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恒川官衙遺跡

ページID:0073680 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月16日更新

恒川官衙遺跡(ごんがかんがいせき) 1区域

区 分:史跡(平成26年3月18日 国指定、平成28年10月3日 追加指定)

所在地:飯田市座光寺3446 他

所有者:飯田市 他

時 代:奈良・平安時代

規模等:40,202.15平方メートル

概 要:

奈良・平安時代、7世紀後半から10世紀前半にかけて伊那郡を治めた役所の跡地と考えられる遺跡です。官衙とは官庁・役所のことで、郡衙(ぐんが)であれば郡役所、国衙(こくが)であれば旧国の役所(現在の県庁相当)を示します。

恒川遺跡群からは、正倉と呼ばれる税である米を納めた建物跡と建物群(正倉院)を区画する溝、厨家(くりや)という給食施設とみられる建物跡、祭祀跡などが見つかっており、古代国家の成立時における地方統治のあり方を知る上で重要な遺跡です。

解 説:

確認された主な遺構

正倉

しょうそう 正倉イメージ

奈良県東大寺にある正倉院のような、大規模な高床式の倉庫です。東大寺正倉院は、寺の宝物を収蔵していますが、本来、正倉とは税である米や穀物を納めた施設をいい、官衙の中心施設です。恒川遺跡群の中央北寄り、JR元善光寺駅の東側に建てられています。地上にあった建物本体は、解体・焼失などにより残っていませんが、建物を支える基礎構造が地中に残されており、現在(2020年)、22棟の正倉と考えられる建物跡が見つかっています。

しょうそう 8世紀前半の正倉(ST05)

しょうそう 8世紀後半とみられる正倉(S B001) 礎石は一抱えもある大きな石

古い段階の正倉は、地面に大きな穴を掘って柱を埋めて固定した掘立柱建物で、新しい時期の正倉は、大きな平石を地面に設置してその上に柱を立てた礎石建物です。屋根は茅葺き(かやぶき)または板葺きであったと考えられますが、瓦が出土していることから、礎石建物の一部に瓦葺きの建物があった可能性があります。また、付近から炭化米が一定量出土していることから、正倉が火災にあったことも判明しています。

正倉区画溝

正倉院 正倉院イメージ

区画溝 区画溝は写真中央左下、黄色い線は溝の推定線

塀や溝で区画した正倉のある場所を正倉院といい、恒川遺跡群でも正倉院を区画する溝が確認されています。北東側で未確認ですが、長辺(およそ東西方向)215m、短辺(およそ南北方向)150mで、北側にある高岡第1号古墳を避けた台形をした形とみられています。溝の規模は、場所により異なりますが幅2~3.5m、深さ0.3~0.9mの、逆台形の断面をしています。

厨家とみられる施設

くりや 厨家イメージ

厨は役人に給食を提供する施設で、恒川遺跡群の北側で確認されています。

くりや 掘立柱建物の重なり合い。建物毎色を分け、円形は柱、直線は外壁の位置を示した

掘立柱建物跡と、これに近接して小規模な竪穴建物が繰り返し建てられたことが確認されています。竪穴建物は半地下式の建物で、一般的には住居に利用されたと考えられていますが、ここでは竈(かまど)を使った炊事施設「竈屋」であったと考えられます。

郡衙北限溝

みぞ S D009 北側(写真左)には谷が入り込んでおり、傾斜地となる

恒川遺跡群の北端に位置する溝です。段丘の縁に沿って、幅2m、深さ0.5~0.7mの溝が確認されています。炭化米が出土せず、溝の南側には正倉が建ち並ばないことから、正倉院を区画する溝とは別であり、地形的に遺跡群の北端に位置することから、郡衙の北限を示す区画溝とみられています。

祭祀跡

恒川清水 恒川史跡公園清水エリア

恒川遺跡群のほぼ中央に、恒川清水(ごんがわしみず)と呼ばれる湧水地点があります。恒川遺跡群の南側は、高さ数mの段丘によって上下2段に分かれており、清水は段丘の落ち際の北端に位置しています。段丘の落ち際は地下水が得られやすい場所で、近年まで生活用水の一部として利用されており、現在も信仰・祭祀の場になっています。清水付近の発掘調査では、馬形(うまがた)・人形(ひとがた)・斎串(いぐし)などの木製祭祀具が見つかっており、古代においても湧水を核とした祭祀が行われたとみられています。

主な出土遺物

陶硯(とうけん)

