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史跡 飯田古墳群

ページID:0050071 印刷用ページを表示する 掲載日:2024年1月16日更新

飯田古墳群(いいだこふんぐん) 13基

区 分:史跡(平成28年10月3日 国指定)

所在地:飯田市座光寺・上郷・松尾・桐林・上川路

所有者:飯田市 他

時 代:古墳時代(5世紀~6世紀)

構造等:前方後円墳(11基)・帆立貝型古墳(2基)

概 要:

飯田古墳群は、飯田市の天竜川右岸段丘上の南北約10Km、東西約2.5Kmの範囲に、古墳時代中期から後期(5世紀後半から6世紀末)にかけて継続して築造された、18基の前方後円墳と4基の帆立貝形古墳からなるまとまりをいいます。

この古墳群は、天竜川の支流で区切られた範囲でまとまった群となっており、座光寺(ざこうじ)・上郷(かみさと)・松尾(まつお)・竜丘(たつおか)・川路(かわじ)の5地区のグループ(支群)があります。

飯田古墳群は広範囲に及びますが、一体の古墳群として捉えることで、古墳時代中・後期にみられるヤマト王権による政治支配の状況や東国経営のあり方を知ることができるとともに、ヤマト王権を構成する地域社会の動向を知る上でも重要です。

このうち、比較的良好に残る11基の前方後円墳と2基の帆立貝形古墳が国史跡に指定されました。

塚原 竜丘地区 塚原二子塚古墳他(塚原古墳群)

地区 名 称 墳丘形態 墳丘規模 埋葬施設 時 代

指定古墳一覧   詳細はリンクをご覧ください。

座光寺 高岡第1号古墳 前方後円墳 72.3m 横穴式石室 6世紀前半
上郷 飯沼天神塚(雲彩寺)古墳 前方後円墳 74.5m 横穴式石室 6世紀前半
松尾 御射山獅子塚古墳 前方後円墳 58m 不明 5世紀末から6世紀初め
おかん塚古墳 前方後円墳 50m(推定) 横穴式石室2 6世紀後半
上溝天神塚古墳 前方後円墳 41.5m(推定) 横穴式石室 6世紀中頃
姫塚古墳 前方後円墳 40m 横穴式石室 6世紀前半
水佐代獅子塚古墳 前方後円墳 60m 不明 5世紀後半
竜丘 大塚古墳 前方後円墳 53m(推定) 竪穴式石室(推定) 5世紀後半
塚原二子塚古墳 前方後円墳 73m 竪穴式石室(推定) 5世紀末
鏡塚古墳 帆立貝形古墳 45m 竪穴式石室(推定) 5世紀後半
鎧塚古墳 帆立貝形古墳 40m 竪穴式石室(推定) 5世紀後半
馬背塚古墳 前方後円墳 50m以上 横穴式石室2 6世紀末
御猿堂古墳 前方後円墳 65.4m 横穴式石室 6世紀中頃

解 説:

飯田・伊那谷というところ

伊那谷 伊那谷南部 右下から左上にかけて天竜川が南流し、両岸に段丘が発達する。正面の山並みは三河高原、写真最高峰が恵那山(2191m)でその脇を神坂峠(※2)が通過する。

飯田下伊那地方は東西を赤石山脈(南アルプス)と木曽山脈(中央アルプス)、南を三河高原に挟まれた盆地です。地形学上は上伊那地方と合わせて伊那盆地と呼ぶのが正しいようですが、古くから「伊那谷」と呼び習わされています。

飯田はその南部、後の東山道(とうさんどう ※1)最大の難所、神坂峠(みさかとうげ ※2)の東麓に位置しています。東国の玄関口ともいえる長野県の南端で、陸上交通で重要な位置にありました。古代においては伊那郡衙が設置され、中世には信濃守護小笠原氏の本拠地となり、中世末期からは飯田城が下伊那の拠点となりました。

現在の行政区分では上伊那郡・下伊那郡に分かれていますが、古くは伊那郡であり、さらに古代においては現在の上伊那郡の一部も諏訪郡に属していたと考えられています。

  • ※1 東山道:古代から中世にかけての行政区分の一つと、その中を通る幹線道路です。行政区域としては、滋賀県から東北地方にまでの内陸部をいい、道路としての東山道は、岐阜県恵那郡から伊那郡へ入り、県内を縦断して佐久郡から群馬県へ抜けています。
  • ※2 神坂峠:下伊那郡阿智村と岐阜県中津川市の境にある標高1569mの峠で、神話の時代に日本武尊(ヤマトタケル)が通ったことや、平安時代に欲張りな国司が滑落したことなどで知られています。山頂から古代祭祀の跡が見つかっており、史跡(国)に指定されています。

飯田古墳群の展開(歴史)

