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御猿堂古墳 (飯田古墳群)

ページID:0050189 印刷用ページを表示する 掲載日:2022年5月27日更新

御猿堂古墳(おさるどうこふん)

区 分:史跡(平成28年10月3日 国指定「飯田古墳群」) 長野県史跡(※1)

※1 国の史跡指定地外に一部長野県史跡指定地があります。御猿堂古墳(上川路西第1号) 昭和44年7月3日 長野県指定。

所在地:飯田市上川路882-1 他

所有者:個人

時 代:古墳時代(6世紀中頃)

構 造:前方後円墳

規模等:

墳丘測量図 墳丘測量図(水色線は墳丘推定線・破線は周溝推定線)

○墳丘;全長65.4m(後円部径31.4m 前方部幅34.8m)・主軸N116°E(※2)

○埋葬施設:横穴式石室(※3) 全長13.01m (玄室長〈※4〉10.26m 幅奥から2.35~2.1~1.76m 高さ2.9m、羨道長〈※4〉2.75m 幅1.5m 高さ0.6m〈現状〉)・ 主軸N29°E

  • ※2 遺構の中心線が、北(North)から121度東(Eest)へ傾いているという意味です。西へ傾く時はW(West)を用います。
  • ※3 横穴式石室:古墳時代の石室には、縦方向に掘られ、蓋(ふた)をした竪穴式石室と、横穴を設けて出入り口とした横穴式石室があります。5世紀代は竪穴式石室、6世紀以降は横穴式石室が用いられました。竪穴式石室が個人を埋葬したのに対し、横穴式石室は入口を開ければ数代にわたり埋葬できます。
  • ※4 玄室・羨道:石室のうち遺体を安置する空間を玄室(げんしつ)といい、玄室へ通ずる通路を羨道(せんどう・えんどう)といいます。

概 要:

重要文化財である画文帯四仏四獣鏡(※5)の出土で知られる古墳です。周辺の発掘調査では、周溝の外側にもう一重溝を設けていることが確認されています。

  • ※5 画文帯四仏四獣鏡(がもんたいしぶつしじゅうきょう):円の区画の中に仏像と空想上の霊獣が彫られた鏡です。

墳丘 前方部からみた後円部

飯田古墳群では最も多く採用された、無袖式といわれる、玄室と羨道の境が不明瞭で細長い横穴式石室が、後円部の中腹に設けられています。

せきしつ 石室(入口付近から)

入口の羨道部から玄室奥まで、壁の一直線となっている無袖式ですが、最下段の側壁で内側に突き出ている箇所があり、袖が意識されていた可能性があります。

なお、入口部分は埋没しており、大変狭くなっています。

出土遺物

円筒埴輪・形象埴輪片(人物・盾・靭〈※6〉

銅鏡(画文帯四仏四獣鏡1・片3)、武具(鉄剣片1・鉄刀片1・鉄製環頭柄頭〈※7〉1・鞘尻〈※8〉1・鞘金具3・挂甲小札〈※9〉2・鉄鏃片1)、馬具(轡〈※10〉1以上・雲珠〈※11〉1以上・杏葉〈※12〉1・金具2)、装身具(金環〈※13〉3・玉類)、土師器〈※14〉(杯1) 他

  • ※6 靭(ゆき・うつぼ):矢を入れる道具です。
  • ※7 環頭柄頭(かんとうつかがしら):柄頭は刀剣の柄の端(グリップエンド)に環状の金具を付けたものです。
  • ※8 鞘尻(さやじり):刀を納める鞘の端を保護する金具です。
  • ※9 挂甲小札(けいこうこざね):挂甲とは鎧のことで、小札という金属・鹿角・木などの小さな板を繋ぎ合わせて造られたものです。日本では6世紀以降に普及しました。
  • ※10 轡(くつわ):馬の口に咬(か)ませる道具で、手綱(たづな)に繋(つな)いで馬を制御する道具です。
  • ※11 雲珠(うず):複数の革紐が交わる場所(辻)で革紐を留める金具で、中央が丸く高くなっています。
  • ※12 杏葉(ぎょうよう):馬具に吊下げる飾り金具です。
  • ※13 金環(きんかん):直径1~3cm程度の金属製の耳飾りで、銅製で金メッキを施したものです。銀メッキを施したものを銀環といいます。
  • ※14 土師器(はじき):古墳時代から平安時代にかけての素焼きの焼き物です。