すずり

(すずり)は役人が文書を書くために必要な道具で、当時は石を削り出した硯は少なく、粘土を焼いた須恵器の硯が多く使われていました。硯として焼かれた専用硯(せんようけん)と、お碗などの底部を硯として使った転用硯(てんようけん)があります。恒川遺跡群からは、88個の陶硯が出土しており(平成24年度末)、地方官衙としては全国的に見ても突出した量といえ、恒川官衙遺跡を特徴づける遺物です。これには、伊那郡司が信濃国全体の牧を管理する職務を兼務していた時期があったこと、東山道の難所 神坂峠(みさかとうげ:史跡)の東側の最初の郡衙であることも、事務量の多さに関連しているものとみられます。飯田市有形文化財。

墨書土器(ぼくしょどき)

かいゆうとうき 「厨」灰釉陶器椀(9世紀末)

稀に土器に文字が墨書きされていることがあり、墨書土器と呼ばれています。書かれているものは、文字であったり、図形、記号、呪術的な絵画であったりします。恒川遺跡群では、「官」「信」「厨」等の墨書土器が確認されており、官は役所を、厨は厨家(くりや)の存在を示しているものとみられ、信は信濃を示す可能性があります。飯田市有形文化財。

かわら

平瓦・軒瓦・軒丸瓦が出土しています。当時瓦葺きの建物は寺院建築か正倉などに限られており、正倉院を区画する溝から出土したことから、正倉に葺かれていた可能性が考えられています。しかし、瓦の出土量が少ないことから、屋根一面を瓦で葺いたのではなく、棟や軒などの主要な部分にのみ瓦を用いた可能性もあります。火災にあったと考えられる瓦もあります。飯田市有形文化財。

炭化米

たんかまい  上から、糒状、稲籾、糒状、稲籾、稲籾、雑穀

正倉の柱掘り方(※1)やその周辺、区画溝などから、焼き米が出土しています。正倉が度々火災にあったことを示すものです。また、炭化米は、稲籾の状態で塊となったもので、籾粒が揃うものと揃わないもの、籾殻がないご飯粒が握り飯状になったもの等があり、それぞれ「頴稲」、「穀稲」、「(※2・3・4)の可能性が指摘されています。さらに、粟と考えられる炭化穀物も出土しています。炭化米を理化学的に分析した結果、西暦651~679年、714~861年の間に収穫されたことを示す数値が出ました。後者は年代幅があり絞り込めませんでしたが、7世紀後半、8~9世紀にかけて、正倉が火災にあったことを示しています。

  • ※1 掘り方(ほりかた):基礎を作るために地面を掘ることをいいます。柱を立てるには、柱よりも大きな穴を掘って柱を立て、その後回りを埋め戻しますが、埋め戻した部分をいいます。
  • ※2 頴稲(えいとう):穂のまま(茎に繋がった状態)で収められた稲籾。
  • ※3 穀稲(こくとう):脱穀により茎から外され、一粒一粒バラバラになった状態の稲籾。
  • ※4 糒(ほしい):干飯。炊く・蒸すなどで食べられる状態にしたご飯を乾燥させ、再度水を加えるなどして食べる保存食・非常食で、今のアルファ米に近いものです。

和同開珎銀銭・富本銭(わどうかいちんぎんせん・ふほんせん)

わどうかいちん 和同開珎(表)

ふほんせん 富本銭(表)

和同開珎は、和銅元年(708)に日本で発行された貨幣です。銀銭と銅銭とあり、銀銭は発行期間が約1年と短く発行数も多くありません。奈良時代の大型の竪穴建物から出土しました。富本銭は、天武天皇12年(683)の頃に発行された、わが国最古の鋳造貨幣とされています。座光寺地区の個人宅に伝えられたもので、恒川遺跡群から出土したと考えられます。ともに都からもたらされたもので、東国からの出土事例は稀です。長野県宝。

緑釉陶器(りょくゆうとうき)

りょくゆうとうき 緑釉緑彩といわれる絵付け技法による、花文の椀(部分) 9世紀 

鉛・銅を主成分にした釉(うわぐすり)を掛けて、緑色に発色させた陶器です。中国の青磁を模して国内で生産され、官衙や寺院などに供給されました。恒川遺跡群全般から出土していますが、遺跡南側の官人(かんじん)の居住域とみられる場所から比較的多く出土しています。

木製品(祭祀具)

祭祀具 上から、斎串(5)、刀形(2)、馬形(3)、人形、鳥形、馬形(2)、鏃形(2)