飯田古墳群は5世紀後半に突如として開始され、各単位群で多数の前方後円墳・帆立貝形古墳が築造されます。

この時期、日本列島の広範囲で古墳の築造に変化が起こりますが、これは海上交通(船)から陸上交通(馬)へ変化したヤマト王権の交通政策の転換によるものとみられ、その背景には緊迫した北東アジア情勢が影響したと考えられてます。

飯田古墳群の出現もこうした列島規模の動きと連動したもので、ヤマト王権の交通政策の転換が長野県まで波及したものです。これまで文化的な繋がりが強かった太平洋沿岸部よりも、畿内地域や東海地域との関わりが強くなりました。飯田古墳群は、この地がヤマト王権による東国経営と関わりがあるとともに、一方で6世紀前半までは単位群毎に異なる様相もあり、各単位群で独自の周辺地域と独自の交流があったことを示しています。さらに、6世紀後半における前方後円墳の消長および畿内系横穴式石室(※3)の受け入れは、地域の再編成とヤマト王権の東国経営強化の過程をみることができます。

全体として、飯田古墳群が成立する5世紀の後半には5つの単位群がそれぞれに独自の特徴がありましたが、6世紀後半には、松尾・竜丘の二つの単位群で畿内地域からの影響が認められる展開となります。

飯田古墳群は広範囲に及びますが、一体の古墳群ととらえることで、古墳時代中期・後期にみられるヤマト王権による政治支配や東国経営のあり方を知ることができるとともに、豪族の連合政権であったヤマト王権を構成する地域社会の動向を知ることができます。

  • ※3 畿内系横穴式石室:石室のうち遺体を安置する空間を玄室(げんしつ)、玄室へ通ずる通路を羨道(せんどう・えんどう)といい、玄室と羨道の区別がはっきりしており、巨石で積み上げられた石室をいいます。奈良県の石舞台古墳に代表されます。
飯田古墳群築造以前 (4世紀~5世紀前半)

長野県内では、現在の長野市・千曲市を中心とした善光寺平(長野盆地)に、墳丘長60m超の前方後円墳が連続して築かれています。

一方、飯田下伊那には前方後円墳は築かれておらず、一般的に東海地域との繋がりが強いといわれる前方後方墳が3基確認されているだけです。多くの墓は方形区画で盛り土が低いもので、弥生時代的な時代が続いていたと考えられています。

前方後方墳 前方後方墳 笛吹1号古墳(伊賀良地区・消滅)

馬の導入 (5世紀中頃)

この頃から、座光寺・上郷・松尾の3地区で単位群で、丸い平面形で高く盛り上げた墳丘を持つ円墳が築造され始めます。同時に、古墳の周溝(しゅうこう ※4)や周辺からは、馬を埋葬した穴が見つかっています。

うま 埋葬馬 宮垣外遺跡(上郷)土坑10出土

馬は元々日本列島には生息しておらず、中国大陸からその管理技術と共に渡来人(※5)によって導入されたものです。馬の利用によって、物資の運搬量が飛躍的に向上するとともに、軍事力も強化されました。

  • ※4 周溝:墳丘の周囲にある溝をいい、区画や墳丘を大き見せる効果、墳丘の土の供給などの役割がありました。
  • ※5 渡来人:4世紀から7世紀にかけて、中国大陸や朝鮮半島から日本列島へ移住した人をいい、進んだ技術や政治体制を導入しました。
飯田古墳群の築造開始 (5世紀後半)

善光寺平で前方後円墳が築かれなくなったのとは対照に、伊那谷南部では前方後円墳・帆立貝形古墳が築造されます。

つかはらふたごづか 塚原二子塚古墳(竜丘)

5世紀代の埋葬施設は竪穴式石室で、上郷の溝口の塚古墳(前方後円墳・消滅)の石室からは、渡来系の特徴を残した人骨が出土しています。

みぞぐち 溝口の塚古墳(上郷)の竪穴式石室

古墳は死者を埋葬する施設ですが、死者の権力を示すとともに、後継者の正統性をも示すものです。前方後円墳は古墳の中でも最も権威のある形とされています。このような力を持つに至った背景には、農業ではなく直前に始まった馬との関わりが考えられ、馬の管理には先端技術を持った渡来系の人物や集団が関与したとみられます。

ばぐ 宮垣外遺跡(上郷)出土馬具 飯田市有形文化財

多地域との交流 (6世紀前半~中頃)

6世紀初頭になると、竪穴式石室に替わり横穴式石室が前方後円墳の埋葬施設になり、5地区すべての単位群で前方後円墳が築造されています。

座光寺単位群では、朝鮮半島の竪穴系横口式石室(※6)の系譜につながる石室が採用されています(高岡第1号古墳・北本城古墳など)。この系譜を引く石室は、その後も座光寺単位群で6世紀中頃まで採用されています。

高岡 高岡第1号古墳(座光寺)石室 壁の最下段の石は、平石を立てる特徴がある

また、上郷単位群では北関東地域、松尾・竜丘単位群では東海地域との関わりが想定される無袖式(※7)の横穴式石室が築かれるなど、地域ごとの独自性が認められます。

雲彩寺 飯沼天神塚(雲彩寺)古墳(上郷)石室 比較的小さい礫と細長い羨道部(一部後世に補修)