銅鏡 重要文化財の画文帯四仏四獣鏡

竜丘地区の様相:

竜丘地区は、天竜川支流の毛賀沢川から久米川までの間ですが、新川(しんかわ)を境に南北のグループに分けられます。

4世紀から5世紀前半にかけては、葺石を貼るものもありますが、弥生時代以来の方形周溝墓(※15)につながる小型の方墳が造られて続けています。

5世紀中頃に兼清塚古墳が造られたと考えられており、兼清塚古墳の後には丸山古墳、大塚古墳と5世紀後半まで造られます。小河川を挟んで兼清塚古墳の南側では、兼清塚古墳にやや遅れて内山塚古墳(円墳)、鏡塚古墳・鎧塚古墳(帆立貝形古墳)、塚原二子塚古墳などが築かれ、塚原古墳群を形成します。なお、発掘調査事例が多くないことも考慮しなければなりませんが、竜丘地区から馬の埋葬事例は確認されていません。

6世紀になると、兼清塚古墳の一群は途絶えますが、塚原二子塚古墳の前方後円墳の系譜は金山二子塚古墳と続き、やや距離は離れますが、6世紀中頃の御猿堂古墳、6世紀終末の馬背塚古墳へと続いていきます。

一方、新川の北側では5世紀後半に権現堂1号古墳が築かれ、しばしの空白があり6世紀後半に塚越1号古墳が築かれています。

6世紀終末の馬背塚古墳を最後に、飯田下伊那では前方後円墳は築かれていません。

竜丘地区は、飯田古墳群の中でも最も古墳が密集する地区で、5世紀中頃から6世紀末まで前方後円墳の系譜が途絶えることなく続きます。飯田古墳群は、最終的に竜丘地区に集約していく様子がうかがえます。横穴式石室の特徴からみれば、東海地方と畿内との関わりが強い地域であったと考えられます。

その後の7世紀の様相は不明ですが、竜丘地区南部の上川路には、白鳳時代(※16)の瓦が出土している頃から、寺院が建立されたと考えられています。竜丘地区は古墳築造が終わったも、仏教文化を受け入れることで地域を治めていた集団が存続したと考えられています。

  • ※15 方形周溝墓:周囲に四角い溝を掘った墓をいいます。弥生時代以来の方形周溝墓は、古墳に比べ盛土の高さが低いことが特徴の一つです。
  • ※16 白鳳時代:飛鳥時代と奈良時代の間、645年から710年までのことをいいますが、年代については諸説あります。仏教文化が栄えた時代です。

書籍等案内:

アクセス・見学・注意事項:

  • 三遠南信自動車天龍峡IC 車6分
  • 飯田市考古博物館 車20分
  • 専用駐車場はありません。私有地・通行の妨げになる場所への駐車はお止めください。
  • JR飯田線「川路」駅 徒歩15分・「時又」駅 徒歩20分
  • 信南交通 市民バス 久堅線「駒沢橋」 ・「嶋」徒歩14分
  • 所有者・近隣の方へご配慮をお願いします。
  • 石室は古代の土木技術で造られており、現在の技術で安全が確保されているものではありません。特に地震や大雨の後は状況をよく確認してください。

周辺の古墳等:

  • 馬背塚古墳:徒歩3分
  • 久保田1号古墳:徒歩8分
  • 竜丘2号公園(大座2号古墳 移築石室あり):徒歩12分

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