恒川清水の南西側の流路から出土したもので、工具・農具・食器などの木製品に混ざって、人形(ひとがた)・馬形・刀形・鳥形・鍬形・舟形・斎串(いぐし)などの祭祀具があります。これらは、厄災を引き受けて一緒に流される形代(かたしろ)、実物に代わって神に奉納される道具、場を清める道具などとして使われたとみられており、恒川清水が祭祀場であったことが分かります。古代においては、災害や飢饉から免れ安定した行政を行うため、祭祀行為も行政的に行われました。

郡衙の変遷

伊那郡衙は、7世紀後半から10世紀前半にかけて郡衙が機能したと考えられています。

官衙設置以前 ~7世紀後半

座光寺には、史跡 飯田古墳群の一つである高岡第1号古墳(6世紀前半築造)があり、古墳時代から馬の管理によって古代国家を支えていた有力な豪族がいた地域です。7世紀後半には遺跡の東側・南東側に小型の高床倉庫が配置され、豪族の居宅があったと推定されています。

官衙の設置 7世紀後半

そうこ 倉庫と推察される側柱建物(ST12) 黄色が外壁、オレンジ色は柱掘り方、水色は布掘りの範囲を示している

本格的な正倉院が形成される前の状態です。正倉とみられる建物が設置されますが、規模は3×3(※1)と小規模な側柱構造(※2)で、範囲も狭く正倉院の区画もされていませんが、竈屋とみられる施設が設置されるなど、官衙に関連する諸施設がある程度整備されています。しかし、遺跡東側には竪穴建物があり、集落域がまだ付近に残ります。

  • ※1 間(けん):柱と柱の間(あいだ)のことをいい、建物の規模を表す時に間口と奥行を間で表します。現在は1間が約1.82mと決まっていますが、古代では長さを示す単位ではないため、建物によって長さが異なります。
  • ※2 側柱(がわばしら):建物外壁の柱をいいますが、ここでは、間仕切りの柱や、床を支える束柱(短い柱)がない構造をいいます。
  • ※3 布掘り(ぬのぼり):溝状に細長く掘る基礎工事をいいます。掘立柱建物では、布掘りの後さらに柱の部分だけ掘る壷掘りを行っており、布掘りには地盤強化を図った改良(地業)の意味合いがあります。

8世紀前半

しょうそう ST05 黄色の円形は柱の推定位置、オレンジ色は柱の抜き取り穴、水色は布掘りの範囲を示している

4×3間の総柱構造(※)の正倉が建ち並び、区画溝が掘られ正倉院が形成され、管理棟とみられる掘立柱建物も設置されます。遺跡東側にあった竪穴建物は廃止されており、遺跡の南側に新たに移転・再編されたかもしれません。

  •  総柱(そうばしら):建物外壁だけでなく、1間ごとに格子状にくまなく柱を立てて床を支えた構造をいいます。

8世紀後半から9世紀代

そせき 礎石建物(S B001) 礎石の一部は、後世耕作の支障になるため撤去・移動されている

前半に引き続き正倉院がありますが、正倉が掘立柱から礎石建物に構造が変わり、一部に瓦を葺いた建物があったと考えられます。伊那郡衙を特徴づける陶硯は、8世紀を中心とした時期で、8~9世紀が伊那郡衙の最盛期であったと考えられます。

官衙の縮小 9世紀末から10世紀前半

8世紀代の正倉院の建物配置は大きく崩れ、正倉院の区画溝も埋没しています。8~9世紀に正倉院であった場所から「厨」の墨書土器が出土していることから、竈屋の位置も変わっているものとみられます。

郡衙の終焉 

9世紀末には確実に郡衙が存在するものの、以降規模が縮小し、12世紀初頭には郡衙の東側に竪穴建物が建てられていることから、郡衙の機能が失わたてみられます。その後は、『吾妻鏡(※)の記載から、少なくとも12世紀後半には荘園となっていたと考えられます。

  •  吾妻鏡(あずまかがみ):鎌倉時代に成立した歴史書で、日記のように出来事が時間軸で記載されています。文治2年(1186)3月12日の条に、伊那郡の年貢未納の荘園として、信濃国の“郡戸庄”があり、座光寺周辺が荘園になっていたと考えられています。

もっと詳しく

座光寺という場所

えんけい 遺跡遠景(東側から)