てんじんづか 上溝天神塚古墳(松尾)石室 無袖式と呼ばれるタイプ

一方で、座光寺・上郷・竜丘の3地区では、後円部に比べて前方部が長い前方後円墳が築造され、埴輪(はにわ)の樹立など、いくつかの点で単位群の間で共通性が認められます。

飯田古墳群で最大級である墳長70m超の前方後円墳は、この頃に、上郷の飯沼天神塚(雲彩寺)古墳と座光寺の高岡第1号古墳が築かれました。

  • ※6 竪穴系横口式石室:竪穴式石室の横(小口)から入り込むような入口を設けたもので、竪穴式石室から横穴式石室へ変化する過程の北部九州地方などでみられ、百済(くだら)や伽耶(かや)の影響を受けたといわれます。
  • ※7 百済・伽耶:百済は古代朝鮮半島の国家で、日本とは友好関係にあり、仏教を日本へ伝えるなどしました。伽耶は朝鮮半島南部の小国家群で、後に百済・新羅の一部となりました。
  • ※8 無袖式・両袖式:石室のうち遺体を安置する空間を玄室(げんしつ)、玄室へ通ずる通路を羨道(せんどう・えんどう)といい、玄室と羨道の境を袖といいます。境が不明瞭な石室を無袖式いい、左右両側の境が明瞭なものを両袖式、羨道がどちらかに片寄っているものを片袖式といいます。
集団の再編 (6世紀後半)

座光寺および上郷単位群では、6世紀後半に前方後円墳が途絶えます。

一方、松尾・竜丘単位群では引き続き前方後円墳が築かれ、巨石を用いた畿内的な大型の両袖式(りょうそでしき ※8)横穴式石室がおかん塚古墳、馬背塚古墳に築かれます。

ませづか 馬背塚古墳後円部(竜丘)石室 圧倒される巨石

飯田古墳群築造は、竜丘単位群の馬背塚古墳をもって、終焉を迎えます。

古墳の終焉とその後 (7世紀以降)

7世紀以降は前方後円墳は築造されていません。最後まで前方後円墳が造られた竜丘地区上川路では、白鳳時代(はくほう ※9)の瓦が出土しており、古墳築造後に仏教寺院が建立されたものとみられます。しかし、横穴式石室では奈良時代の8世紀まで、横穴式石室内で追葬(ついそう ※10)等の祭祀が行われていたことが、いくつかの古墳の調査事例から判明しています。

7世紀末になると、座光寺には豪族の館などとみられる施設が建てられ、律令時代(りつりょう ※11)になると伊那郡を治めた伊那郡衙(ぐんが ※12)が設置され、伊那谷の政治的中心地となりました。

  • ※9 白鳳時代:飛鳥時代と奈良時代の間、645年から710年までのことをいいますが、年代については諸説あります。仏教文化が栄えた時代です。
  • ※10 追葬:一度埋葬した施設へ、後に別の遺体を埋葬することです。横穴式石室は、入口の川原石(閉塞石)を取り外せば追葬が可能です。
  • ※11 律令時代:7世紀後半から10世紀頃までの、律令(古代国家の法律)によって国が人々を支配していた時代をいいます。およそ奈良時代から平安時代前半に該当します。
  • ※12 伊那郡衙:官衙とは役所を意味し、郡衙とは郡役所のことです。伊那郡衙は、7世紀後半から10世紀前半にかけて営まれており、正倉院を構成する建物址、館・厨とみられる建物址などが見つかっています。国史跡。

横穴式石室を間近で見学できる

飯田古墳群の特徴として横穴式石室の多様性が挙げられます。これはヤマト王権と密接な関係にありながらも、他地域との交流を示すもので、ヤマト王権の地域支配の実態を示すものです。そして、いくつかの古墳では石室に入り間近で観察するとともに、その規模を体感することができます。また、飯田古墳群(前方後円墳・帆立貝形古墳)だけでなく、石室を見学できる円墳もあります。

おかんづか おかん塚古墳(松尾)石室 奈良県石舞台古墳と同じ形

ひめづか 姫塚古墳(松尾)石室 片袖式と呼ばれ、赤色の彩色が残る

見学にあたって:

  • 個々の古墳については一覧のリンク先を参照してください
  • 見学者専用の駐車場は整備されていません。所有者・周辺住民・通行の妨げになる場所への駐車はお止めください。
  • 多くの古墳は私有地です。所有者の迷惑になるような行為は謹んでください。
  • 古墳に見学用通路も整備されていませんので、しっかりした履物が必要です。
  • 草木を抜いたり、石を動かしたりしないでください。
  • 石室は古代の土木技術で造られており、現在の技術で安全が確保されているものではありません。特に地震や大雨の後は状況をよく確認してください。

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