともと別の建物にあったものを、明治時代に書院へ移したものですが、玄関と書院は建てられた年代が別であり、玄関を書院よりもやや古い建築と考える研究者もいます。

慶長年間(1600~1615)説

建物に桃山文化(※29)の特徴を多く残しており、江戸時代には見られな特徴をしていることから、慶長年間(1596~1615 慶長5年(1600)以降)の建築と考える説です。

※29 桃山文化:豊臣秀吉の天下統一の気運や、豪商の出現、海外文化の流入を背景とした、16世紀終わりから17世紀はじめの、豪華で華麗な文化をいいます。

元和年間(1615~1624)説・元和3年(1617)説

元和3年(1617)、小笠原長巨は、江戸の橋の建築部材485本を領内から伐りだすよう命じられたことが、小笠原家の旧記にあります。この時に余った部材で書院が建てられたといわれています。

寛永年間(1624~1643)説・寛永元年(1624)説

昭和44・45年の修理工事の際に「寛永」と墨書きされた板が発見されました。

このことから、寛永年間の建造とされましたが、小笠原長巨が亡くなる寛永11年(1634)以前の建築と考えられ、より元和に近い寛永年間初期の建築とされています。元和から寛永に改元した寛永元年(元和10年)の完成とみる研究者もいます。

伊豆木小笠原初代長巨

松尾小笠原氏の信貴の次男として天文20年(1551)に生まれ、室(妻)は武田信玄の異母弟の娘です。

兄信嶺と同じく武田家に仕えましたが、天正10年(1582)、織田信長が武田討伐を開始すると信嶺は織田方となり、長巨は人質として織田家に送られました。信長の没後は信嶺と共に家康に仕え、天正18年(1590)に関東へ移りました。

関ヶ原の合戦(慶長5年)では、美濃岩村城・苗木城を攻めており、その後に旧領の伊那郡に復帰して伊豆木1000石を与えられました。翌年に領主が決まるまでの一時期、伊那郡10万石を預かっていました。

大坂冬の陣(1614)では箱根で関所を守衛し、大坂夏の陣(1615)では枚方(大阪府)に滞在しました。

伊豆木の鯖鮨は、小笠原長巨が近畿地方に出兵した際に、兵糧食として保存食である鯖鮨の調理法を聞いてきたものといわれています。

寛永11年(1634)、84歳で亡くなりました。

見学・アクセス

○内部の見学は有料になります。

○駐車場あり(県道491号沿い 興徳寺下)

○信南交通 乗合バス三穂線「興徳寺下」 徒歩3分

○JR飯田線「天竜峡駅」 徒歩35分

詳しくは、文化財関連施設の小笠原資料館の情報をご覧ください。

書籍等案内 ~もっと知りたい方へ~

『重要文化財小笠原家住宅修理工事報告書』 飯田市

『伊豆木小笠原氏と小笠原書院』 久保田安正

いずれの図書も、飯田市立図書館(外部リンク)でご覧いただけます。


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