伊那谷は東西を標高3000m級の山脈に挟まれ、南西側は標高1500m前後の三河高原で閉塞された盆地です。三河高原の山間地を縫って文物の往来がありましたが、時代により主要な街道は変遷しています。古代においては、恵那山(2191m)の北側の神坂(みさか)峠(1569m)を官道東山道が通過していました。東山道は阿智村へ下りて、天竜川右岸(竜西)を通って伊那谷を抜け、佐久郡から上野国(群馬県)へ通じていたと考えられています。難所で知られる神坂峠は、東国への入口にあたる場所でした。伊那郡衙は、都からみれば神坂峠を越えて最初にある郡衙で、東国からみれば神坂峠の手前にある郡衙ということができます。

このような地理条件が、伊那郡の事務量の多さや、後述する郡長官の役職にも影響しているかもしれません。

伊那郡とは

古代律令期の信濃国は、伊那郡・諏訪郡・筑摩郡・安曇郡・更級郡・水内郡・高井郡・埴科郡・小県郡・佐久郡の10郡からなり、木曽郡は美濃国恵那郡に属していました。伊那郡は信濃国の南端にあたり、『和名類聚抄(※1)によると、伴野(ともの)郷、小村(おむら)郷、麻続(おみ)郷(麻績)、福智(ふくち)郷の4郷(流布本では輔衆(ふす)郷を加えた5郷)からなります。各郷の所在地は、現在残る地名等の研究から、伴野郷は下伊那郡豊丘村、福智郷は伊那市富県に比定されており、麻続郷は、善光寺如来の伝説から座光寺地区が考えられており、他の郷の場所は不明です。諏訪郡辺良(てら)郷の比定地から、天竜川左岸(竜東)では伊那市三峰川が、右岸(竜西)は、中世の史料から駒ケ根市太田切川が諏訪郡と伊那郡の境とみられています。古代の領域は不明な部分もありますが、いずれにしても現在の上伊那郡の一部までが伊那郡の範囲で、諏訪郡と接していたとみられています。

伊那の初見は、「科野国伊奈評□(鹿カ)大贄」と記載された藤原宮出土の木簡であり、7世紀末には科野国伊奈評(しなののくにいなのこおり)と表記されていたことが判明しています。また東大寺正倉院宝物の麻布袋に「□(信)濃国伊那郡小村□(郷)交易布一段 天平十八年(746)十月」と書かれており、和銅6年(713)の好字制(※2)により、郡名が改められたと考えられます。

なお、現在の伊那谷の行政区分は、上伊那郡と下伊那郡に分かれており、上伊那郡辰野町が諏訪郡・筑摩郡との境になっています。上伊那・下伊那といった区別は、戦国時代の史料から記載されるようになります。

  • ※1 和妙類聚抄(わみょうるいじゅうしょう):平安時代中期 承平年間(931~938)に編さんされた辞書。
  • ※2 好字制(こうじせい):地名の表記を、良い意味の漢字(好字)2文字を用いるよう、命令が出されました。

伊那郡の長官は、信濃国の馬を掌握

まきのしゅとう イメージ

伊那郡司(国司の下で郡を治める地方官)については、『類聚三代格(※)に、神護景雲2年(768)の格に引用された形で、信濃国牧主当伊那郡大領外従五位下勲六等金刺舎人八麿の記述があります。これにより、伊那郡の大領(だいりょう:長官)が金刺舎人八麻呂(かなさしのとねりはちまろ)であり、信濃国牧主当(しなののくにまきのしゅとう)を兼ねていたことが分かります。

当時、信濃国をはじめ東国では馬が飼育され、朝廷に納められていました。限られた時期ですが、伊那郡の長官は信濃国全体の牧の担当官でもありました。こうした伊那郡長官の立場は、伊那郡衙の事務量(硯の数)の多さと無関係ではないでしょう。

  •  類聚三代格(るいじゅさんだいかく):平安時代に書かれた法令集をいいます。律令制度において、律は現在の刑法、令は行政法・民法に該当し、格(きゃく)は律令の修正や補足、または律令を纏めたもの、式は施行細則を示したものです。

座光寺の由来

座光寺は他で聞くことがない地名ですが、由来には2説あります。

元善光寺縁起 座光の臼

推古天皇10年(602)、信州麻績の郷の住人 本田善光(ほんだよしみつ)が、国司の供で都へ上がり、難波(大阪府)で阿弥陀如来像を見つけて持ち帰り祀ったのが、地区内にある元善光寺の起源と伝わります。この時、如来像を安置した臼が光り輝いたことから座光の臼と呼ばれ、これが座光寺の由来となったとする伝承です。その後の皇極天皇元年(642)、阿弥陀如来は長野市へ遷座し、善光寺(ぜんこうじ)を名乗りました。

寂光寺(じゃくこうじ)

日本三代実録(※)貞観8年(866)2月2日の記事に、「以信濃國伊奈郡寂光寺。筑摩郡錦織寺。更級郡安養寺。埴科郡屋代寺。佐久郡妙樂寺並預之定額。」とあり、信濃国の伊那郡寂光寺ほかが、定額寺(じょうがくじ)となったことが分かります。定額寺とは、国分寺や、官寺(国の庇護と管理を受けた寺)に次ぐ寺格の寺で、国司の庇護と管理を受けた寺のことです。古代瓦の出土から古代寺院の推定地が恒川遺跡群の西側にあり、恒川遺跡群の付近に寂光寺が存在して、それが転化して座光寺になったとする説です。

  •  日本三大実録(にほんさんだいじつろく):平安時代に纏められた歴史書

ゴンガはグンガ?

恒川も他では聞かない地名です。その由来は郡衙(ぐんが)・郡家(ぐうけ)が転化したものではないか、といわれることがあります。しかし、地元では恒川を“ごんがわ”と発することが多く、江戸時代の検地帳にも「五川」等と記載されています。かつて周辺には複数の湧水があったといわれており、その小河川から五川の地名が生まれたと考えられます。

“恒川遺跡群”と“恒川官衙遺跡”

それぞれ“遺跡”と“史跡”の名称であり、似ていて紛らわしいですが、少し意味が異なります。

遺跡とは、地下に文化財を埋蔵している土地のことで、周知の埋蔵文化財包蔵地ともいい、文化財保護法92・93条で定められています。史跡とは、遺跡のうち、歴史・学術上価値の高いものをいい、文化財保護法109条で定められています。

はんい 赤線が恒川遺跡群、黄色点線が史跡指定範囲(概ねの範囲です)

恒川遺跡群は、JR飯田線元善光寺駅西側から、天竜川側の段丘の縁まで広い範囲が遺跡として周知されており、縄文時代早期(約8,000年前)から近世(江戸時代)まで、長い時代にわたって、居住地や墓地、生産地等として利用されてきた痕跡が確認されています。伊那郡衙が設置された奈良・平安時代でも、恒川清水よりも北東側は郡衙に関連する遺構が、清水よりも南西側は竪穴建物等が分布しており、官衙と居住生活域とにおよそ分けることができます。このうち、古代伊那郡衙に関する遺構が残されている区域が、史跡 恒川官衙遺跡に指定されています。

なお、通常“史跡”といえば、国が指定した史跡のことをいいますが、県や市指定の史跡との混乱を避けるため、あえて“国史跡”・“国指定史跡”等と表記する場合もあります。史跡以外の文化財(有形文化財・無形文化財・天然記念物等)も同じです。

“ご神火”

ご神火 イメージ

恒川の正倉火災の原因は明らかではありませんが、一般的には、農民の抵抗や郡司職を巡る政争、郡司らの不正隠蔽があったとされます。郡司らの不正隠蔽とは、正倉の備蓄米を使い込んだ役人が、上級官庁の検分をごまかすため、自ら正倉に火を放ち、ご神火(ごしんか)と称して証拠隠滅と責任逃れを図ったものです。

見 学

○官衙の遺構は、地下に埋もれているため見ることはできせんが、今後、史跡公園として整備する予定です。

○祭祀場所であった恒川清水とその周辺は、史跡公園されています。

恒川史跡公園 清水エリア 完成【飯田市からのお知らせ】(外部リンク)

○遺跡の内容確認のための発掘調査を実施しており、発掘の近況を恒川ニュースでお知らせしています。また、下記により現地見学も可能です。

場所:ページ末尾の地図及びその周辺

期間:令和4年5月上旬~令和5年3月下旬の平日(予定)

時間:午前9時~午後3時

備考:

  • 土日・祝祭日、お盆、年末年始を除きます
  • 雨天、その他の理由により調査を実施しない日、時間帯がありますが、予告は致しません
  • 写真撮影等、調査の状況により、立ち入りをご遠慮いただく場合もあります
  • 駐車場は整備されていませんので、通行の妨げになる場所や、私有地等への駐車はご遠慮下さい
  • 調査休止日・時間帯での現場への立ち入りを禁止します

パンフレット・参考文献等

関連情報

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